枡形見附門
枡形見附門の構造
戦国末期に城郭の防衛力を向上させるため、濠に橋、城門の内側に石垣、土塁、塀の配置に工夫を施した「枡形門」と呼ぶ出入口が現れた。濠に架けられた橋は非常時には斬落とす仕組みであった。城攻めに敵を防ぎ、城兵を五十騎ずつ枡で計るように出撃させたことで枡形門の名がある。城に入る者は、まず一ノ門「高麗門」から枡形と呼ばれる空間に入り番所の監視を受ける。続いて右に曲がり二ノ門「渡櫓門」を通って城内に入る。
城内に入ったところの大番所でも監視を受けた。この枡形は戦略上、重要な門で二つの城門と櫓で外敵の侵入を防ぐ構造になっている。二重に構えることで攻撃側は枡形内に侵入しても二ノ門に阻まれ、櫓と周囲の矢狭間や鉄砲狭間の守備側から一斉攻撃を受けることになる。多くの枡形は侵入した攻撃側が容易に直進できないよう右折または左折をする構造になっている。
枡形見附門の警備
江戸城は濠で幾重にも囲まれ、要所要所に橋が架けられて、登下城の武士や城内に出入りする庶民の交通路となっていた。橋の内側には城門が設けられ、警備の武士が昼夜詰めて見張りや警護にあたっていた。城門の外側で番兵が見張る場所のことを「見附」という。見附の番は大名と寄合衆が務めた。寄合とは、3千石以上の家禄を受けながら役に付いていない幕臣である。三十六見附のうち寄合が詰めたのは外曲輪の13見附門(清水門/雉子橋門/数寄屋橋門/山下門/虎ノ門/赤坂門/四谷門/市谷門/牛込門/小石川門/筋違橋門/浅草橋門/浜御殿大手門)である。
これらの城門には、鉄砲5挺、弓3張、長柄5筋、持筒2挺、持弓1張が備えられていた。城門の番にあたるのは2名で毎月11日交代の月番制で3年間務めた。当番の旗本は肩衣袴姿で、羽織袴姿の番士3名、家来、給人、徒歩、足軽が従って詰めていた。将軍の御成りでは、熨斗目長袴姿、家来、給人は熨斗目半袴で、面番所中ほどの土間に盛砂をしてそこに平伏した。さらに枡形に家老1名、門際には留守居役1名が蹲踞の姿勢で平伏して将軍を迎えた。
江戸城大手門の枡形
見附は枡形の入口にある高麗門の外側に立ち番兵が見張る。警備は「内外諸門の定書」により譜代大名と三千石以上一万石までの旗本で組織された。門の開閉は、七つ半(午前5時頃)にくぐりの小扉が開けられ、太鼓を合図に明け六つ(午前6時頃)に大扉が開けられ、暮れ六つの閉門が行われた。

高麗門
高麗門は文禄/慶長の役(1592~1598)で考案され、西日本の城で造られ始めた日本における城門の形式の一つである。柱の構造は2本の鏡柱の上に冠木を渡して切妻屋根を被せ、その内側に開いた扉を収める控柱を立て、その上にも切妻屋根を被せている。元々、鏡柱と控柱を一つの大きな屋根に収める構造の「薬医門」を城門守備側の死角を減らすために簡略化したものである。
神社や寺院の高麗門には建物の性質上、扉がないものが多い。門という漢字は門柱と両開きの門扉を描いた象形文字であるが、次第に門扉を持たないものであっても境界に建てられた出入り口であれば「門」と呼ぶようになった。
渡櫓門(大手門)
第二の入城門が枡形を囲む石垣と石垣の間を渡すように架けられた櫓を「渡櫓門」と呼んでいる。櫓は有事の際の武器、弾薬、食糧などの貯蔵/補給蔵となっている。
by watkoi1952 | 2012-07-18 16:15 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)







