四谷御門


四谷御門




四谷見附門は、寛永13年(1636)毛利元就の玄孫で、初代長州藩主の毛利秀就が築いた。半蔵門から江戸六口の一つ四谷見附を経て、甲州街道へ出る。この道筋は、国府(府中)に通じる道で、国府路から麹町と名付けられた。参勤交代では、諏訪の高島藩、高遠藩、飯田藩の三藩のみが甲州街道を利用した。




しかし、江戸城に一旦危急がある時は、将軍一行が半蔵門、四谷見附を通って甲州街道で甲府城へ退路であった。そのため、麹町番町に直参旗本を配置し、有事の道中警護に当たらせる目的があった。この甲州街道は、新宿追分で別れて青梅街道となる。江戸城や大名屋敷で使う白壁漆喰の原料である石灰岩を青梅の小曽木から運ぶために整備され、秩父から火薬焔硝も運ばれた。




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四谷の地名由来


四谷の地名は、①玉川の鮎を売る茶店「鮎屋」、②梅渋にて染色を営む「梅屋」、③濁酒を商う「保久屋」、④玉川の調布(たづくり)を紡績する「布屋」の四家を(よつや)と呼び慣わし、後に「四谷」と改めた。また四谷の文字から、近在の千日谷、茗荷谷、千駄ヶ谷、大上谷を四つの谷を由来とする説もある。さらに紅葉川渓谷、鮫河谷、渋谷川渓谷、蟹川渓谷と広範囲の谷を由来とする後付け説もある。





「安政見聞誌」に見る安政大地震の被害を受けた四谷御門の渡櫓門である。この門を向こう側に抜けて、左折すると半蔵門へ向かう新宿通りである。
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麹町六丁目の左道筋が善国寺谷通り(日テレ通り)で、新宿通りから入るとすぐの坂が善国寺坂で、下った最初の十字路が善国寺谷である。善国寺坂から麹町七丁目までの火除明地と町方持明地と記載された地に善国寺があった。寛政4年(1792)の類焼火災で寺は焼失して、火除明地に召し上げられた。翌寛政5年に牛込の神楽坂五丁目に移転再建された。神楽坂では、善国寺とあまり呼ばず寺宝の「毘沙門」様が通り名となっている。麹町十丁目の心法寺は、千代田区で唯一の墓地をもつ家康由来の古刹である。





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明治27年(1894)甲武鉄道市街線、新宿駅~牛込駅間が開通した。四谷濠後方の高台に陸軍士官学校(現防衛省)が見える。

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昭和4年(1929)鉄道省は、複線から複々線への拡張工事で四谷濠の水面が見えている部分を埋め立てた。この埋め立てにより、景観が著しく損なわれて環境問題となる。その後、外濠は国指定文化財となり、埋め立ては大幅に制限されることになった。




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by watkoi1952 | 2012-05-29 11:49 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)