馬場先御門とGHQ連合司令部



馬場先御門とGHQ連合軍事司令部





馬場先見附門は、寛永6年(1629)に枡形門が完成していた。しかし、老中など幕閣の拝領地のため警備上架橋されず、不開御門と呼ばれていた。寛永12年(1635)家光が三代将軍就任祝賀に訪れた朝鮮特使団の曲馬を不開門内の馬場で上覧したことから朝鮮馬場と呼ばれた。それが後に、不開御門を「馬場先御門」と呼ぶようになった。







不開御門→馬場先御門


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明歴大火後の寛文8年(1668)に災害避難のため架橋された。譜代大名の上屋敷へ向かう家臣及び、通行手形を持つ商人の出入りが許された。



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明治37年(19045月、日露戦争の第1回戦勝祝賀会で、市民は提灯行列を行った。熱狂した市民行列の人波は、馬場先御門めがけて枡形内に殺到して、折重なった20名の死者を出す大惨事となった。戦国の築城家が敵の侵入を想定して、その進行を阻む目的で枡形門は造られている。直角に右折する通路の見通しのきかない枡形門を群衆が、通過するには危険この上ない軍事施設である。この重大事故によって、馬場先枡形門は撤去され、明治39年(1906)に拡張された凱旋道路が完成した。





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昭和5年(19303月、関東大震災からの帝都復興式典祭記念の大奉祝門が馬場先門の跡地に設置された。



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現在の馬場先門跡地


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馬場先門外の北側


浮世絵師の歌川広重は、寛政9年(1797)馬場先門外の八代洲河岸に置かれた定火消の同心・安藤源右衛門の長男に生まれる。若年寄支配の江戸の武家屋敷を護る定火消屋敷には、与力6騎、火消同心30人が常駐して警戒に当たった。廣重は、文化6年(1809)に火消同心を世襲して、20年間その職にあった。安藤は本姓で本名は重右衛門である。歌川豊広の門人、広重は号であり、定火消屋敷の跡地は明治生命ビルである。





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定火消屋敷に隣接した高倉屋敷では、儒者・室鳩巣が学を講じ、林見宜が医学を講じていた。その隣地には、江戸時代を通して文教の第一人者として君臨した林大学頭(昌平坂学問所)の拝領屋敷があった。ペリー提督が浦賀に来航して、強硬な態度で修好を求めていた。





浦賀に上陸したペリーが偶然目にした広重の浮世絵の風景画を見て大いに驚いた。これだけの芸術をもつ文化国民ならば話せばわかると、それ以来態度を一変させて平和的談判に変わった。そのとき、談判の折衝に当たったのが、火消役組屋敷から一軒置いた屋敷の林大学頭であった。








浮世絵師 歌川広重


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馬場先門外から日比谷方面


馬場先門外の八代州河岸沿いの東京會舘は、大正11年(1922111日、ルネサンス洋式の建物で民間初の国公賓を迎える社交場として、皇居外苑日比谷濠前に竣工した。戦後は連合国総司令部(GHQ)に接収され、将校クラブとして営業した。東京會舘の右側の帝国劇場は、明治44年(1911)日本初の演劇界に革新をもたらした本格的な西洋式大劇場として、皇居前に誕生した。帝劇は歌舞伎から大衆演劇まで幅広いジャンルの演劇から最新かつ最高峰のミュージカルの発信地として知られる。





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         東京會舘と帝国劇場







東京警視庁赤煉瓦庁舎


明治7年(1874115日鍛冶橋門内の津山藩上屋敷跡地に東京警視庁が設置され、薩摩藩士の川路利良が初代警視総監に任じられた。4年後の西南戦争では、警視隊と白兵戦で戦う抜刀隊を編成して西郷軍征討に参戦した。その後、薩摩閥で形成された邏卒は後に巡査と改称された。邏卒の上着である角袖(かくそで)からデカ(刑事)の俗称も生まれた。





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    鍛冶橋門内の右手東京警視庁鍛冶橋庁舎(明治16年)





明治44年(1911330日に警視庁は竣工した日比谷赤煉瓦庁舎に移る。しかし、大正12年(1923)の関東大震災で赤煉瓦建物は崩壊して災上した。軟弱地盤に建てられた耐震性の低い建物は爆破処理するしか術はなかった。一旦、仮庁舎を経て、昭和6年(1931)桜田門の現在地に警視庁は新築移転した。





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     帝国劇場と崩壊前の東京警視庁赤煉瓦庁舎






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第一生命ビルとGHQ連合軍司令部


関東大震災で焼失した東京警視庁赤煉瓦庁舎の跡地には、昭和13年(193811月に竣工した第一生命保険相互会社の新社屋が21階DNタワー手前の10階建てビルである。皇居外苑日比谷濠に面した一帯は、砂礫の堆積層で軟弱な地盤であった。そのため、地下深く40mまで掘り進め岩盤層の上に地下4階・地上10階建ての強固な耐震、耐火、耐弾に備えた建物を竣工した。





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太平洋戦争では屋上に米軍機の空襲に備えて高射砲が据えられていた。昭和20年(1945)敗戦後には、連合国軍司令部(GHQ)に接収され、司令部庁舎に使用された。平成7年(1995)第一生命館は最高司令官のマッカーサー執務室を含む部分保存され、隣接する農中ビルと一体化したDNタワー21が後方に聳えている。





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by watkoi1952 | 2012-07-08 13:10 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)