小石川御門


小石川御門





小石川御門は、寛永13年(1636)備前国岡山藩主の池田光政が築いた。寛政4年(1792)に渡櫓門が焼失したが、二度と再建は許されない決まりであった。この御門は、水戸様御門とも呼ばれた。神田川に架橋された小石川橋外には、水戸徳川家の藩主光圀の上屋敷(8万坪)があった。また神田川を挟んで小石川御門内には、光圀の兄頼重の讃岐高松藩上屋敷が向かい合っていた。



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小石川御門外の水戸藩上屋敷

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小石川御門内の一帯は、讃岐国高松藩の松平家の中・上屋敷である。高松藩祖の頼重は、初代水戸藩主頼房の長男で、本来ならば水戸徳川家二代藩主であった。父の頼房が二人の兄、尾張家、紀州家に先んじて、世継ぎの頼重が誕生した。これを憚って養子に出すと、弟の光圀を二代目藩主とした。光圀は、兄を越えて跡継ぎになった立場から、兄頼重の長男綱條を養子に迎え、徳川水戸家三代藩主とした。明治36年(1903)に飯田町堀留までの埋め立地を再び掘削して、神田川と日本橋川が、小石川橋で合流した。




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東京砲兵工廠


明治
4年(1871)明治新政府は、水戸家上屋敷の庭園を除く跡地に、小銃を主体とした兵器製造工場と砲兵工科学校を設立した。そのほか国の施設で使う金属加工品や銅像の鋳造なども行なった。大正12年(1923)の関東大震災で壊滅的な被害を受け、三日三晩地下室に保管した弾薬の破裂音が鳴り響いた。この立地は、神田上水を工場用水に使うため、設置していたが、復興は認められなかった。昭和4年(1929)より10年(1935)にかけて、九州の小倉工廠や北区赤羽に軍備施設を順次移転し、66年間の銃器機製造の幕を閉じた。



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昭和11年(1936)東京砲兵工廠の国有跡地を新設した後楽園スタヂアムに売却した。翌12年、職業野球専用の後楽園球場が開場した。昭和24年(1949)東京都が戦後復興策として、後楽園球場の隣接地に後楽園競輪場を開設した。昭和42年(1967)東京都都知事に美濃部亮吉が当選すると、ギャンブル廃止となる。その後、ジャンボプールやゴルフ練習場に様変わりした。




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後楽園球場は、昭和62年(1987)度の日本シリーズ(西武×巨人)第5戦が公式戦最後の試合となった。昭和63年(1988)後楽園競輪場跡地に、日本初の屋根付き東京ドーム球場が完成した。




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中央の後楽園競輪場跡地に東京ドーム球場、右の後楽園球場跡地に東京ドームホテル、東京ドーム球場の左に江戸の水戸徳川家上屋敷の庭園、現小石川後楽園 



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東京ドーム球場内
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by watkoi1952 | 2012-05-25 16:25 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)