筋違御門と日光御成道




筋違御門と日光御成道






筋違(すじかい)御門は、寛永13年(1636)加賀百万石の三代藩主前田利常が築いた。筋違とは、歴代将軍は江戸城大手門から神田橋門を通り、筋違門橋を渡り右に進み、下谷御成道で上野寛永寺に参詣する。一方、中山道に向かう場合、日本橋を起点に筋違門橋を渡り左に進み、神田明神通りの中山道に向かう。この二方向の道筋が見附門内で交差することから筋違御門と名付けられた。ちなみに建築用語で柱と柱の間に斜め交差に入れて、建築物の構造を補強する部材を「筋交」または「筋違」と表記する。






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日光御成道


元和3年(16174月、2代将軍秀忠が家康の遺骸を久能山から日光東照宮に向かう際に使用した岩槻街道が御成道の初めである。筋違御門が完成した寛永13年(1636)日光東照宮竣工と日光社参制度化により、千住大橋を渡る日光街道の混雑や警備が問題となった。そこで岩槻街道を日光社参の脇住環として、日光御成道に整備された。初通行の3代将軍家光一行は、筋違御門橋を渡り左に向かい、中山道と分かれる本郷追分を基点に御成道(本郷通)を直進、岩淵宿の川口の渡しで荒川を渡る。川口宿で昼食、宿泊は岩槻宿、将軍は岩槻城に宿泊、幸手宿手前の幸手追分で岩槻街道が日光街道に合流する。





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筋違の八ッ小路


八ッ小路は、明暦の大火後に設けた八辻原とも呼ばれる火除明地の一つである。この地には、背負子や荷縄を造る連尺職人の住む連雀町があった。連雀町住人は、火除明地に明渡すため筋違御門の南側の一区画に移住した残った連雀町の25世帯は、三鷹の替地へ移転して、上連雀町、下連雀町と発展した。図の中央に筋違御門に入る渡櫓門に向かう馬印を掲げた大名行列が見える。左下に筋違御門と筋違橋、神田川上流の右端に昌平橋がある。





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筋違見附と神田明神の祭礼


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筋違見附の仇討

文久2年(1862115日、老中安藤信正が江戸城坂下門の前で水戸浪士ら尊皇攘夷派6名の襲撃を受けた「坂下門の変」が勃発した。この襲撃を画策した陰の人物が、水戸藩士の住谷寅之助である。慶応3年(1867113日、住谷は皇族を警護する警衛指南役として京都にいたが、鴨川の松原河原で斬殺された。その長男七之允は、父の遺恨を晴らすべく辛苦の末、やっと目指す土佐藩士山本旗郎を探し当てた。





明治3年(1870324日、ついに七之允は弟忠次郎とともに筋違見附で父の仇討を果たした。二人は柳川藩の筋違見附番士に自首して取り調べを受けたが、仇討と判り無罪放免となった。明治6年(187327日「仇討禁止令」が発令される前の旧幕府の掟が生きていて、合法的な最後の仇討となった。後に住谷七之允は、毅と改名して判事となって、宇都宮地方裁判所に勤めた記録がある。






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「八辻原」とは、①筋違御門 ②昌平橋 ③駿河台 ④小川町 ⑤連雀町 ⑥日本橋通 ⑦柳原通 ⑧小柳町の八方に向かえる。








筋違御門の位置図と神田川の歴史


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慶長10年(1605)第1次天下大普請で本郷台地の東端低地の筋違御門付近から浅草橋を経て隅田川へ注ぐ放水路が開削された。旧石神井川の度重なる水害と、下流お玉が池の遊水池を埋めて武家地に造成するため、石神井川の流れを東に付け替えた。





元和6年(1620)さらに大手町方面に流れる平川の洪水を止めるため、流路を飯田橋から直角に御茶ノ水方向の本郷台岩盤を開削した。これで神田川(旧平川)は、慶長10年に本郷台東端から開削した放水路に接続して隅田川に合流させた。この治水事業は仙台伊達藩が担当した江戸城外濠の難関工事であった。






筋違御門の筋違橋と上流の昌平橋、その遠方に昌平坂がある。

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筋違橋御門のやや右にあった万世橋駅舎の上にホームの屋根が見える。駅前広場に軍神となった広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像が見えるがが、戦後の占領下にGHQの命令で撤去した。左上には聖橋が白く見えている。





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手前の神田川に架かる跨線橋は丸の内線。その奥に総武線の跨線橋の下に昌平橋が見える。



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筋違御門は、中央線高架の中程にあり、奥の昌平橋50m手前に位置していた。


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手前の昌平橋の後方に総武線跨線橋と上下線の電車が見える。


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by watkoi1952 | 2012-05-25 16:02 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)