一ツ橋御門


一ツ橋御門




一ツ橋見附門は、寛永6年(1629)陸奥国と出羽国の大名によって築かれた。一ッ橋の架橋以前は、簡易に丸太一本の橋があったことに由来する。一ツ橋東側に一ツ橋門の枡形の石垣が残されている。その先には、内濠の平川門が見える。その左手前の丸紅ビル前の道沿いに一橋徳川家屋敷跡の標柱がある。八代将軍吉宗の三男宗尹は、御三卿として松平伊豆守の屋敷跡地を拝領した。この屋敷地に近接した一ツ橋御門から、一橋家を家名とした。




写真の手前が現内濠の平川門橋で、この橋を渡ると内濠通りである。奥にある外濠の一ッ橋を渡ると右側に見える渡櫓門から出てくる。雉子橋門とともに内濠と外濠がもっとも近接した場所である。


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関東大震災で一ツ橋が崩落して、仮橋が架けられている
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一橋家上屋敷内の侍長屋

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御三卿一橋慶喜10万石の拝領屋敷(17888坪)
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御持院ケ原


江戸の一ツ橋門外は、火除明地の御持院ケ原(神田錦町)である。元禄2年(1689)将軍綱吉は、武家跡地に柳原の智足院を移し、筑波山護持院を建立した。しかし、享保2年(1717)に焼失したため、境内25千坪を火除明地の原とした。江戸名所図会の三番原と四番原との間にある道路の右手に一ツ橋がある。



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一ツ橋から如水会館を望む

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一橋徳川家の跡地碑

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by watkoi1952 | 2012-06-25 15:08 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)