竹橋御門



竹橋御門



竹橋見附門は、元和6年(1620)に枡形門が造られ、内郭の城門として警備にあたった。この地は、平川の旧流路で日比谷入江から内陸奥の船着場であった。竹橋とは、船付場に竹で組んだ「竹舟橋」と呼ぶ桟橋を設えていたことに由来する。竹平町から北の丸代官町に入る清水濠に竹橋は架橋されている。明和5年(1769)落雷によって、竹橋御門が火災を起こした記録がある。



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一ッ橋大番所の手前より、竹橋御門、北の丸方面を望む

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帯曲輪


平川門枡形内の門と竹橋門との間の濠中に、細長い土橋廊下のような帯曲輪で両門は結ばれている。城郭における帯曲輪の役割は、本丸に近く最も防備を必要とする地点に帯曲輪を設ける。平川濠を二重に分断することで、両門が帯曲輪の廊下走路で連絡し合える。それは、有事の際に相互の番兵が火急な城門の応援に駆け着けるためである。さらに隣接して、一橋門と雉子橋門を置き、わずかな距離の間に三重(平川濠・内濠・外濠)に濠を廻らせ、護りを強固にしている。



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御春屋(おつきや)


竹橋御門と平川御門に面したパレスサイドビル(毎日新聞社)の一帯には、江戸城内で消費する幕府蔵米の精米や餅を搗く「御春屋」があった。春とは「臼で米を搗く」の意味を持つ。籾を脱穀したあとの玄米を精白するのが御春屋で、江戸城内で使われる食材や燃料などを一括集荷管理する施設であった。





竹平町時代の文部省正門

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明治4年(1871)7月、太政官布告により、江戸の最高学府昌平坂学問所跡地に内務省が統括していた「文部省」が設置された。その後、竹橋御門前の幕府御用地の御春屋跡地の竹平町に文部省を移転した。関東大震災で焼失した文部省は、昭和6年(1931)虎ノ門御門内の現在地に移転を余儀なくされた。






竹橋事件


竹橋事件は明治11年(1878823日夜、竹橋の西詰にあった近衛砲兵大隊の竹橋部隊を中心とした武装反乱事件である。明治4年(18712月に天皇及び御所を護衛する「御親兵」として、薩摩、長州、土佐の藩士から選抜された新政府直属の部隊であった。翌明治539日、皇居警護に専念する「近衛兵」を創設した。北の丸には近衛歩兵第1、第2連隊、砲兵大隊が駐屯していた。







明治10年(1877)近衛連隊は223日博多に上陸、西南戦争に従軍、田原坂の戦いや城山の戦いに参戦していた。ところが、凱旋すると明治新政府は戦費で財政難、給料減俸、恩賞は極めて低く遅延であった。近衛兵の行賞削減を提案したとされる清水門前の大隈重信邸は銃撃された。さらに、兵卒の退職金廃止に対して各部隊と連携して反乱兵259名が蜂起した。天皇に惨状の直訴を計るが、翌日24日に鎮圧された。1015日の判決で平均年齢2455名が同日銃殺刑、205名は流刑10年以下に処罰された。




報われぬことへの怒りが暴発した竹橋事件を契機に「軍人訓戒」「軍人勅諭」を発令して、軍人が政治に関与しない規律強化、参謀本部を政府からの独立を謀る。また、軍内部の秩序を維持する憲兵隊の創設や後の皇宮警察を設置する契機となった。さらに、陸軍の仏式軍隊から独式軍隊に移行を促進した。東京日日新聞は824日号外に「竹橋騒動」竹橋近衛砲兵暴発、出火と同時に発砲と報道している。





明治16年(1883)の陸軍地図、左の文部省、一ッ橋を渡ると左上に東京外国語学校、右に東京大学南校、学習院大学など赤塗りが国有地である。


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昭和41年(1966)9月に皇居に面した地下6階・地上9階のパレスサイドビルが完成した。日本近代建築の傑作の一つに数えられている。同年地下には営団地下鉄東西線の竹橋駅が開通した。また、毎日新聞社が有楽町から文部省跡地のパレスサイドビルに移転してきた。平成15年(2003)まで地下6階の中に毎日新聞社の印刷工場があった。平成17年(2005)にパレスサイドビルは、「毎日ビルディング」に改称している。




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パレスサイドビル屋上より、竹橋、乾門、麹町方面を望む

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by watkoi1952 | 2012-07-02 11:18 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)