平川御門(御局御門)
平川御門(御局御門)
平川御門は、江戸城三ノ丸の正門である。旧上平川の流路と下平川村が、平川門名の由来である。将軍家の身内である御三卿(田安・清水・一橋家)の登城口であり、江戸城大奥の通用門から「御局御門」と呼ばれていた。また、平川門は、江戸城の鬼門で大手門の裏側にあたることから「不浄門」とも呼ばれた忌門である。江戸城天下普請中の事故死者の搬出歴史から、城内での罪人、遺体、病人、下肥をこの門から送り出した。

刃傷松の廊下事件
元禄14年(1701)3月14日朝、城中松の廊下で高家筆頭の吉良義央に勅使饗応役の浅野長矩が刃傷に及んだ。浅野は式服を脱いで熨斗目小袖姿で平川御門からの下城を命じられた。浅野は平川門の渡櫓門を右折して、高麗門より左に平川橋わたると、罪人用の網打駕籠で一関藩主田村健顕の家臣75名の厳重警護で芝田村町屋敷に送り出された。
生島絵島事件
正徳4年(1714)歌舞伎役者の生島新五郎ら多数が処罰された生島絵島事件があった。大奥の風紀を乱した首謀者として、大奥最高の実力者である御年寄の絵島が断罪された。絵島は白無垢一枚に裸足という姿で、この門の平川橋から引き出され、信州高遠城の預かりになり長期間幽閉された。

春日の局と平川門
三代将軍家光の乳母である春日の局は、門限に遅れ当夜の番士が、規則は規則と断固例外を認めず、寒い一夜を門外の駕籠で過ごした。大奥で権勢を誇る春日局は、翌朝この件を将軍家光に申し伝えた。しかし、家光は職務に忠実であると、江戸城の掟を厳守した旗本の小栗又一郎は、お褒めと褒美の五百石の加増を賜った。
この律儀な三河武士の忠臣小栗家の子孫が、幕末に徳川将軍家を存続させるべく主戦論を唱えた「小栗上野介忠順」である。幕閣の勘定奉行、南町奉行、陸海軍奉行などの重職を最後まで務めたが、結果として将軍慶喜に見捨てられ、官軍に捕らえられ断罪された。

平川御門の帯曲輪
平川御門内の渡櫓門の右手にある、帯曲輪に通じる高麗門が不浄門であるとの説がある。この不浄門から、版築された土堤200mの帯曲輪を渡ると竹橋門から出ることになる。すると、竹橋門が最終出口の不浄門となるのである。そもそも、防御のための帯曲輪の構築であり、外濠から三重の濠を築いた最強の防備である。
有事の際に竹橋門と平川門は、互いに助太刀する連絡通路で、平時の通路両門は厳重に閉鎖されている。すなわち、江戸城の鬼門にあたる平川門全体の別名を「不浄門」と通称で呼んでいるにすぎないのである。しかし、罪人、死体、下肥桶を担いで、頻繁に往来のある枡形内から高麗門に平川橋を渡らせる筈はないのである。
平川門の枡形内から竹橋門に通じる帯曲輪は、文久3年(1863)江戸城本丸の全焼、今後一切使用しないため、通行は出来ない。しかし、江戸城鬼門の歴史的な不浄門であり、現在地に移設して保存しているのである。

江戸の不浄門
さて、江戸城下の大名武家屋敷における不浄門は、屋敷裏手の練塀に戸板一枚程の潜り戸を設けた門で通常は不開門である。江戸城などの平山城郭は、水濠や空壕で防御の縄張を執る。そのため枡形城門の橋から城外に出ることになる。家康、秀忠、家光と三代半世紀にわたる江戸城拡張工事では、城内の高石垣積などの難工事で多くの死者や傷病人を平川門から搬出していた歴史がある。
寛永年間(1624)~承応年間(1653)明暦の大火までの平川門の周辺図である。

上図平川門の枡形内帯曲輪門を不浄門とすれば、帯曲輪を渡り竹橋門へ搬出していた事になる。明暦の大火までと、それ以降の城内図を見比べると、平川門の枡形構造に大きな変化が見える。

上記の絵図に大幅に改造された平川門枡形内から内濠に降りる石段が描かれている。この搬出石段に向かって不浄門を設置していた。石段を降りて、小舟で死体や不浄物を搬出することになる。その場所が平川橋から死角になるよう枡形を濠に張出して橋の位置を変え、入口の高麗門を南向きに変える特殊な門構としたのである。
江戸城鬼門の平川門枡形内から内濠に降りるが、舟で直接城外に出られず、和田倉門の辰ノ口で積替えて、死体の搬出も道三濠から外濠などに出ていた。江戸城の御用下掃除人で本丸大奥の不浄物を一手に引き受けていたのが葛西権四郎である。平川門に登城する早朝までに搬出経路で金肥と称した下肥を汚穢舟に積み込み、下総の農村地帯で野菜類と交換して、江戸市中で野菜を商うという江戸繁栄の基盤であったリサイクルで繁盛していた。
安政2年(1855)の安政大地震で江戸城の石垣や櫓が崩壊した。その修復途中の文久3年(1863)に江戸城の表、中奥、大奥の本丸御殿が全焼した。以後は本丸入城禁止、再建は断念して本丸機能を西ノ丸に移したため、不浄物の搬出は無くなる。平川門枡形内からの搬出石段を撤去して、高麗門を渡櫓門の右側の現在地に移設して不浄門の痕跡を後の絵図から見事に消し去ったのである。
文久3年(1863)以降の江戸城平川門周辺図

藤堂高虎の石狭間
城の防御施設である枡形門の土塀には、矢狭間や鉄砲狭間などの備えは必ずあった。平川門の枡形内の石垣の最上段の、石の一部をくり抜いて銃眼にした石狭間がある。この仕掛けは、慶長18年に藤堂高虎が石垣普請を命じられたとき、自ら考案したと伝えられる、江戸城の貴重な痕跡である。
平川橋
平川橋の欄干には、江戸城内の木橋から集められた、慶長銘4、寛永銘6の擬宝珠が飾られている。これらに刻まれた金石文は、江戸最古の貴重なものである。平川門は、高麗門・渡櫓門・木橋(橋脚台はコンクリート)と枡形の城門形式が、初期の状態で現存する江戸城唯一の門である。

川瀬巴水画「平川門」

by watkoi1952 | 2012-07-02 11:12 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)


