荘園制の八百年史、南北朝正閏論を紐解く


江戸歴史散歩を楽しむ会



歴史講座開催のお知らせ






江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚で気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催中です。また、雨天や極寒酷暑でも参加出来る「歴史講座」を開催しております。歴史探訪に好奇心があり、趣味を同じくする人々が集い、散歩や座学などで歴史を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は毎月第2水曜日と第4水曜日に歴史散歩と歴史講座の何れかを開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。





テーマ:荘園制の八百年史、南北朝正閏論を紐解く




開催日:令和8128日(水)




1/28日は終了致しました。


次回は2/25日(水)に開催致します。


会場は人形町の予定です。





集合場所:日比谷線/都営浅草線「東銀座駅」下車


築地社会教育会館2F/5洋室



住所:中央区銀座築地41510335412600



集合時間:受付1250分より1310分に講座開始



開催時間:1310分~1650



講師:渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)




参加費1名:3000



申込方法:資料作成のため下記の電話で申込み下さい。



懇親会:午後5時以降の懇親会は事前申込者で行います。


荒天順延:雨天荒天の場合も決行致します。奮って参加下さい。




講座内容:「歴史の謎その史実に迫る」


稲作伝来と荘園の歴史、武士の起源、封建制度と大名




連絡先:渡辺功一 携帯090-2449-3140 申込はコチラ



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# by watkoi1952 | 2026-01-20 19:56 | 大江戸歴史講座のお知らせ | Comments(0)

歴史に潜む矛盾や疑問に学ぶ


歴史に潜む矛盾や疑問に学ぶ







歴史は考古学的発見や新史料の発見、あるいは歴史認識の変化に伴い、歴史的事実や定説が覆されてきた。また、新一級資料により特定の出来事や人物に関するこれまでの認識が激変し、歴史観全体が再構築されることがある。新たな発見は、これまで見えなかった全体像や隠蔽されていた意味を明らかにする力を持っている。






ゆえに、私たちの歴史認識に対する理解は常に更新され、より深まることになる。歴史は単なる過去の出来事の羅列や記録ではなく、歴史と結び付いた現在を理解し未来を考える上で不可欠な要素となり得るのである。歴史好きの集まる仲間とともに歴史の矛盾や不可解な疑問を解きながら、少しでも史実に近づき解明できないものかと模索中である。






巷間における歴史の「ヒストリー」とはHIS- STORY、つまり、彼の歴史物語である。彼とはいったい誰なのか、それは人民を権力で統治する「為政者いせいしゃ」や「為政家いせいけ」のことである。彼らは統治期間から隠居没年までに様々な権力行使や改竄による自らの都合の良い歴史操作が可能な立場にある。そこに自らの責任において歴史上の事件が勃発すると、代々の家名を穢すことになる「不都合な真実」の発覚を怖れて、証拠隠滅や記録改竄など入念な隠蔽工作を行ない歴史から抹消するのである。






歴史はその集大成として未来の人々に提示されている。ところが、悠久の時代を経ると功妙に隠蔽抹消した痕跡が浮かび上がり「白日の下」に晒されることもある。また、近代では現役時代の不都合な真実が晩年に突然明るみに出て、勲章授与が間近に迫った著名人が「晩節を穢す」という事態に陥ることもある。また、その時代の重大な歴史案件は、前後をつぶさに検証できる「後世の歴史家」に事実解明と判断を委ねようではないか。と言う、後世の人々にその真意を見極めて明らかに解明を願う案件も潜んでいるのである。








歴史の叡智から未来を読み解けるのか



歴史学は過去の出来事を単に遡り紐解くだけの学問ではないが、歴史は未来への選択肢の軌跡でもあり得る。史実を元に歴史を学び、歴史の叡智から未来を読み解くことで見えてくる真実がある。歴史は日常生活や仕事に活用してこそ異議がある。国家や社会に、あるいは会社や人生に活用する大局観を歴史から涵養する方法がある。





人類の営みは、人類誕生後の狩猟民族や農耕民族の生活や生き様がある。その本能に関する深層心理、喜怒哀楽などの心情精神において、現在も特段の変化は見られていない。ゆえに、歴史は繰り返し、歴史学は近代以後も科学的で合理的な学問として成り立っている。現在、私たちの世界は、地球異常気象による国土崩壊と歴史的混乱である戦争/紛争の只中に居る。しかも、さらに拡大飛散の危険性を秘めた「歴史サイクル」の渦中に私たち人類は置かれているのである。






しかし、歴史の流れや法則は、時代、国家、会社、個人であっても、悠久の人類の一生と同様の軌跡を辿ると言う。つまり、人間は誕生、成長期、壮年期、衰退期を迎える。この流れを、現在の歴史の為政者や独裁者に当て嵌めて読み解けば、未来が具体的に見えて来るのである。













# by watkoi1952 | 2026-01-05 15:50 | 歴史愛好家の編集室 | Comments(0)

南北朝と徳川系図、信長と光秀、秀𠮷と利休




江戸歴史散歩を楽しむ会


歴史講座開催のお知らせ




江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚で気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催中です。また、雨天や極寒酷暑でも参加出来る「歴史講座」を開催しております。歴史探訪に好奇心があり、趣味を同じくする人々が集い、散歩や座学などで歴史を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は毎月第2水曜日と第4水曜日に歴史散歩と歴史講座の何れかを開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。

     




テーマ:南北朝と徳川系図、信長と光秀、秀𠮷と利休など



開催日:令和71224日(水)






12/24(水)は 終了しました。




次回は令和8年(2026128日(水)は


歴史講座の開催予定です。







集合場所:日比谷線A2/都営浅草線A6「人形町駅」下車



     日本橋小学校/社会教育会館/B2第一洋室



     日本橋人形町1117 0336622102





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集合時間:受付1250分より1310分に講座開始




開催時間:1310分~1640



講  師 :渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)



参加費1名:3000



申込方法:資料作成のため下記の電話で申込み下さい。




懇親会:午後5時以降の忘年会は事前申込者で行います。




荒天順延:荒天中止の場合は前日までこの頁に掲載します。




講座内容:人形町駅→日本橋社会教育会館→地下2階第一洋室



    「歴史の疑問点不明点と謎その史実に迫る」




連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140 申込はコチラ





# by watkoi1952 | 2025-12-17 16:59 | 大江戸歴史講座のお知らせ | Comments(0)

宮廷高宮に仕える女官の格式



宮廷(きゅうてい)後宮(こうきゅう)に仕える女官の格式







律令官制における宮廷とは、君主が公務を行ない、宰相や中央官僚が政治を司る場所である。また、宮廷音楽、宮廷文学、宮廷画家などが活躍する文化芸術の中心地であった。後宮は宮廷の奥に位置し、皇帝や王の后妃(こうひ)や側室に十二司の女官、その子弟が暮らす居住地である。そこで后妃が皇子を生み、次世代の君主を育成する重要な役割を担っている。そこに皇后を頂点とする後宮の統率者として、側室や女官を管理する役目があり、厳格な階級制度が不可欠であった。そこで円滑な運営のため画然と地位や位階により、権限や衣服に化粧から言語動作に至るまで身分格差があった。









後宮の十二司の女官


女官は天皇と皇后を始め、中宮/女御/更衣に仕え、後宮の事務一切を行なう女子職員である。その官制は太宝令で定められ、平安中期に若干変わったとは言え、以後は近世から明治/大正期まで原形を変えること無く、今なお伝統は驚異的に生き続けている。







一、「内侍司(ないしつかさ)


内侍司は本来、天皇の側近として秘書官の役割と強い政治的な影響力を持っていたが、蔵人頭の設置によりその政治力は失われ、高宮の職務に専念することになった。高宮で最高位の権威を持つ「内侍司の長官」は、天皇に事を奏し、その意思である(えい)()を男官に伝える。また禁中の礼式を司って全女官を統理する。(定員110名)




内侍司(ないしつかさ)長官(かみ)は一等官「(ないしの)(かみ)(従五位)」定員二名である。





次官(すけ)は二等官「(ないしの)(すけ)(従六位)」定員四名である。


判官(しょう)は四等官の「(ないしの)(しょう)(従七位)」定員四名である。


その配下に「采女(うねめ)」「得選(とくせん)」「女嬬(によじゅ)」「命婦(みょうふ)」「御櫛笥(みくしげ)殿(どのの)別当(べっとう)


()()にょ蔵人くらんど」「東豎あずまわらわ」があり、さらに卑職として下部に


六階級の女官「桶洗ひすまし長女おさめ」「御厠みかわやうど」「半物はしたもの」「雑仕ぞうし」「御末おすえ


たちが配されていた。







采女(うねめ)


采女は諸国の国司や郡司から美貌の娘を献上させたのである。水司/膳司の所属であるが、天皇の御饌に奉仕したが、選ばれた美女だけに後宮でも目立ち、天皇の寵愛を受けることも屡々であった。しかし、地方出身者で後盾もなく、やがて、恩寵の衰える日を迎える。奈良朝の一采女はその悲しみに絶えず、猿沢の池に身を投じる。帝はそれを哀れんで、湖畔に葬り采女塚を築く。「枕草子」にその伝説があり、世阿弥も謡曲「采女」にそれを歌っている。采女の制は急速に衰えたが鎌倉期、江戸期と命脈を保ち続け、一千三百年の歴史を有したのである。







命婦(みょうふ)


大宝律令に「内命婦」独身で五位以下の者、「外命婦」五位以下の者の妻の名称である。典侍や掌侍の指導を受け、朝義のとき式場に奉仕する。また、常の御饌をお側近くへ運んだりした。中世には下級女官になり、高宮の雑務に従った。命婦は後に地下ちげ(六位の官人)の娘から採用された。「源氏物語」桐壺更衣の死に際し、御門の御使いとして更衣の母を訪ねる靭負ゆげいの命婦がこれである。







(によ)蔵人(くらんど)


男官の蔵人に相当する女官の役である。日記や物語に「女」を付けず、単に「蔵人」と書く為に男官と紛れやすい。女蔵人は後宮の雑務にあたり、儀式にも奉仕した。摂関家の家司の娘や地下の娘が任じられた。







東豎(あずまわらわ)


東わらわは行幸のとき供奉する少女である。奇妙な事にそのお供には、束帯で男装した騎馬であった。さらに名も男名を付けるならわしであった。五位に叙位されるので束帯の袍は浅緋で、その上に女装の唐衣を着用した。薄化粧にいかめしく冠を頂き黄金の太刀を佩いた晴れ姿は、可憐な中にも艶めかしさを漂わせていた。




平城天皇(774824)の時、女官最高位の尚侍/藤原薬子が天皇の寵愛を受け寝席に侍すると、後に更衣に準じられた。その為、実務は尚侍から次官の典侍へ移行した。ゆえに、平安中期以降の後宮は「(ないしの)(すけ)」中心であった。だが、江戸時代には三転して「(ないしの)(しょう)」または「(ない)()」中心の時代となった。特に掌侍一位の「(こう)当内(とうない)()」は、禁中の長橋に住むことで長橋局」と呼ばれていた。幕末には長橋が公武合体の接点となり、御内儀から出る御文(おんふみ)はすべて長橋局の名を以てし、諸方からの献上品も此処へ上がる。いわば、睨みの利く地位にあった。源氏物語では、南殿の桜の宴の(おぼろ)月夜(づきよ)に弘徽殿の細殿で光源氏が「朧月夜の内侍」の君に会う。







二、「蔵司(くらづかさ)


蔵司は律令制度では女官のみで構成された後宮十二司で最高位である。神璽(しんじ)(かん)(けい)(関所札)、天皇の衣服、(きん)(しつ)(手拭と櫛)、装身具の類、賞賜のことを司る。仕事が重要なため長官は最も高い「尚蔵(正三位)」についている。(定員十七名)






三、「書司(ふみのつかさ)


書司には尚書一人、典書二人、女嬬六人が司る。法令、経典、書籍、筆墨、用紙などを扱う。(定員九名)






四、「(うちの)薬司(くすりのつかさ)


内薬師は皇室の診療と薬事処方が主な職掌で宮内省典薬寮と対になっている。侍医と女医、薬処方など医薬の全てを扱った。(定員七名)






五、「兵司(つわもののつかさ)


兵司は御料の兵器を取り扱った。尚兵1名、典兵2名、女孺6名の(定員九名)である。






六、「闡司(かぎのつかさ)


御宮諸門の鍵や出入りの事を担当した。尚1名、典4名、女孺10名の(定員十五名)である。





七、「殿司(とのもりのつかさ)


殿司は行幸で使う乗物や雨蓋、御殿で使う灯油、薪炭を担当した。尚殿1名、典殿2名、女孺6名の(定員九名)である。






八、「(かにもりの)(つかさ)


掃司は天皇の寝具を整え掃除やや設営を司る。尚掃1名、典掃2名、女孺10名の(定員十三名)である。






九、「水司(もいとりのつかさ)


水司は飯汁や各種の雑粥を作った。尚水1名、典水2名、采女6名の(定員九名)である。





十、「膳司(かしわでのつかさ)


膳司は御膳を整えて毒味、美味、酒、餅、果物など吟味する。尚膳1名、典膳2名、掌膳4名、采女60名の(定員六十七名)である。






十一、「酒司(みきのつかさ)


酒司は宮廷で用いる酒を醸した。尚酒1名、典酒2名の(定員三名)である。





十二、「縫司(ぬいのつかさ)


縫司は衣服の裁縫や帯と紐を編むなど担当した。尚縫1名、典縫2名、掌縫4名の(定員七名)である。





後宮の十二司の女官合計は二百七十五名である。是に下級の侍女を合わせると一千名を超えている女性国であった。その組織は縦に十二司、横に十四階級あり、女官は厳しく組織運営されていた。





女房(にょうぼう)


後宮の女房とは、天皇の后や側室に女官達が暮らす「後宮(こうきゅう)」で高貴な人達の身の回りの世話や子女の教育係を務める女性達である。女房は高位の女性官人であり、「房」とは寝殿造の屋敷内に与えられた部屋の事で、まだ壁や襖などなく屏風や几帳で区切った私室である。住み込みで働く女房の役目は、仕えた方が周囲の貴族達に尊敬され、天皇の寵愛を受けるように努めることも要求された。そのため教養や知性に優れた中流貴族から厳選されていた。紫式部や清少納言も女房として後宮に仕えていた。






召人(めしうど)


召人とは貴人の側に召し使う人である。平安時代の特に主人と男女の関係のある女房を「召人」呼ぶ愛人であった。当然、皆に知られているがその関係は公然の秘密であり、当人の前で一切口に出さないことが暗黙の了解であった。国政を担う最高の職位「()(ぎょう)」の正室「北政所」には、召人の存在を黙認する事が暗に求められていた。実質的には妻であるが、局住まいであり表向きの身分はあくまで貴人に仕える「女房」であった。




親王や三位以上の公卿には、寝殿造の自邸に私的な諸事を司る事務所の開設が認められ、これを「家政を司る所」から「政所」と呼び、その寝殿の北向き住居棟で家政万端を決裁する正妻を「北の政所」と称した。後に摂政や関白の正妻の称号となり、豊臣秀吉の正室「高台院」の固有名詞として定着した。





(かみ)女房(にょうぼう)


天皇に仕える「上の女房」は、朝廷の公的な女官である。貴族の家に仕える「家の女房」、后妃に仕える「キサキの女房」がいた。「高宮十二司」を含むが、その他の女房は高位の女性使用人であるが、必ずしも常に公的な官職ではない。






(みや)女房(にょうぼう)


「宮の女房」は後宮の中宮(正妃)に仕える女房と呼ばれ、宣旨を筆頭に后やその庇護者から私的に雇われる女性である。上臈(じょうろう)とは(三位以上の上級貴族出身)、中臈 (ちゅうろう)とは(四位・五位の中級貴族出身)、 下臈(げろう)と階層が分かれる命婦(みょうぶ)とは五位以上の女官と、五位以上の役人の妻を指す言葉である。





「女房三役」


女房三役とは平安時代の貴族社会において、中宮や東宮、斎院などに仕えた上級女房の中でも特に重要な役割を担った「宣旨(せんじ)」「御匣殿(みくしげどの)」「内侍(ないしのかみ)」の三職を女房三職と呼んでいる。女房三役は、以下の三つの役職で構成されている。





宣旨(せんじ)


女房の筆頭であり、主人の口頭命令を伝達する第一秘書の役割を担った。中宮や東宮に斎院などに置かれ、高い家格や教養を持つ女性が選ばれた。女房集団を統括するなど「宣旨女房」ともよばれていた。一条天皇の中宮/藤原彰子に仕えた源陟子(みなもとのただこ)は「宮の宣旨」と呼ばれていた。






御匣殿(みくしげどの)


「御匣殿」は、後宮で衣服や裁縫を担当する女官たちが働いていた場所のことである。この場所を取り仕切る女性は、「御匣殿の別当」と呼ばれ、略して「御匣殿」と称された。平安後期には宣旨に代わって筆頭となることもあった。







内侍(ないしのかみ)


天皇の後宮十二司における尚侍に相当する役職である。天皇の秘書のような役割を担い、公的な性格が強い女房であった。






女房三役の役割


女房三役は、単なる使用人ではなく、主人の代理人として重要な職責を担った。渉外役:主人の意向を外部に伝え、交渉を行う役割があった。統括役:主人に直属する女房集団を統括し、指示を出した。代行役:主人が女性の場合、その代理人として行動することもあり、教養が高く、歌を代詠することもあった。





# by watkoi1952 | 2025-12-14 14:36 | 皇居の歴史と景観 | Comments(0)

徳川家康の宗教観


徳川家康の宗教観








家康の菩提寺は代々「浄土宗」である。




三河国加茂郡松平郷は松平宗家の発祥の地であり、同地にある松平家の菩提寺は現豊田市松平町の「高月院」である。岡崎に出て「大樹寺」と供に浄土宗の菩提寺である。永和2年(1377)京都知恩院末寺の「静寂寺」を初代松平親氏が本尊として阿弥陀如来を祀り、堂塔の全てを寄進して、松平家の菩提寺を創建した。寺名は知恩院に倣い、本末山高月院静寂寺の院号「高月院」と改めて三河国西部に浄土宗を定着させた。






その後、徳川家康によって寺領100石が与えられ、江戸時代の終焉まで歴代将軍家から厚い保護を受けていた。寛永18年(1641)現代の山門や本堂は三代将軍家光によって寄進建立されたものである。境内には松平家墓所があり、親氏、泰親、親忠夫人の3名の宝塔が並んでいる。この境内地は松平家初期の様子を伝える重要な遺跡として、国の史跡「松平氏遺蹟」に指定されている。このように浄土宗大樹寺は松平氏と徳川家代々の菩提寺である。









淨土真宗(一向宗)



一向宗(いっこうしゅう)は、鎌倉時代の僧「親鸞(しんらん)聖人」が開いた浄土真宗の阿弥陀仏への信心「一向専念無量寿仏」からの呼称である。親鸞は、念仏を唱えながら阿弥陀仏の救いを信じて極楽浄土を目指すことを説いた。この明快な教えが、武家や商人に農民などの幅広い層に広まった。一向宗の中でも浄土真宗本願寺教団の信徒は組織力が強く、支配者権力への抵抗運動を各地で引き起こしていた。




特筆すべきは、長享2年(1488)に加賀国で勃発した加賀一向一揆は大規模な争乱となった。20万人の一揆勢が守護大名の富樫正親を滅ぼすと、加賀国は一向宗の信徒/僧兵による100年間に及ぶ統治と支配体制が存続し「百姓の持ちたる国」と言われた。その後、守護同志の争いに要請されても参戦することはなく、一向一揆の目的はあくまで淨土真宗の教えを護ることにあり、そのための一致団結である。




戦国時代の一揆は、室町時代の正長(しょうちょう)元年(1428)から起きていた。その目的の「土一揆」は年貢を減らして貰う為である。「徳政一揆」は借金を帳消しにして貰う為であった。ところが、一向一揆の目的はそれらと違っていた。その始まりは、淨土真宗8代目の蓮如上人の本願寺を比叡山延暦寺が破壊した「寛正の法難」が勃発した。その翌年、文正元年(1466)近江の淨土真宗の門徒が比叡山と戦ったのが始まりで、一向一揆の目的は最初から淨土真宗の教えを護るためであった。









家康と三河一向一揆



三河一向一揆は永禄6年(1563)~永禄7年(1564)までの半年間、三河国の西三河全域で行なわれた一向一揆である。当時の三河国は、徳川家康の源流松平家の本家や分家による分割統治を経て、徳川家康が統一支配を目指して内戦を繰り広げていた最中であった。家康が統治していた頃の三河国東部にも浄土真宗本願寺派の「本證寺(ほんしょうじ)しょう鬘寺まんじ」「上宮寺じょうぐうじ」があり、三河三ヵ寺と呼ばれ多くの一向宗信徒がいた。この時代は鎌倉/室町幕府に任命されて、各地の徴税の権限や警察の機能を持つ「守護大名」の勢力が没落し始め、家康のような戦国大名が台頭し、自力で領国を獲得して統治を始めた時代である。






しかし、浄土真宗本願寺派の寺には「守護使(しゅごし)不入(ふにゅう)」の特権が付与されていた。家康の父広忠の代に与えた特権は、守護やその使者が罪人の追跡や徴税のため寺に立入れず、課税されず、警察権も及ばない治外法権領域であった。この不入特権を主張する三河三ケ寺と、教団の利権を解体して三河国統一を目指す家康との対立が深まっていた。その一揆の発端は、家康の家臣が「守護使不入」を侵害した寺の立入りにあった。蓮如の曾孫「空誓」は本願寺門徒を招集して檄を飛ばし、一斉に蜂起し襲撃を命じた。そこに家康に領地と特権を奪われた旧領主が奪還すべく参戦した。家康との闘争に突入、それぞれが籠城戦や城攻めを繰り広げていた。






三河一向一揆は永禄6年(15639月に始まる。永禄7年(1564115日の馬頭原合戦の勝利で家康は有位に立ち、2月に和議が成立した。この一揆勢は家康の本城である岡崎城に迫るほど猛撃していた。これ以上戦いを長引かせたくない家康は、一揆に加わった者を処罰しないことや、引き続き守護使不入権を認める講和条件を受入れ和解した。しかし、徳川家康は、一揆に加担した武士らを三河国外に退去させて、講和条件を反故にして、一向宗の寺を焼き討ちにした。さらに、空誓上人ら三河三ヵ寺の僧を三河国から追放し、一向宗は以後20年間三河国で一切の布教活動を厳しく禁じられた。




徳川家康の家臣団は、忠義に厚く勇猛な三河武士揃いであったと語り継がれている。その忠臣の多くが三河一向一揆の際には家康から離反し、一揆側に加担していた。彼らは一向宗の信徒のため、信仰と忠臣の狭間で苦悩の末に主君家康と敵対する道を選択したのである。徳川一族間で門徒方と家康方に分裂するなど家中統制で苦しめられ混乱を極めた。三河一向一揆は、三方が原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされている。家臣団の多くが門徒方に与するなど、宗教の信仰を護る恐ろしさをまざまざと見せつけられ、家康の生涯の宗教観に多大な苦悩の影響を与えている。



この三河一向一揆で家康と袂を分かった主な家臣のその後の行末を見てみよう。



「本多正信」は家康が盟友/参謀として重用した側近中の側近であった。一揆後は三河国を離れ、大和国の大名松永久秀の元で仕えていた。家康の家臣「大久保忠世」の取り成しで徳川家に戻り、後に江戸幕府の幕閣となり老中を務めた。




「渡辺守綱」は槍半蔵の異名を取った槍の名手で、歴戦の勇者であった。一揆で家康に背いたが許されて帰参すると、昇進を望まず、70歳を過ぎても槍1本で戦の最前線に立ち続けた。家康の功臣16人が名を連ねる「徳川十六神将」に数えられている。




「夏目広次」は家康が八幡村城攻めに敗れて退却した際に、最も危険な部隊の最後尾を守る「殿(しんがり)」を務めた。この功績により、家康から名刀工「備前長光」作の脇差を与えられた。一揆後は、これまでの忠誠を認められて帰参した。後に家康が大敗を喫した「三方ケ原の戦い」で、主君の窮地を救うため家康の兜を被り、(おとり)となって敵陣に突入して討死した歴戦の強者であった。





本願寺は戦国大名を凌ぐ勢力



さて、11代目顕如上人時代の淨土真宗本願寺派は、戦国大名を凌ぐ強大な勢力となっていた。信仰で繋がる各地域の一向宗に戦国大名は手を焼き、相模の北条氏は一向宗を60年間の禁止令、越後の上杉謙信は30年間禁止令、三河の徳川家康は20年間の禁止令とした。ところが、永禄10年(1567)織田信長は奈良の大仏殿を焼打にした。





その翌年、本願寺に五千貫の矢戦と呼ばれる軍事費を要求したのだ。顕如は平和裡に治めるため指示通りに支払った。だが、信長はさらに石山本願寺の明渡しを要求した。ここに、元亀元年(1570)織田信長と一向宗の石山戦争が勃発しのである。一向宗は「進は往生極楽、退くは無間地獄」と記した旗を掲げ、必死で戦った。その勢いに推され、信長の率いる戦う職人集団も本願寺を打ち破る事が出来ず一旦退却した。










比叡山焼き討ち事件



信長は比叡山に本願寺攻めの応援を要請したが断られた。元亀2年(1571912日、信長は比叡山延暦寺の焼き討ちを敢行した。根本中堂を手始めに、四百の諸堂を焼き尽くし、参内に住む千五百人の僧侶が虐殺された。この主原因は、信長と敵対する朝倉義景/浅井長政に比叡山が味方したことが、信長の逆鱗に触れたのであろう。








伊勢長島一向一揆



元亀2年(1571)伊勢国長島の一向宗の拠点であった「願証寺」は顕如の命を受け、信長軍と対峙する10万の一揆勢を挙げ、信長軍は苦戦を強いられた。天正元年(15739月、信長は二度目の長島一向一揆への攻撃を開始した。信長は伊勢大湊惣中の船を徴発して桑名に向かい、海上戦を有利に進めた。さらに九鬼水軍を援軍にして、翌年9月に一揆を鎮圧した。信長はこの一向一揆を許さず、信徒の籠城する長島城と中江城を幾重もの柵で囲み放火、逃げ場のない二万の男女は焼死した。信長は降伏する事の無い信徒を根斬り(皆殺し)にしたのである。









織田信長と大阪石山本願寺



大阪城の建つ上町台地には、明応5年(1496)本願寺8世法主の蓮如が建てた坊舎が石山本願寺の本山となる。そこに濠や塀に土塁を築いた城砦に寺内町も形成されていた。11世顕如の時代に天下統一を目指す織田信長には石山本願寺が最大の障壁であった。その大阪の要所を確保の為11年間に及ぶ石山合戦が繰り広げられた。天正8年(1580)正親町天皇による和議が成立し、信長に明け渡され、本願寺跡地に大阪城の築城を開始した。





しかし、本能寺の変で未完の大阪幻城となった。豊臣政権下になると秀𠮷は蓮如に京都七条堀川の寺地寄進を行い、蓮如の三男「准如」を十二代宗主とする「西本願寺」派を再興した。これに対して、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、信長との和議に反対した蓮如の長男「教如」に西本願寺のすぐ東の京都七条烏丸に寺地寄進を行い「東本願寺」派を再興した。これは三河一向一揆の苦い経験から信徒の拡大を怖れた家康の将来に禍根を残さない為の宗教対策の分離分立である。





元亀元年(1570)9月、大坂本願寺は三好三人衆(三好長逸、岩成友通、三好政康)らと協力し、足利義昭と織田信長に戦いを挑んだ。 これまで、大坂本願寺は信長に抵抗するために戦いを挑んだと言われてきたが、それは誤りである。大坂本願寺が先制攻撃を仕掛け、信長がそれに応じたのが実情であった。天正元年(1573)大坂本願寺が頼みとする朝倉氏と浅井氏が信長に滅ぼされ、1度目の和睦をする。




天正2年(1574)大坂本願寺は信長に再び戦いを挑んだのだ。しかし、同年には伊勢長島一向一揆、越前一向一揆も殲滅されたので、大坂本願寺は信長に2度目の許しを乞うた。天正4年(1576)毛利氏が義昭を推戴して信長に叛旗を翻すと、大坂本願寺は信長に3度目の戦いを挑んだ。しかし、4年後の天正8年(1580)大坂本願寺はついに信長に屈したのである。










# by watkoi1952 | 2025-12-07 21:20 | 歴史愛好家の編集室 | Comments(0)