坂下御門



坂下御門



坂下見附門は、両陛下の通用門であり、宮内庁職員の出入口に使用されている。西ノ丸御殿の裏門坂下にあることで「坂下門」と名付けられた。坂下枡形門は、明治宮殿を造営する際に物資搬入車の通行の妨げになるため、高麗門と枡形石垣を撤去した。渡櫓門は、九十度位置を移動して、入城門の警護役目を果たしている。



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明治6年(1873)後方の蓮池巽三重櫓と左に連なる箪笥多聞に貯蔵した陸軍の砲弾火薬が爆発炎上した。三重櫓と箪笥多聞は焼失、石垣のみが残された。手前の渡櫓門が、90度右に向きを変えて設置したのが、現在の坂下門である。



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左に坂下御門の渡櫓門と高麗門、渡り土橋、右に蓮池二重櫓、箪笥多聞 蓮池巽三重櫓。最奥に富士見三重櫓。


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蓮池巽三重櫓,この濠奥に下乗橋がある。

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左上が西ノ丸裏御門、左下が坂下御門、右上は紅葉山東照宮霊廟の参拝を終えた将軍家光の一行、下に蛤濠(江戸図屏風)

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坂下門外の変


文久2年(1862115日、坂下門前の大名小路に屋敷を構える老中安藤対馬守信正が坂下門にさしかかると、水戸浪士ら尊王攘夷派6名の襲撃を受けた。2年前に、桜田門外の変を経験した幕府の警戒は、極度に厳重であった。信正は、軽傷で襲撃者6名は、その場で討ち倒された。



「安藤信正は、外国に対して屈辱的な条約を結んだ。これは国家の名誉を傷つけ、国の将来を危うくするものである。皇女和宮のご降嫁を願いながら、叡慮を安んじ、攘夷を実行しようとする意図がみえない。事ここに至っては、もはや我々は傍観するに忍びず、よって今日、この挙に出ずるものである」と、斬奸状に記して決行した。この坂下門外の変は、5年後の幕府倒壊に向けた、幕政反対の国民世論を反映したものであった。




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左に坂下門の渡櫓と枡形高麗門と木橋、中央に蓮池二重櫓に箪笥多聞、右上に富士見三重櫓が見える。








坂下門内・西丸裏御門下、蛤濠の曲線と本丸の富士見櫓

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西丸裏御門の坂下にあるので坂下門と称した。

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坂下門と皇居宮殿の俯瞰

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by watkoi1952 | 2012-07-12 16:22 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)