大手中ノ御門


大手中ノ御門



大手中ノ御門は、慶長12年(1607)築城の名手、藤堂高虎の縄張で築いた。江戸城大手六門の中で、唯一枡形の形式を取らず、続多聞長屋塀の中間を切って開けた上に、櫓を渡したのが中ノ門である。明暦3年(1657)に焼失し、万次2年(16598月に復興した。写真は、江戸城無血開城で入城した薩摩と長州軍の兵士達の記念撮影の風景である。





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現在の石積は、万治元年(1658)熊本藩細川綱利が再構築したものである。さらに元禄16年(1703)の地震で倒壊した石垣を鳥取藩主池田吉泰が修復している。中ノ門の警備は、持弓、持筒与力・同心が鉄砲25、弓25の備えで行なった。






本丸より中ノ御門の渡櫓門を望む

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大手三ノ門を抜けると左手に百人番所、その右前方に中ノ門がある。中ノ門の石垣は、江戸城の中でも最大級35t前後の巨石である。丁寧に加工された隙間のない、切込みはぎ・布積みの技法で積まれている。この登城路や天守台の石垣など主要な箇所は、西国大名から献上された瀬戸内海産の白御影石が使われている。



平成19年(20073月に完成した中ノ門石垣の解体修復工事で、築石同士を連結する銅製の「契り」や築石の据付に使用した銅製、鉄製の「敷金」、さらに築石を連結補強する「大鎹」などの珍しい遺物が出土した。




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百人番所


大手三ノ門の百人番所は、若年寄支配で江戸城内最大規模の鉄砲百人組(伊賀組・甲賀組・根来組・二十五騎組)の4組が、交代で警備していた詰所である。各組とも与力20人、同心100人が配置され、鉄砲25.弓25を備え、昼夜交代で同心が常時100人詰めていたことで百人番所と呼ばれている。




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百人番所全景(全長45m)

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大手三ノ門内の銅門跡、二ノ丸庭園の入口。

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by watkoi1952 | 2012-08-06 14:50 | 江戸城を極める | Comments(0)