湯島聖堂と昌平坂学問所
湯島聖堂と昌平坂学問所
昌平橋と昌平坂
廣重の名所江戸百景は筋違御門内の広小路にある神田川土手左側の冠木門を抜けて昌平橋を渡り中山道に向かう。その橋の欄干から神田川の上流と昌平坂と湯島聖堂を望む構図である。橋下の神田川は飯田橋~柳橋間を鉄砲州沖に停泊中の船荷を積替えて神田川沿いの荷上場へ向かう荷送船。平底の安定した屋根船。高速で吉原へ向かう猪牙舟などが行き交う。

東都富士見三十六景「昌平坂乃遠景」一勇斎国芳画
国芳は画想豊かで斬新な構図、浮世絵の枠にとど
まらない広範な魅力を持つ浮世絵師である。

神田川に架かる昌平橋と冠木門
寛永年間に架橋された昌平橋は、淡路坂(芋洗坂)下に架けられ芋洗橋や淡路坂と昌平坂を繫ぐ相生橋と呼ばれていた。元禄4年(1691)将軍綱吉が湯島に聖堂を建てたときに、孔子の生誕地に因み昌平橋と改称した。昌平橋に隣接した筋違御門は将軍の日光御成道や寛永寺墓参に鷹狩など幕府の年間行事に大名行列で混み合う。そのため、庶民の筋違御門の通行は徐々に制限された。日光御成道の完成に合わせ、筋違門に近接した庶民の自由通行の昌平橋を架橋して、中山道や神田明神、外濠外へ移設された墓参への通行を容易にした。

御茶ノ水橋から下流の昌平橋を望む

神田川上流の御茶ノ水橋を望む。
右上に御茶ノ水橋、右下の白い階段の位置が、関東大震災の復興計画で架橋される聖橋の橋脚基礎工事の完成写真である。この橋は、聖堂と昌平坂学問所間の新道路に架橋される。

昭和2年(1927)に聖橋は竣工した。設計者は、山田守で後に日本武道館を手掛ける。

神田川・聖橋・昌平橋・お茶ノ水駅


湯島聖堂
湯島聖堂は、中国儒教の創始者として崇拝される孔子を祀る霊廟である。寛永7年(1630)三代将軍家光は儒者林羅山に上野忍岡五千余坪を与え家塾「弘文館」を建てた。その二年後に尾張徳川家初代義直は羅山のために邸内に「先聖殿」を建てる。これが聖堂の起源である。この地は寛永寺の境内にあたり、邸内に百余種の桜を植えて眺め楽しみ、塾舎を「桜峯塾」と改めた。
やがて、寛永寺境内は桜の名所となり、学塾に相応しくない行楽の地に変貌した。元禄3年(1690)五代将軍綱吉は、儒学が文教の基幹たるべきと、さらに向学の実をあげるため、聖堂を神田湯島の拝領地六千坪に湯島聖堂を建立した。孔子の生誕地である昌平郷に因んで昌平坂や昌平橋と命名した。上野忍岡の跡地には、天海僧正が計画していた京都清水の観音堂に倣って、清水観音堂を建立した。

昌平坂学問所
寛政2年(1790)寛政の改革は、老中/松平定信によって進められた。その改革の一環で、「寛政異学の禁」で朱子学以外の異学を禁じた。幕府の教学政策を朱子学と定め、湯島聖堂の西側に昌平坂学問所が置かれた。江戸の直参旗本や御家人子弟の学舎であった。寛政8年(1797)に林家大学頭を主体とする制度に改めた。以後、幕府直轄の昌平坂学問所を開校して、幕臣以外の全国の秀才達が立身出世と故郷の期待を背に受けて聴講する江戸最高学府の学問所となった。林家以外から柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里らが教授に任じられた。

昌平坂学問所構内図
表門の右に御成門、左に役人長屋、その奥に長屋通用門と役宅通用門がある。奥に進むと右手に玄関のある御成御殿がある。学舎は同じ建物奥で左に折れて続き、対面所と講義所がある。学寮はその奥に廊下で繋がって三棟、東西に長く並んでいた。東は屋根付板塀で聖堂に接し、南北面は高い練塀、東面のみ丸太塀で隣の火除明地と桜の馬場に接していた。これらを「聖堂学舎」と呼んでいた。聖堂と学舎を合わせて七千六百坪であった。

昌平坂学問所の御座敷講義風景

お茶の水橋と東京女子師範学校

by watkoi1952 | 2015-12-01 14:08 | 江戸城の内濠と外濠の景