大手御門



大手御門







大手見附門


江戸城の正面を大手という。その正面の表門が将軍が出入りする大手門である。別名を追手門と呼ぶ。敵を正面に引付け搦手門(半蔵門)から出撃した城兵で敵を正面に追い詰めて戦闘を集中させる目的の門、追手門(大手門)という。慶長12年(1607)近世城郭の名築城家で知られる藤堂高虎によって築かれ、三百諸侯が式日に威儀を正して規定の供揃えで入城する登城正門となった。






高虎の築城は石垣を高く積み上げる事と濠の縄張(設計)に特徴があり、同じ築城名人で石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。家康はすでに二条城と伏見城を手掛けた藤堂高虎の城郭建築の才と忠誠を高く評価した。家康の信頼を得て高虎は外様大名でありながら譜代大名格として重用されたのである。






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元和6年(1620)江戸城の修復工事で伊達正宗、蒲生忠郷、相馬利胤らの御手伝普請で大手門の左右13町(1、417m)の石垣と枡形城門が完成した。大手門は特に厳重な警備体制が敷かれ、侍10人、鉄砲20、弓10、長柄槍20、持筒2、持弓1組の装備で10万石以上(7~8万石の場合あり)の「譜代大名」が交代で勤めた。







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上記2写真は、明暦3年(1657)に焼失し、万次2年(1659)に再建された大手門である。土橋の先に架けられた木橋の左が桔梗濠、右が大手濠。明治5年頃に撮影(内田九一)







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下馬将軍


登城する諸大名は下馬札のある大手門前で下馬する決まりがあった。供連の者が門前で主人の下城を待つ、休憩所の御畳蔵や腰掛が設えてある。門前にある姫路藩酒井家は三河以来の譜代名門の家柄で、この屋敷は寛永13年(1636)に三代将軍家光より拝領された。慶安4年(1651)家光が死去すると、わずか11歳の家綱が四代将軍職を継いだ。その翌々年に酒井家の当主忠清が老中に抜擢される。若く病弱であった家綱に変わり将軍職の実権を握り、欲しいままに権勢を振った忠清は、屋敷の前にあった下馬札に因んで「下馬将軍」と呼ばれた。











現在の大手門


昭和20年(19453月の東京大空襲で大手門の渡櫓門が焼失するが、昭和42年(1968)に復元された。大手門前の濠には木橋が架けられていたが、安全な維持管理と水位調節のため版築された土橋(土堤通路)となっている。




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桔梗濠から大手門を望む


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大手御門の高麗門より大手町ビル群を望む



高麗門は枡形の一の門で、表の二本の親柱の裏側に控え柱を建て、親柱上の切妻屋根と直角に低い屋根を架け、開いた扉を納めて雨露を凌ぐのである。このように従来の大門を簡素化した高麗門は、外部への死角をなくし視界を広めるため文禄年間に考案された。







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大手御門の鯱鉾


大手門の渡櫓門の屋根に取り付けられていた青銅製の鯱が枡形内に置かれている。この鯱は明暦3年(1657)の大火で焼失した後に再建されたものである。鯱鉾(しゃちほこ)の姿は魚で頭は虎、尾鰭は常に空を向き、背中には幾重もの鋭い棘を持つ想像上の動物である。鬼瓦と同様に大棟の両端に取り付け、火事の際には水を吐き出すという火除けの守りであった。織田信長が安土城天主の装飾に金鯱を取り入れ普及した。





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「大手門春の夕暮れ」昭和27年(1952)川瀬巴水画


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by watkoi1952 | 2012-07-17 17:45 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)