江戸城大奥の基礎を築いた春日局こと「お福」は、織田豊臣徳川の戦国三代を波瀾万丈に生抜いた女性である。即ち、織田信長の価値観の破壊、豊臣秀吉の新社会の建設、徳川家康の体制持続への時代において、徳川幕藩体制の確立に寄与した重要人物の一人である。天正7年(1579)お福は父斎藤利三と母稲葉通明の娘お安との間に三女「斎藤福」として丹波国黒井城下館の興禅寺で生まれる。同年4月7日に家康と側室西郷局との間に徳川秀忠が生れている。
天正7年(1579)明智光秀が黒井城を攻略、光秀の居城を護るため斎藤利三が黒井城主となる。平時の住居である興禅寺は、七間堀と高石垣に囲まれた戦国城主の陣屋の面影を今に残す。後方の城山に黒井城が聳えていた。
父利三は明智光秀と同様に室町幕府足利将軍家直属の奉公衆の出自である。西美濃の稲葉一鉄が織田氏に寝返ると利三はそれに従い、後に明智光秀の筆頭家老となる。天正10年(1582)6月2日明智光秀は本能寺で主君織田信長を自刃に追い込んだ。だが、信長の遺体は発見されず、光秀は日本の行末を愁いた協力者に過ぎず、首謀者は謎に包まれ近年の史実研究で詳らかになるであろう。さて、本能寺の変後、秀𠮷との山崎の戦いで利三は敗走、近江の粟田口で磔刑となった。利三の遺骸は友人で絵師海北友松と東陽防長盛が夜間に奪い取り、長盛が住職をつとめる京都真如堂へ葬られた。三人は共に千利休に茶式を学ぶ仲であった。
しかし、羽柴秀吉の明智残党狩は苛烈を極める。利三の兄弟は落武者となって諸国を流浪した。お福こと斎藤福は謀反人の娘となり、母お安に連れられて母方の祖母実家の京都三条西家に身を寄せ、公卿の公国に養育される。これによって、公家の素養である歌道・書道・香道などの教養を身に付ける。天正19年(1591)お福13歳で三条西家へ奉公に上がり、さらに公家の立居振舞など行儀作法に磨きをかける。
その後お福は、母の従兄弟の美濃淸水城主の稲葉重通の養女となる。文禄4年(1595)お福17歳で重通の婿養子稲葉正成の正妻の死去により継室となる。つまり、稲葉正成の養父重通の父は稲葉一鉄(良通)であり、一鉄の妻が三条西家の三条実枝の姉妹である。そして、お福には慶長2年(1597)長男正勝(小田原城主)、慶長5年(1600)二男正定(尾張徳川家の家臣)、)三男岩松(早世)、慶長8年(1603)四男正利(徳川忠長の家臣)4人の男子を授かる。豊臣家に仕えていた稲葉正成は、秀𠮷の命で岡山藩主小早川秀秋の家老5万石になり秀秋を補佐した。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、正成は美濃徳野藩主平岡頼勝と共に家康と内通して主君秀秋を東軍に寝返らせ、家康を勝利に導いた功労者であった。合戦直後に家康から「このたび秀秋忠戦をいたす事ひとへに正成が計らいによるところなり」との書状を賜る。しかし、慶長7年(1602)に秀秋が死去、小早川家が無嗣改易で断絶すると正成は浪人となる。
慶長9年(1604)お福26歳のとき、夫正成と子供を残して京都の母の元に去る。同年7月に京都所司代の板倉勝重によって家康の孫竹千代(家光)の乳母の募集を京都で知己に頼り行なったが、当時の関東を怖れて召しに応じなかった。そこで京都粟田口に高札を立て募集を始めた。
徳川将軍家の乳母募集
お福は京都粟田口で高札を見上げると「将軍徳川家康公のお孫さんの乳母を求める」触書きがあった。応募のため直ちに海北友松の仲立ちで幕府御用達の呉服商後藤縫殿助の助力を得て、京都所司代板倉勝重と面接した。応募者数名の中からお福が選抜され、夫正成と離別の上、長男正勝を連れて江戸へ旅立った。お福は江戸城西丸下大名小路の老中本多正信の上屋敷で旅装を解いた。
慶長9年(1604)7月17日、二代将軍秀忠の嫡子竹千代(家光)が生まれる。母は浅井三姉妹のお江で、浅井長政と信長の妹お市の三女に生まれた。お福26歳は正式に三千石の扶持を賜り、乳母に任命されて西丸御殿の華陽の間に入る。この選考にあたり、京都在住、お福の家柄と公家の教養、夫正成の関ヶ原戦功が評価された。7月23日には七夜の祝いがあり、永野光綱、稲葉正勝、岡部永綱が竹千代の小姓となる。お福と長男正勝は江戸城で乳母と乳母子(乳兄弟)として生活することになった。
家光の乳兄弟は稲葉正勝・稲葉正吉・稲葉正利である。慶長12年(1607)お福の元夫稲葉正成は美濃国に知行地一万石を与えられ、十七条藩が成立した。その後、元和(1618)越後高田藩主の松平忠昌の御附家老として越後糸井川に栄転した。お福はこれら離縁した稲葉家の再興にも尽力している。
乳母(うば)と傳役(もりやく)
乳母の出現は平安時代である。乳母は母親の代わりに乳児に授乳し養育する女性である。古来宮廷貴族の間では、乳母を置くのは常であった。その乳母の容貌や性質は生児に移ると言われ、その選定には厳しく吟味が加えられた。母親に代わって乳を与える乳母を召し抱え、子育て、教育、躾け、また愛情を注ぐのは専ら乳母の役割であった。お福は竹千代に祖父家康の偉業を神の如くに教え、家光の治世に多大な影響を及ぼした。
傳役は(かしずきやく)とも読む。戦国武将の大事な嫡男が生まれると、一切の世話をする男性の教育係である。この役目は戦国期に始まり、家臣の中でも最も信頼のおける者が選出された。その子が成長して世継になると、傳役を務めた者が側近となり、重臣に出世する。傳役には織田信長の「平手政秀」、伊達政宗の「片倉小十郎」、豊臣秀頼の「前田利家」などが活躍した。また、律令制における皇太子の教育官を東宮傳や傳役とも呼んでいる。家光の傳役は選りすぐりの人物で「厳正な酒井忠世、明敏な土井利勝、剛勇な靑山忠俊」の三人である。
大奥法度
江戸城大奥の原初は将軍職を秀忠に譲った家康と側室の住む駿府城の奥向に法度があった。大御所亡きあと側室たちは江戸城へ移る。元和元年(1615)の武家諸法度と禁中並公家諸法度が発令された。その一環として、元和4年(1618)1月2日、二代将軍秀忠の時に大奥法度が定められた。奥の普請や掃除などの御用には広敷向役人が必ず同伴、男子立入禁止、暮六つ以降の奥女中の出入禁止、手形(許可証)不携帯の出入禁止などである。
これらは大奥へ出入りを統括管理する広敷向役人の規則であり、将軍の妻子が生活する奥に不審者の侵入を防ぐためである。さらに時代に合わせた改訂を十四度発令した大奥法度(奥方法度・女中法度)に内部事情の漏洩禁止、賄賂のやり取り禁止がある。これら大奥法度の基盤は大奥総取役のお福が構築した。享保6年(1721)八代将軍吉宗が定めた大奥法度十ヵ条「女中条目」がある。奥女中の文通相手は祖父母、親兄弟、叔父叔母、甥姪、子、孫までに限る。宿下がりで帰省の面会相手も同様である。
元和9年(1623)7月27日秀忠は西ノ丸へ移り大御所になり、家光が三代将軍に就任する。同年お福は北の丸代官町に屋敷を拝領し、長男正勝が老中となる。御台所お江のもと大奥の公務を取仕切る。お江が没した後は大奥を統率、役職の整理や大奥法度の改定など大奥を構造的に整備した。
つまり、お福は将軍継嗣の乳母に留まらず、奥向を制度として確立させ、徳川家と他家の婚姻にも関与していた。将軍御局様として大奥のことは全て一人で沙汰して君臨し、将軍の威光を背景にお福の言動は幕政に影響を及ぼし、その権力は老中を凌ぐ程であった。その背景に「将軍の世継となる血筋の男子を設ける」血脈の継続を最大の目的に徳川家安泰の礎を築いたことにある。
寛永6年(1629)2月に家光25歳は疱瘡と呼ばれた天然痘を患い重篤となる。将軍付奥医師の手当も実らず、お福は斎戒沐浴して江戸城紅葉山の東照宮神前で御百度を踏み、「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に医薬を絶ちます」とひたすら願をかけた。日ならずして家光公の病気は快復した。そのため、お福は以後に鍼灸薬餌を一切用いなかった。
長子相続制の確立
家光の三代将軍就任に伴い、お福は将軍様御局として大御台所お江与の方の下で大奥の公務を取仕切るようになる。しかし、弟国松が生れると父秀忠と母江与は手許にいる弟の国松を可愛がった。やがて秀忠父母は竹千代でなく国松を将軍にしようと考えはじめる。これには理由があった、将軍世継の長子は生母から離され、乳母が育て帝王学を専門家が養育する決まりであった。当然、父母にとって身近にいる弟の国松を溺愛するようになる。
将軍付の家臣も国松𠂢と竹千代𠂢に別れ、将軍就任時の要職を期待していた。これに危機感をもったお福はお伊勢参りと称して、駿府城の家康に直訴したのである。これを聞いて驚いた家康は、ある日突然に江戸城に登城してきた。そして、秀忠夫妻や重臣が居並ぶ前で、次期将軍は竹千代であると明確に宣言したのである。「嫡を廃し庶を立ん事は、天下乱るべき基なり」との教訓は、長子単独相続制の存続が近世社会の基礎的な家族制度として定着した。家康が直ぐに動いた背景には次期将軍の相続争いに豊臣方が注目していたことにある。
天皇家との交渉役
寛永6年(1629)に家光の疱瘡治癒祈願のため、お福は伊勢神宮に参拝した。その足で上洛して天皇家との交渉役を務める任務であった。これは、二年前の寛永4年(1627)天皇の紫衣勅許が「禁中並公家諸法度」に違反すると見た幕府は、大徳寺の沢庵宗彭を流罪にし、幕府の許可のない紫衣を無効とした。この紫衣事件で幕府の処置に対し、逆鱗に触れた後水尾天皇と幕府と融和のためであり、大御所秀忠の意向であった。
御所に上がるには無位無官の武家の娘では資格無く昇殿は叶わない。お福は三条西公条の玄孫にあたり、育ての親である三条西公国の養女を望んだが公国は既に他界していた。そこで公国の長男三条西実条と猷妹の縁組をして、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内の資格を得た。猶子や猶妹は名のみで実質は相続権のない便宜上の家族関係である。この時、お福は宮中礼式や行儀作法に磨きをかける。
春日局の称号
寛永6年(1629)10月10日三条西藤原福子として、後水尾天皇、中宮和子に拝謁、従三位の位階と出身地の但馬国春日郷(丹波市春日町)に因んだ名号「春日局」及び天酌御盃を賜る。お福は50歳より春日局を名乗る。しかし、後水尾天皇は11月に譲位を慣行する。新天皇は後水尾天皇と中宮和子(秀忠五女)の間に生まれた興子は第108代の明正天皇である。
朝廷より従二位と緋袴を賜った折の寿像
寛永9年(1632)7月2日の再上洛で東福門院和子の御所で緋袴の着用を許され、明正天皇より従二位に昇叙し天盃を賜る。春日局の従二位は平清盛の継室平時子や源頼朝の御台所北条政子に並ぶ位階となる。狩野探幽が春日局の緋袴姿の肖像画を描く。お福は春日局の称号を許されたことで朝廷関係など幕府側使者の役割を勤め遂行した。
春日局の長男正勝は、家光の小姓から元和9年(1623)老中に就任する。さらに、寛永9年(1632)11月23日、正勝は相模国小田原城八万石城主となる。寛永12年(1635)家光の勧めで義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えた。同年9月10日に家光は稲葉正則の娘3歳と堀田正俊の婚約に続き、稲葉正則の妹と酒井忠能の婚約を成立させた。その後、正則と正俊は共に幕閣に登用され、老中、大老に就任した。
春日局墓所「湯島・麟祥院」
寛永元年(1624)お福は亡き父母の菩提を弔うため、湯島の地に寺領300石に境内地1万坪を賜り「報恩山・天澤寺」が創建された。後に春日局の隠棲所となり、春日殿町、春日通りの地名となる。
湯島麟祥院入口の春日局立像が
目前の春日通りを見つめている。
寛永11年(1634)1月25日長男正勝38歳が病没した。正勝は老中を務め2年前に小田原8万石城主に就任していた。愁傷のあまり自らも法名を受けて麟祥院と号し、天澤寺を天澤山麟祥院と改める。寛永11年12月には京都妙心寺塔頭にも二百石の地を賜り、麟祥院を建立した。京都麟祥院には、お福を世話し続けた海北友松の長男友雪の本堂障壁画「雲竜図」がある。
京都麟祥院
湯島麟祥院
寛永20年(1643)9月14日、麟祥院内で春日局65歳は永眠した。死去に伴いそのまま開基春日局の菩提寺として創建され、臨済宗妙心寺𠂢「天澤山麟祥院」と称した。麟祥院には将軍家光が還暦を祝して狩野探幽に命じて描かせた「紙本墨画着色春日局像」を所蔵している。また、明治20年(1887)井上円了は麟祥院境内の一棟を借受け、哲学と宗教の啓発のため「哲学館」創立した。東洋大学の前身である。
春日局の墓所には館山藩稲葉家分家、淀藩稲葉家分家
、稲葉正剛の正妻正巌院(万菊)の墓がある。
春日局の墓は卵形の無縫塔の四方と台座の二方に穴が貫通した特異の形をしている。これは「死して後も天下の政道を身守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓の造営を望む」この遺言に衆議し建立した。江戸時代より巷間には「願いが通る」と伝えられて密かに参詣する人が多かった。