呉服橋御門



呉服橋御門




呉服橋御門は、寛永6年(1629)陸奥国や出羽国の大名によって枡形門が築かれた。外濠通りと交差する永代通りを少し入った所に呉服橋門の枡形があった。外濠に架かる呉服橋の外域は町人地である。呉服橋名は、呉服町に幕府御用達の呉服商が多く職住していた由来で名付けられた。その呉服町を統括するのが、京都から下向してきた宮廷の縫部司や縫殿寮の流れをくむ後藤一族である。





現在、永代通りを皇居方面に進むと内濠の大手門前に出るが、この道筋に家康は、入府間もなく道三濠を開削して、平川(日本橋川)から隅田川に通船させた。江戸城天下普請は、船荷による大量の物資を和田倉門に隣接した辰ノ口の堀留荷揚場に始まった。昭和25年(1950)外濠に戦災瓦礫の埋立て工事が、呉服橋から新橋方面に向かって始まった。






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一石橋より呉服橋を望む

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呉服橋を渡り、枡形内を右斜めに進むと渡櫓門を出る。中央の大番所の左端に、道三濠に架かる銭瓶橋が見える。この広場の手前左に、北町奉行所(2630坪)が置かれていた。






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道三濠と銭瓶橋


左に道三濠に架かる銭瓶橋、右に呉服橋御門の渡櫓門と手前に大番所が見える。大番所は警備の与力・同心の詰所で昼夜詰めていた。




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東京駅と外濠


東京駅八重洲口に水を湛えた外濠が見える。右の広い橋が八重洲橋で八重洲通りの起点である。東京の表玄関である丸の内口の赤レンガ造り3階建て駅舎は、昭和20年(19452月の東京大空襲で破壊された。3階の丸形ドームの屋根は、角錐形に修復され結局60年以上の歳月が過ぎ去った。「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」など、駅舎保存の市民運動が起こり、本来の姿に復原することになった。平成19年(20075月より復原工事が始まり、建築当初の3階建てに戻し、新たに地下12階を増築して免震装置を設置した。





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港屋絵草紙店(呉服町2番地)


大正3年(1914)竹下夢二と岸たまき夫妻は、外濠に架けられた呉服橋外の呉服町2番地に、間口1間2階建ての店舗を借りて、「港屋絵草紙店」を開いた。若い女性が好む人気画家の夢二が、デザインする木版画、絵本、詩集、千代紙、風呂敷、浴衣などが販売された。同年に開業した東京駅にも近く、若い女性が連日詰めかける人気店となった。






「江戸呉服橋ノ図」竹久夢二画


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港屋絵草紙店

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外濠の橋景


外濠に架けられた橋、右上奥に①呉服橋、東京駅の②八重洲橋、③鍛冶橋、④有楽橋、⑤新有楽橋、⑥丸の内橋、⑦数寄屋橋、中央下の⑧山下橋が連なる。江戸時代に架橋された①③⑦⑧は、見附門橋。明治以降に架橋された②④⑤⑥。戦災瓦礫の処理のため、昭和25年(1950)から埋め立てが始まり、昭和34年(1959)呉服橋先の日本橋川を残して、埋め立ては完了した。





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by watkoi1952 | 2012-06-19 12:24 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)