数寄屋橋御門



数寄屋橋御門 




数寄屋橋御門は,慶長7年(1602)に基礎築造、寛永6年(1629)陸奥國仙台藩主の伊達正宗が石垣と枡形門を完成させた。この枡形門の裏手に南町奉行所の役宅があった。大岡越前守忠相は、享保2年(1717)~元文元年(1736)、遠山左衛門尉景元は、弘化2年(1845)~嘉永5年(1852)までに務めた。



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文久3年(1863)十四代将軍家茂の上洛の行列が馬印を掲げ、数寄屋橋門を通過する様を二代目歌川広重が描いている。



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江戸切絵図に見える元数寄屋町


江戸城本丸と西丸の表中御殿は、女人禁制のため代わりに剃髪・僧衣姿の御坊主衆が務める。将軍の諸用を務める「奥坊主」。老中・若年寄の諸用を務める「御用部屋坊主」。登城した大名や出仕した役人に茶を出す「表坊主」がいた。「御数寄屋坊主」は、茶礼や茶器を司る坊主で、参勤する大名や高禄の武士にお茶を出した。数寄屋坊主は、お城坊主の花形で、宗教的な坊主ではなく京都などの名流派筋の茶道の世襲坊主であった。



数寄屋坊主頭3人を筆頭に50人の茶坊主がいた。数寄とは、物好きで和歌や茶の湯など風流を好むことである。彼らは拝領された町人地に、武家の書院造に茶室を設けて虚飾を廃し「茶道の侘びの精神」を取り入れた数寄屋造りの屋敷を構えた。この数寄屋坊主衆に由来して、「数寄屋町」から「数寄屋橋」に「数寄屋橋御門」と名付けた。明暦の大火後に数寄屋坊主衆は移転し、元数寄屋町となる。



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天和2年(1628)12月、駒込大円寺からの出火で下谷の東福寺薬師などの境内地が焼失した。翌年、幕府拝領地になり、幕府の数寄屋坊主の鈴木一斎、吉川正益、西丸奥坊主の井上春佐などが拝領して御数寄屋町を形成した。上野広小路の西裏側4区画にあたり、文政11年(1828)の町方書上に129軒の屋敷記録があり、慶応4年(1868)より下谷数寄屋町と改称した。



元数寄屋町の新たな火除明地の広場に数寄屋坊主衆と縁の深い、信長の弟で利休十哲の一人として、京都で武家茶道「有楽流」を創始した名茶人「織田有楽斎」から「有楽原」と名付けられた。明治5年(1872)の新市政により、名称のない武家地に町名が付けられた。有楽町と隣接した永楽町は、これから良いことがおきる前兆である瑞祥として対で選ばれた町名で、織田有楽斎が江戸に住み逗留した記録は存在しない。







徳川将軍家の茶の湯指南役


利休亡きあと茶道の本流を受け継ぎ秀吉の茶頭となっていた古田織部が、徳川将軍家の茶の湯指南役となった。慶長17年(1612)二代将軍秀忠の指南役として登城した。古田織部は指南役の機会を捉えて、徳川と豊臣両家に通じ和平共存を願い工作に動いた。それが家康の逆鱗に触れた。大阪落城後の元和元年(1615)切腹を命じられた茶人古田織部は、師の利休と同じ運命を受容して古田家は断絶した。三代将軍家光には、小堀遠州、四代将軍家綱には、片桐石州が茶の湯指南役を務めた。五代将軍綱吉から茶の湯指南役は廃されたため、江戸では石州流が名声を保ち続けた。








新数寄屋橋


新数寄屋橋は、昭和4年(1929)に石造り二連アーチ橋を晴海通りに架橋した。もともとは、晴海通り手前の西銀座デパートの入り口あたりに土橋と数寄屋橋が架かり、その先の朝日新聞本社に喰い込むような形で数寄屋橋門の枡形があった。右奥に有楽橋が見え、正面の朝日新聞社の跡地は有楽町マリオンとなった。昭和27年(1952)にラジオ番組、菊田一夫作「君の名は」が放送された。その主人公の春樹と真知子の待ち合わせ場所が数寄屋橋であった。二人は運命的なすれ違いの悲恋物語で、銭湯の女湯から人が消えるという伝説とともに全国的に有名になった。




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娯楽の殿堂・日本劇場

昭和8年(19331224日、数寄屋橋御門の跡地に建てられた朝日新聞社に並んで、日本屈指四千名収容の大劇場「日本劇場」があった。昭和8年の開場から映画、舞台、音楽で「日劇」として親しまれ、長い間数多くの名作を送り続けてきた。昭和16年(1941)に歌手の李香蘭が舞台に立った時は、長蛇の列が劇場を取り巻いた。東宝映画と実演の日劇ダンシングチームのレビューと人気歌手のショーが注目を浴びた。



当時、日劇の舞台に出ることが人気芸人の登龍門であった。昭和30年代には、ロカビリー旋風でウエスタン・カーニバルの開演には、ロカビリー3人男、ミッキー・カーチス、平尾昌晃、山下敬二郎の出演で、日劇を幾重にも取り巻くファンで大盛況となった逸話を残している。老朽化した日劇は、サヨナラ日劇フェステバルの公演で閉館、昭和59年(1984)有楽町マリオンとして生まれ変わった。




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埋立てる前の外濠に見える数寄屋橋より、丸の内橋、新有楽橋、有楽橋から鍛冶橋方面に向かう。


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東京駅八重洲口側の外濠 東京駅丸の内切手館


江戸城の外濠に架けられた橋、右上奥に呉服橋がある。次に東京駅の八重洲橋、鍛冶橋、有楽橋、新有楽橋、丸の内橋、一番下が数寄屋橋である。戦災瓦礫の処理のため、昭和25年(1950)より埋め立てが始まり、昭和34年(1959)呉服橋先の日本橋川の濠を残して埋め立ては完了した。中央上の白亜の郵便局は一部が切手館として現存している。




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東京駅丸の内「切手館」


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by watkoi1952 | 2012-06-16 16:16 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)