桜田御門
桜田御門
徳川家康が江戸に移封された時、小田原にあった永禄10年(1567)創設の富士山・上行寺の住職が、甲斐武田氏の出自で非凡な剣豪であった。元和6年(1620)江戸城の関門を護らせる目的で、桜田郷の地に上行寺を守備固めに置いた。この桜田村の要所が小田原街道の起点となり、東海道筋固めの小田原口と呼ばれていた。上行寺の大きな山門は、寛永13年(1636)高麗門と渡櫓門を築いて枡形城門に修築されて「外桜田門」と称した。
江戸城三の丸の桜田口は、内桜田門(桔梗門)と称していたため、混同しないように外桜田門と呼んでいた。上行寺は、その後、尾張町四丁目から高輪二本榎を経て、昭和37年(1962)伊勢原市上糟屋に移った。桜田門に秘められた歴史である。
御門内番所には、御譜代三万~五万石の大名が警護に詰めた。番士五人は羽織袴を着用する。将軍の御成や大名登城御礼日などはすべて上下着用の決まりであった。常備の武器は、鉄砲十挺、弓五張、長柄槍十本、持筒二、持弓一張である。
桜田門枡形内の高出口出口より、法務省を望む

桜田門の枡形門は、大正12年(1923)の関東大震災で破損したため、鉄筋コンクリート造りで、復元したのが現在の桜田門である。

江戸図屏風に描かれた桜田門

桜田門の俯瞰
桜田門の枡形は、三方のみで囲われている。これは高麗門から敵が侵入して直進すると濠に落ちる。右折しても渡櫓門は閉じられている。濠向いの西丸石垣上から鉄砲や弓矢の攻撃に防御の術がない。そのため石垣は築いていない。北の丸清水門も同形の枡形門である。

桜田門と通称される警視庁舎は、豊後杵築藩松平家上屋敷である。警察総合庁舎は、松平中務大輔の上屋敷にあたる。

桜田門外ノ変
万延3年(1860)3月3日、前夜からの春の大雪の中、水戸藩を脱藩した浪士17名と薩摩藩を脱藩した浪士1名の計18名が、桜田門外で登城する井伊大老の駕籠を待伏せしていた。午前9時を過ぎ、行列の駕籠がさしかかると、銃声を合図に一斉に斬りかかった。およそ15分の斬り合いの中で、大老井伊直弼の首級を上げた。幕府を取り仕切る大老が一介の浪人衆に切り殺されるという事件は、幕府の権威失墜だけに及ばず、徳川幕府崩壊への序章となった。

戊午の密勅
安政5年(1858)6月井伊大老は、かねてから懸案の日米修好通商を締結した。しかし、この調印は朝廷の勅許を得ておらず、事後報告で済ませた。開国に反対する孝明天皇は激怒した。幕府攘夷派の水戸藩主徳川斉昭は、江戸城に押しかけた。孝明天皇は、同年8月8日、無勅許の条約締結を詰問する意図で幕府に勅諚を下した。
水戸藩にも秘密裡に同様の勅諚を下した。いわゆる「戊午の密勅」である。勅諚の内容は、「幕府は独断で事を進めず、御三家や有力大名と協力して国難に対処しべし……」いわば、朝廷と幕府が一体となる公武合体を示唆し、幕府の単独政治を否定するものであった。伝統的に尊皇思想で固まっている水戸藩内は、親幕府の門閥派と親朝廷派の革新派に分断、内部抗争が勃発した。

安政の大獄
井伊大老は、秩序安定のため攘夷派の一掃を図り、公家や幕臣に諸藩士に至るまで徹底的な大弾圧を加えた。これが世にいう「安政の大獄」である。安政6年(1859)8月、前水戸藩主斉昭に永蟄居、家老に切腹を命じた。同年12月には、勅諚返納の幕命も下り、革新派の一部は脱藩して直弼の首を狙うようになった。

by watkoi1952 | 2012-07-07 14:53 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)



