参加者募集のお知らせ



江戸歴史散歩を楽しむ会 


参加者募集のお知らせ



春の気配で心浮き立つ季節になりましたが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。自粛疲れと散歩不足で、すっかり弱った足腰を回復すべく、新規に開催を企画しました。令和5322日(水曜日)に第1回大江戸歴史散歩として開催致します。新たに参加者の会員名簿を作成しますので、参加希望者はメールで申込下さい。これまで参加の方、新規参加の方、ともに新規参加として下記のアドレスにて参加の申込を頂いた方に後日「開催のお知らせ」を送信致します。




開 催 日の変更: 令和5322日(水)の予定を案内人の都合で急遽、4月以降の開催に変更することになりました。次回開催の仮予定を4月19日(水)と致します。直前にお知らせを掲載致します。



参加費1名:初参加2000円、2回目より1000円、また6回連続不参

      加の場合は初参加となります。



開催予定日:第2水曜日は隔月開催(1,357911月)

      第4水曜日は毎月開催、8月猛暑は中止の予定



連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140



メルアド:watako1952@jcom.home.ne.jp 参加申込みコチラ










# by watkoi1952 | 2023-02-23 18:15 | 定例会散歩開催のお知らせ | Comments(0)

徳川将軍家の歴代御台所



徳川将軍家の歴代御台所




初代征夷大将軍の徳川家康や二代将軍秀忠の戦国時代は、敵対する勢力同士の和睦や臣従、同盟関係の締結などで戦争を回避するための政略結婚が常態化していた。家康は一族や家臣の娘を養女にして有力外様大名に嫁がせ、姻戚関係を結んでいた。武将同士が婚姻で強い関係を結ぶことは、権力の配置図を浮き彫りにする義礼であり、一種の安全保障を意味していた。江戸幕府では大名同士の婚姻による結束が強まる事を怖れ、武家諸法度で大名同士の結婚に幕府の許可を得るように規制していた。




元和9年(1623)家光20歳は父秀忠と供に上洛し、伏見城で将軍宣下を受け、征夷大将軍・正二位・内大臣に任命される。3代将軍家光は父祖と格式が異なる生まれ乍らの将軍であると、諸大名と一線を画する存在となった。幕府は三代将軍家光より、皇族の四親王家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)及び、五摂家(近衛、鷹司、九条、二条、一条家)、さらに天皇家皇女を江戸城の将軍家の御台所に輿入れすることが慣例となった。徳川15代御台所の出身地は、駿河1名、尾張1名、近江1名、三代将軍より京都13名、薩摩2名の合計18名である。




これらは徳川将軍家の家格に朝廷の権威を加え、政権の正当性と将軍家の安泰を保つためであった。御台所とは平安朝の大臣職の正室が用いていたが、源頼朝の正室政子が称して以来、徳川将軍家の正室のみに許された呼称で、呼びかけは「御台様」である。御台所が老退して、現将軍の実母であれば大御台所となり、呼びかけは「大御台様」である。また、将軍就任前に嫁いだ正室は、御三家、御三卿の正室と同様に「御簾中」と呼ばれ、西ノ丸大奥に居住した。将軍宣下で御台所になると江戸城本丸の大奥御殿の北西にある「松御殿」や「新御殿」に居住した。







初代徳川家康 正室「築山殿」継室「朝日姫」



家康の将軍在位は、慶長8年(1603212日 ~ 慶長10年(1605416日までの2年間で正室は不在であった。家康の正室築山殿(西光院)の父親は、駿河今川家重臣の関口親永、母親は今川義元の妹とされている。弘治3年(1557115日、駿府今川家の人質の松平元信(家康)は築山殿と結婚する。永禄2年(1559)長男松平信康、翌年に亀姫が誕生する。家康と信長による清洲同盟が成立する。永禄10年(1567)家康の長男信康と信長の長女徳姫が9歳同士で結婚する。



徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_14341657.jpg

       築山殿



天正4年(1579)岡崎城で徳姫21歳は登久姫、翌年に熊姫が誕生する。だが、いつまでも信康の長男を産まないため、築山殿は心配して信康に元武田家の家臣の娘二人を側室に迎えさせた。天正7年(1579)徳姫は夫信康との不仲や築山殿が武田勝頼との内通があったなど12条の訴状を父親の信長に送った。これにより信長が家康に信康の処刑を命じた。築山殿は徳川家の将来を危惧した家康の家臣が独断で殺害して、首は安土城の信長の元に届けた。信康20歳は幽閉中の二俣城で自刃した。



徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_14343829.jpg
    朝日姫



秀𠮷は小牧・長久手の戦い後の和睦で、家康の次男秀康を養子としていた。さらに、秀𠮷は家康を妹婿として主従関係を深め、従属を深めるため、妹の朝日姫を強制的に夫と離縁させた。天正14年(1586)五月14日、浜松城で家康45歳は朝日姫44歳を継室に迎え入れた。朝日姫(南明院)は、豊臣秀吉の生母大政所(仲)の再婚した父親が竹阿弥と伝わる。つまり、朝日姫は秀𠮷の異父妹にあたる。朝日姫は家康が小田原征伐に出征準備中の天正18年(1590)正月に47歳で没した。







2代徳川秀忠  御台所「お江の方」



秀忠の将軍在位は、慶長10年(1605416日 ~元和9年(1623727日までの18年間である。正室のお江の方(崇源院)の父親は、近江小谷城主の浅井長政、母親は織田信長の妹お市の方である。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉の側室であり、次姉の初(常高院)は若狭小浜藩主の京極高次の正室である。正12年(1584)お江の方の最初の婚姻相手は織田家の家臣佐治一成だが、裏切りの嫌疑で秀𠮷によって追放され、お江も離縁させられる。このようにお江は秀𠮷の養女で政略結婚の手駒であった。



お江の2度目の婚姻相手は秀𠮷の甥の豊臣秀勝である。文禄元年(1592)秀勝は朝鮮出兵中に戦病死した。秀勝との間に誕生した娘の羽柴完子(さだこ)は長姉茶々の猶子となる。お江の三度目の婚姻相手は二代将軍秀忠である。秀忠は天正18年(1590)に上洛し、織田信雄の長女で秀𠮷の養女となった小姫と縁組みしていたが、小姫の死去で婚礼に至らなかった。文禄4年(1595917日、お江の方は伏見城において徳川家康の世嗣である秀忠の正室に再々稼する。秀𠮷の狙いは、秀頼の後ろ盾として徳川家に期待をかける婚姻であった。


徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_14394848.jpg

    お江の方




慶長2年(1597)お江の方は長女千姫に始まり、珠姫、勝姫、初姫、家光、忠長、和子の25女を儲けた。寛永3年(1626915日お江の方は江戸城西ノ丸で死去、享年54歳であった。2代将軍秀忠の御台所に生まれた3代将軍家光の生母である。第108代後水尾天皇25歳に入内した徳川和子14歳の生母で、第109代女帝の明正天皇の外祖母にあたる。二度目の豊臣秀勝との間に生まれた豊臣完子は、淀殿の尽力により摂関家九条家の九条幸家の正室となる。



豊臣家滅亡後、九条幸家の正室完子(お江の娘)は43女を儲けた。その二男の九条道房の血統を引く九条道孝の4女節子15歳が、明治33年に大正天皇の妃となった貞明皇后である。つまり、父親から浅井家の血筋を母親から織田家の血筋を引くお江の血統は、昭和天皇、明仁上皇、今上天皇の血脈に連なっているのである。







3代徳川家光  御台所「鷹司孝子」



家光の将軍在位は、元和9年(1623727日~ 慶安4年(1651420日までの28年間である。御台所の鷹司孝子(本理院)の父親は五摂家「鷹司家」の関白・鷹司信房、母親は佐々成政の娘輝子である。元和9年(16238月、家光が将軍宣下を受けるための上洛中に摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸に下る。御台所お江の方の猶子となり12月に輿入れする。猶子とは相続の権利を有しない名前だけの養子である。寛永2年(1625)に正式に婚礼して御台所となり、「若御台」と呼ばれた。



徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_16302261.jpg

鷹司孝子



しかし、家光との仲は結婚当初から険悪で、実質的な夫婦生活は皆無であった。程なくして、家光から事実上の離縁となり、大奥から追放され江戸城内の中ノ丸(三の丸)の新御殿に移る。さらに御台所の称号も剥奪され「中ノ丸様」と呼ばれ、長期にわたる軟禁生活を余儀なくされた。家光は祖父家康を敬愛しており、三代将軍の世継問題で異議のあった父秀忠お江の方の形式的な猶子になり輿入れした。家光はこの猶子となった孝子御台所を在世中に許すことはなかった。しかも、家光は孝子を終始忌み嫌い、冷遇し続けて当然子供は儲けていない。



家光には戦国武将のように男色の性癖があり、側近に仕えた小姓3名が寵愛を受けていた。これに困り果てたのが乳母の春日の局であり、家光好みの側室の設置に継嗣存続の執念を燃やした。そして、浅草寺の帰路に見初めたお楽の方に「4代家綱」、鷹司孝子付き侍女お夏の方に「甲府藩主・綱重」、公家お万の方の侍女お玉の方に「5代綱吉」、お振の方に「千代姫・尾張藩正室」などが側室に誕生した。



徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_16403112.jpg


春日の局は「将軍様御局」と呼ばれ、やがて大奥幹部の「御年寄」に定着して、将軍継嗣を管理監督する立場で老中を上回る強大な権力を手中に収めていた。家光の命により継嗣の家綱や綱吉と孝子との養子縁組も一切結ばせなかった。さらに歴代御台所の位階は、従二位または従一位であるのに対し、孝子は生涯にわたり無位無冠であった。



明和2年(176310代将軍家治の時代に従一位が送られたのは、没後89年後のことであった。孝子の墓所は歴代将軍・御台所の眠る墓所でなく、小石川伝通院に眠る。家光は父秀忠と同じ増上寺墓所に入ることを忌み嫌い、天海僧正の念願と自らの御霊屋となる天台宗寛永寺の開基となった。家光は自身の葬儀は寛永寺で行ない、遺骸は家康の廟のある日光へ、寛永寺墓所には家光の血筋を引く将軍の菩提寺にせよと遺言している。








4代徳川家綱  御台所「浅宮顕子」



家綱の将軍在位は、慶安4年(1651818日~延宝8年(168058日までの29年間である。御台所の浅宮顕子(高厳院)の父親は親王家筆頭「伏見宮家」の伏見宮貞清親王、母親は豊臣秀吉の養女(宇喜多秀家の娘)の三女である。2代将軍秀忠の五女和子(東福門院)の推挙により顕子女王は4代将軍家綱と婚約、明暦の大火を免れた江戸城西ノ丸で婚儀が執り行なわれた。



万治2年(16599月、本丸大奥に入り御台所を称した。京都よりお付き上臈として、姉小路局や飛鳥井局が付き従った。延宝4年(1676)に御台所は乳がんを発症して、家綱が奥医師の診察を助言した。だが、「御簾外の者に対面するのは、公家方の礼を乱すことになる」と言って触診を拒否した。苦しさを訴えることもなく、同年85日に37歳で薨去された。



家綱との間に子はなく、寛永寺に葬られる。延宝5年(1677)に従一位が追贈された。家綱には嗣子もなく病弱で危篤となり、秀忠・家光からの直系男子は断絶した。そこで家光の四男で館林藩主の松平綱吉を養子に迎え将軍嗣子とした。延宝8年(168058日家綱40歳は病弱で死去した。








5代徳川綱吉  御台所「鷹司信子」



綱吉の将軍在位は、延宝8年(1680823日~ 宝永6年(1709110日までの29年間である。御台所の鷹司信子(浄光院)の父親は、五摂家「鷹司家」の左大臣・鷹司教平、母親は鷹司家系の冷泉為満女の長女に生まれる。三代将軍家光の御台所の鷹司孝子は大叔母にあたる。寛文3年(166310月、上野国館林藩主の徳川綱𠮷と縁組みが調い、翌年9月に東福門院(後水尾天皇の和子皇后)の侍女が信子に付き添って下向、江戸上屋敷の神田御殿で婚礼を挙げた。



綱吉とは子宝に恵まれなかったが、側室お伝の方に鶴姫や夭折した徳松を儲けても変わらず、能鑑賞や祭礼見物など行動を供にする機会が多かった。延宝8年(1680)綱吉の征夷大将軍の就任により、江戸城大奥に入城する。貞享元年(1684)鶴姫が紀州藩主の徳川綱教への輿入れでは、鷹司家を通じて右衛門佐局(大奥女中)を鶴姫付きの上臈として随行させている。後年、右衛門佐局は江戸に戻り、綱吉付きの筆頭上臈御年寄として大奥を取り仕切っ

た。


徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_14514682.jpg

    鷹司信子



元禄4年(1691)ドイツ人医師で博物学者のエンゲルベルト・ケンペルは表御殿で綱吉と御台所信子に対面した。ケペルは信子の様子を「小麦色の丸顔の美しい御方で、背は高くぱっちりとした黒目が印象に残った」と日本の見聞記に記している。宝永6年(1709)綱吉が没すると、落飾して浄光院と号したが間もなく綱吉の後を追うように59歳で逝去した。墓所は綱吉と同じ寛永寺に眠る。








6代徳川家宣  御台所「近衛熙子」



家宣の将軍在位は、宝永6年(170951日~正徳2年(1712年)1014日までの3年間である。御台所の近衛煕子(ひろこ)(天英院)の父親は五摂家筆頭「近衛家」の関白・太政大臣の近衛基煕、母親は後水尾天皇の第十五皇女の常子内親王である。延宝7年(167912月、甲府藩主の徳川綱豊(家宣)の江戸上屋敷「桜田御殿」にて婚礼の儀式を挙げ、熙子を正室に迎えた。父基煕にとってこの婚儀は不本意であったが、幕府の要請に断ることができず、近衛家一族の権中納言の養女となって嫁いだ。



しかし、この養子縁組は幕府を侮辱する行為であったが、互いに秘匿して熙子の扱いは近衛家の娘として嫁いだ。綱豊との仲も良く、長女豊姫、長男夢月院を儲けたが両名とも夭折する。宝永元年(170412月、綱豊を家宣と改め、将軍綱吉の嗣子として江戸城西ノ丸へ迎える。熙子は御簾中として西丸大奥へ入った。宝永6年(17091月に綱吉が病没すると家宣は第6代将軍に就任した。


徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_14544778.jpg

    近衛熙子



熙子は従三位に叙され、御台所として本丸大奥に移った。正徳2年(1712)家宣が病没すると、熙子は落飾して「天英院」と号し従一位を賜る。家宣の側室お喜世の方(月光院)の産んだ家継が7代将軍となるが、家宣の遺言により本丸大奥内で家継の嫡母として後見人となった。そして、大奥の首座は天英院、次席は将軍生母の月光院となった。天英院は家継への八十宮降嫁にあたり主導的な役割を果たした。



天英院は家継の早世後に8代将軍吉宗を迎えるにあたり、「これは先代将軍家宣公の御意思なのです」と強く働きかけた。また、吉宗に御台所が不在のため将軍家女性の筆頭として大奥に権勢を奮い、幕府に対する発言力も絶大であった。享保16年(1731)に二ノ丸御殿に移り、寛保元年(1741)天英院(熙子)は76歳で没した。同年従一位を追贈され、家宣と同じ芝増上寺に葬られた。






7代徳川家継 幻の御台所「八十宮吉子」



家継の将軍在位は、正徳3年(171342日~ 享保元年(1716430日までの3年間である。御台所の八十宮吉子(浄琳院)の父親は、「天皇家」第112代霊元天皇であり、その第13皇女「吉子内親王」に生まれる。生母は天皇後宮の右衛門佐局の松室敦子である。同母兄に有栖川織仁親王がいる。家宣亡き後、史上最年少の将軍家継に権威付けのために皇女の降嫁を進めていた。特に幼君を戴いて正徳の改革を推し進める側用人の間部詮房や新井白石ら幕政運営者の念願であった。



この降嫁には天英院に対抗する権威を朝廷に求めた月光院も御台所を皇室から迎えることに前向きであった。正徳5年(1715)吉子内親王15ヶ月は将軍家継7歳と婚約する。正徳6218日に納采の儀を行なったが、その僅か2ヶ月後に家継が薨去したため、天皇家より史上初の武家への皇女降嫁と関東下向には至らなかった。家継が7歳で死去のため、家光の生母お江の直系子孫は途絶えた。享保11年(172617ヶ月で後家となった八十宮吉子は親王宣下で吉子内親王となる。


徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_15220405.jpg

    八十宮吉子



享保17年(1726)父親の霊元法皇薨去後に出家して法号を「浄琳院宮」と号した。宝暦8年(1758)吉子内親王は45歳で薨去、墓所は京都知恩院である。正徳4年(17147代将軍家継の生母月光院に仕える大奥御年寄の絵島が名代として、前将軍家宣の芝増上寺に墓参に赴いた。その帰途に木挽町で歌舞伎役者の生島新五郎の芝居を観た。その後、生島を相手に遊興に及んだ事が発覚し、関係者1400人が処罰された綱紀粛正の絵島生島事件が大奥を騒がせていた。







8代徳川吉宗  正室「真宮理子」



吉宗の将軍在位は、享保元年(1716813日~ 延享2年(1745925日までの29年間である。正室の真宮(さなのみや)理子(さとこ)(寛徳院)の父親は伏見宮家の第13代伏見宮貞致親王の王女に生まれる。母親は関白近衛尚嗣の好君である。宝永3年(1706)理子女王は第5代紀州藩主の徳川吉宗との縁組みで江戸藩邸の赤坂御殿に入り婚礼が行なわれた。宝永7年(1710)正室の理子は懐妊して着帯したが死産となり、産後の肥立ちが悪く64日に薨去した。



墓所は紀州報恩寺と池上本門寺にある。以後、吉宗は二度と御簾中(正室)を迎えることはなかった。8代将軍に紀州吉宗を指名した天英院が御台所の役割を務めたように、江戸時代を通して、御台所不在の期間が100年近くあり、その実権を大奥老女や側室が握っていた。


徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_16415983.jpg







9代徳川家重  御簾中「比宮増子」



家重の将軍在位は、延享2年(1745112日~ 宝暦10年(1760513日までの15年間である。正室の比宮(なみのみや)増子(ますこ)明院)の父親は伏見宮家の14代当主伏見宮邦永親王の第四女王に生まれる。母親は霊元天皇の第五皇女の福子内親王である。紀州藩主時代の吉宗の正室理子は叔母にあたる。享保16年(173112月に家重21歳と増子女王17歳は結婚し、江戸城西ノ丸に入り御簾中様と呼ばれた。


徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_15255574.jpg

    比宮増子



増子は家重の虚弱で言語不明瞭の障害を承知で嫁いできており、初めから覚悟が違っていた。結婚後半年も経つと増子以外に言語を理解できる者はいなかった。これは家重にとって大変な収穫であった。だが、宮家から迎えた正室は健康に恵まれなかった。享保18年(1733)に懐妊するが早産死となり、増子23歳も産後の肥立ちが悪く御台所になる前に薨去した。従二位が追贈され上野寛永寺に葬られる。家重はその後正室を迎えることはなかった。延享2年(1745)父吉宗は隠居して大御所となり、家重は第9代将軍に就任した。







10代徳川家治  御台所「五十宮倫子」



家治の将軍在位は、宝暦10年(1760513日~天明6年(178698日までの26年間である。御台所の五十宮いそのみや倫子ともこ(心観院)の父親は世襲親王家「閑院宮」を創設した閑院宮直仁親王である。母親は閑院宮家の家女房讃岐である。寛延元年(1748)京都所司代と朝廷との交渉で将軍家重の世嗣家治と五十宮倫子の縁組みが決呈する。翌寛延2年に京都を発ち、江戸に到着すると江戸城浜御殿に入る。



宝暦4年(1754)江戸城西ノ丸に入り、婚礼の式を挙げ「御簾中様」と呼ばれる。宝暦6年に長女千代姫を産んだが2歳で夭折した。宝暦10年(1760)に家治が10代征夷大将軍に任命され、江戸城本丸の大奥に移り「御台様」となる。翌明暦11年に次女の万寿姫を生んだ。また、側室お知保の方の生んだ長男家基は男子のいない倫子の養子となって成長した。明和8年(17718月、倫子34歳は薨去し、江戸上野の春性院に葬られた。



天明3年(1783)従一位を追贈された。倫子女王の死後、婚約していた尾張藩世嗣の徳川治休への輿入れを待たず次女の万寿姫は13歳で死去した。安永8年(1779)倫子の育てた家基は、鷹狩で和蘭から輸入したペルシャ馬に騎乗中、落馬事故で重体となり、急遽立ち寄った品川の東海寺で手当をするが、3日後に16歳で急死したと独人博物学者シーボルトが記述している。11代将軍として期待され、徳川宗家の歴史の中で唯一「家」通字を授けられ乍らも将軍位に就任できず「幻の第11代将軍」と呼ばれている。嘆き悲しんだ家治は子を儲けることも無く血筋は断絶した。



徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_16460157.jpg







11代徳川家斉  御台所「近衛寔子」



家斉の将軍在位は、天明7年(1787415日~ 天保8年(183742日までの50年間である。御台所の島津寔子(ただこ)(広大院)の父親は薩摩藩8代藩主の島津重豪(しげひで)、母親は側室のお登勢の方で篤姫として生まれる。篤姫3歳の時に御三卿の一橋治済(はるなり)の長男豊千代(家斉)と婚約する。また、島津重豪の正室保姫は家斉の父治済の妹であり、治済は8代将軍吉宗の孫にあたる。篤姫は婚約に伴い茂姫と改めて、薩摩から江戸に向かい芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋家に移る。



茂姫は「御縁女様」と呼ばれ、婚約者の豊千代と一緒に養育される。10代将軍家治の長男家基の急逝により、天明元年(1781)一橋豊千代が次期将軍に決まり、家治の養子となって西ノ丸に入り家斉と称した。天明6年(178610代将軍家治50歳が病死のため、翌年4月、家斉15歳は第11代将軍に就任した。将軍家の正室である御台所は宮家や五摂家の姫が慣例であり、前例のない外様大名の茂姫に幕府は難色を示していた。



しかし、近衛家は以前から島津家より正室を迎えていた縁から、茂姫は五摂家の25代近衛家当主の近衛(つね)(ひろ)の養女となり、近衛寔子と称した。寛政元年(17892月、家斉は近衛寔子を御台所として正式に結婚した。寛政8年(1796)御台所が家斉の五男敦之助を生む。御台所が男子を出生するのは2代将軍秀忠の御台所お江の方以来であった。


徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_15302066.jpg

     近衛寔子



しかし、この3年前に側室の産んだ敏次郎(家慶)が将軍世嗣と定まっていた。そこで、敦之助は御三卿の清水徳川家の当主となるが、3年後に夭折した。だが、家斉の側室が生んだ多くの子供は、すべて「御台所御養」として御台所の子とされ、寔子の権勢は揺るぎないものであった。天保8年(1837)家斉が引退して大御所となり西ノ丸に移ると、御台所は「大御台様」と称された。



天保12年(1841)家斉68歳が死去すると落飾して「広大院」と称し、翌年に従一位の宣下を受ける。生前に従一位に叙され御台所は天英院、今回2人目が広大院である。天保15年(1844)広大院71歳は本丸大奥の松の御殿で死去した。墓所は家斉の寛永寺でなく、広大院は芝増上寺である。広大院は徳川家康の次女督姫の血筋を引いている。







12代徳川家慶  御台所「楽宮喬子」



家慶の将軍在位は、天保8年(183742日~ 嘉永6年(1853622日までの16年間である。御台所は楽宮(さざのみや)喬子(たかこ)(浄観院)の父親は6代当主の有栖川宮織仁親王であり、母親は側室の高木敦子の第6王女に生まれる。享和3年(1803)に喬子女王は家慶と婚約が成立、幕府の要望により8歳から婚儀までの5年間を江戸城西ノ丸で過ごす。文化6年(1810)正式に家慶と婚姻、御簾中と称される。文化10年に長男竹千代、文化12年に次女儔姫、文化13年に三女最玄院を生むが何れも夭折した。



天保8年(1837)家慶は歴代最高齢45歳で第12代征夷大将軍に就任した。御簾中の喬子は本丸大奥に移り御台所となる。天保11年(18401月、喬子女王46歳で薨去する。上野寛永寺の徳川家墓所に葬られる。京都の一心寺に遺髪塔が建てられ、従一位が追贈された。家慶は1413女を儲けたが、多くは早世し20歳を超えて生存したのは13代将軍家定のみである。







13代徳川家定  御簾中「鷹司任子」

         御簾中「一条秀子」

         御台所「篤姫・近衛敬子」



家定の将軍在位は、嘉永6年(18531123日~ 安政5年(185876日までの5年間である。御簾中の鷹司(たかつかさ)任子(あつこ)(天親院)の父親は関白の鷹司政煕、母親は正室の蜂須賀儀子である。任子は父の兄鷹司政通の養女として輿入れした。文政11年(1828)家定の幼名家祥と納采し、西ノ丸に入り婚儀が行なわれ御簾中と呼ばれた。だが、嘉永元年(1848)疱瘡のため25歳で薨去する。芝増上寺に葬られ、従二位に追贈された。



徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_15502817.jpg

    鷹司任子




嘉永2年(1849)家祥は関白一条忠良、母親は細川冨子の十四女秀子(澄心院)を継室の御簾中に迎えたが、半年後に病没した。父親の一条忠良は明治天皇の皇后である昭憲皇太后の祖父にあたる。継室・御台所の藤原敬子(篤姫・天璋院)の父親は、島津今和泉家の島津忠剛、母親は島津久丙の娘お幸の長女に生まれる。母は薩摩藩9代藩主の島津斉宣の孫にあたる。篤姫は本家当主の島津斉彬の養女となり、源敬子と称した。



嘉永6年(18538月に薩摩から陸路で熊本を経由して江戸薩摩藩邸に入る。安政3年(1856)五摂家筆頭の近衛忠煕の養女になると藤原敬子と改称する。11月に第13代将軍家定の御台所となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った。さて、大奥が島津家に縁組みを持ちかけたのは、家定の正室が次々と早死したため大奥の主が不在で、家定自身が虚弱で一人の子宝にも恵まれなかったことによる。


徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_15525329.png

     篤姫



島津家出身の健康体の御台所「広大院」を迎えた先々代の将軍家斉が長寿で子沢山にあやかろうとした。島津斉彬が養女にして「篤姫」と名付けたのも広大院の幼名篤姫にあやかったものである。安政5年(18587月、徳川家定の急死、島津斉彬までも死去している。篤姫の結婚生活は僅か19ヶ月であり、落飾して天璋院を名乗る。藤原朝臣敬子は十三位の叙位を受ける。



天璋院は維新後に薩摩に戻らず徳川の人間として振舞って、東京千駄ヶ谷の徳川宗家で暮らした。元大奥関係者の就職や縁談に奔走するが、勝海舟や和宮と度々会うなど生活を楽しんでいた。明治16年(188311月、天璋院47歳は徳川宗家邸で脳溢血にて死去した。葬列の沿道には1万人もの人々が集まり、上野寛永寺の家定の隣に葬られた。



徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_16483727.jpg







14代徳川家茂  御台所「和宮親子」



家茂の将軍在位は、安政5年(18581025日~ 慶応2年(1866720日までの8年間である。御台所の和宮(かずのみや)親子(ちかこ)内親王(静寛院)の父親は第120代仁孝天皇、母親は側室の橋本経子である。嘉永4年(18517月、異母兄の孝明天皇の命により、和宮5歳は有栖川宮織仁親王と婚約する。安政5年(1858627日、孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を無断調印した幕府の批判が高まり、天皇を尊ぶ「尊王論」と外国勢力を追い払う「攘夷論」が結び付き、尊王攘夷論へ展開していった。



幕府の弱体化を朝廷との連携よって幕府を立て直す公武合体策により、孝明天皇は「攘夷を実行し、鎖国の体制に戻すならば和宮の降嫁を認める」という勅書に対し、幕府は「鎖国体制への復帰」を奉答したことで天皇は和宮の降嫁を決断した。天皇の直系である内親王の嫁ぎ先は本来、宮家や摂家に限られており、武家に降嫁した前例はない。しかも、家格を重視するため、相応しい嫁ぎ先がなければ独身で終わる内親王も多かった。和宮内親王は有栖川熾仁親王との婚約を解消された。



文久元年(18611020日、和宮一行は桂宮邸を出立した。東海道筋では川留めによる遅延や攘夷派の妨害阻止もあり、和宮の輿を4基造り3名の庄屋娘を載せた輿入行列は中山道から江戸に下向した。和宮の行列は50km総勢3万人、御輿の警護に12藩、沿道警備に29藩が動員された。1115日に江戸到着、江戸城北ノ丸の清水御殿に入った。しかし、和宮側は江戸の武家風でなく、大奥の暮らしを京都御所風にする要望の調整が難航していた。



徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_16025534.jpg

    和宮親子



文久2年(1862211日に本丸大奥に入り、和宮内親王は第14代将軍家茂と婚儀を行ない御台所となる。この婚儀はこれまでの13代将軍と異なり、和宮が征夷大将軍よりも高い身分の内親王の地位のため、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分の立場で行なわれた。また、和宮の御台所の呼称を「御台様」から「和宮様」と改めた。



文久3年(18632月、徳川将軍家の上洛は家光公以来229年ぶりの上洛であった。家茂は3千人を率いて江戸を出立して、二条城に入り、3月、孝明天皇と鎖国攘夷の実現を祈願するため加茂神社行幸に供奉した。4月の石清水八幡宮の行幸は風邪の高熱を理由に天皇から「攘夷の節刀」を受けるのを忌避している。将軍職は源氏の棟梁でもあり、源氏の氏神である八幡神に攘夷を誓える情勢ではなかった。和宮は芝増上寺の黒本尊の御礼を勧請して御百度詣で上洛の無事を祈願している。このように家茂と夫婦仲の良かった和宮は、上洛や長州征伐など出立の折に将軍の速やかな江戸帰還を祈願している。



慶応元年(18655月、家茂は大奥の対面所で和宮の見送りを受け、第2次長州征伐のため品川から海路大阪へ向かった。これが二人の今生の別れとなった。慶応2年(1866720日、第2次長州征伐の途上で家茂20歳は大阪城で脚気衝心のため薨去した。和宮は落飾し、号を静寛院宮と称した。家茂の遺言で継嗣は田安亀之助(家達)としていたが、和宮は幼い亀之助が成長した暁には、慶喜の跡を継がせれば良いとした。



兄の孝明天皇の崩御により、慶応3年(1867)甥にあたる明治天皇が即位した。明治4年(1868)鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が勃発する。苦心の公武合体策は結局実らず、討幕運動は激しさを増し、戦いに敗れた慶喜は海陽丸で江戸に戻った。江戸城では体勢は主戦論だが、既に朝廷に恭順を固めていた慶喜は、天璋院の仲介で和宮に面会して取り成しを頼んだ。和宮は徳川家の家臣に向け、徳川家存続の内意を知らせ「今は恭順謹慎を貫くことが徳川家の忠節であると幕臣の説得にあたった。



朝廷は慶喜の助命と徳川家存続の処分を決定したことで、江戸城から和宮は清水邸へ、天璋院は一橋邸へ立ち退いた。明治2年(18691月、天璋院に面会して暇乞いした和宮とその一行は東海道を京都に入り、聖護院から参内して明治天皇対面する。和宮は翌年、念願であった仁孝天皇陵への参拝を果たし、京都に逗留した。明治7年(18747月、甥の明治天皇などの薦めもあり、東京に戻り麻布の元八戸藩主南部信順の屋敷に居住した。



そして、皇族、天璋院、徳川家達、徳川一門、勝海舟など幅広い交流を深めた。明治10年(18778月、和宮は脚気を患っており、元奥医師より転地療養の勧めで箱根塔ノ沢温泉へ向かった。しかし、程なく明治1092日和宮31歳は療養先の塔ノ沢還翠楼で大勢の待女に看取られ薨去した。墓所は和宮の遺言を尊重して家重と同じ芝増上寺に葬られた。



家茂が上洛の際に凱旋の土産に和宮が所望した西陣織は形見として届けられた。和宮は「空蝉の唐織ごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」の和歌を添え、その西陣織を増上寺に奉納した。後に和宮の追善供養の袈裟に仕立てられ、「空蝉の袈裟」として今日まで伝わっている。






15代徳川慶喜  御台所「一条美賀子」



慶喜の将軍在位は、慶応2年(1866125日~ 慶応3年(1867129日までの僅か1年間である。御台所の一条美賀子(貞粛院)の父親は権中納言の今出川公久であり、左大臣の一条忠香の養女となる。慶喜は当初、一条忠香の娘千代君と婚約していたが、婚儀直前に疱瘡を患い、その代役が延君(美賀子の幼名)諱は省子である。安政2年(185511月結納、12月に結婚した。安政5年(18587月に省子は慶喜の間に女児を出産するが夭折した。


徳川将軍家の歴代御台所_a0277742_16074415.jpg

一条美賀子

    



慶喜は将軍後見人となり、将軍家茂と供に上洛のため、省子と長い別居生活を余儀なくされる。慶応2年(1866)慶喜は15代将軍となるが入洛中であり、省子も御台所として江戸城大奥に入城することはなかった。慶応4年(18681月に慶喜は江戸に戻るが、既に将軍職を返上後のことであった。慶喜は上野寛永寺から徳川家駿府の菩提寺である宝台院で謹慎生活に入り、省子は対面することができなかった。明治維新後にも慶喜は静岡、省子は一橋屋敷の別居生活が続いた頃、省子から美賀子と改名した。



明治2年(18699月慶喜の謹慎が解除され、美賀子は静岡に向かい10年ぶり再会で供に暮らすようになった。但し、美賀子は病弱で二度と子供を授かることは無かった。慶喜はその後、新村信と中根幸という側室を儲けた。二人の側室に生まれた子供は美賀子を実母として全て育てられた。明治27年(18945月、美賀子は乳癌を発症し、治療のため東京千駄ヶ谷の徳川家達邸に移る。7月に手術を受けるが肺気腫を併発しても過去60歳は死去した。院号は貞粛院、東京谷中墓地に葬られた。








# by watkoi1952 | 2023-02-13 14:22 | 江戸城を極める | Comments(0)

朝廷公家の構成と幕府の統制



朝廷公家の構成と幕府の統制




朝廷と公家の歴史


朝廷は古代の君主が早朝から臣下を庭に集めて政務を始めた事に由来する。朝廷の朝は政治を廷は庭の意である。その朝廷や天皇家に仕える貴族や上級官人を「公家」と総称する、「武家」との対義語である。公家の中でも五位以上の位階を持つ者は「貴族」と呼ばれた。その貴族の中で三位以上に選ばれた者、また参議に就いた者は「公卿」と呼ばれた。公卿は公家社会の中で、最も重要な国政を担う高官の役職に就任した。最高位官より、関白、摂政、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議の序列である。




1、関白とは成人した天皇を補佐して政務を行なう最高位の役職である。関白の主要な職務は、太政官から上奏される文書を天皇に先んじて閲覧する内覧の権限と、それに対する拒否権を持つことであった。つまり、関白は天皇に上奏される情報のすべてを「(あずか)」天皇に「(もう)す」という「関り白す」が語源である。事前にその内容を把握し、天皇に文書を差し出す意で、国政に関する情報を常に把握し、天皇の勅命や勅答の権限を直接侵害することなく天皇と太政官双方を統制する権限を有した。




2、摂政とは、幼い未成人天皇や女帝に代わり政務を行なう役職である。従って、天皇の成人を機に摂政から関白に転じることもある。大正10年(1921123代大正天皇が病弱のため、天皇を補佐する「摂政」職が復活した。裕仁殿下20歳が摂政に就任して、大正15年まで務めたのが124代の昭和天皇である。天皇の公務を代行する役職として皇太子や皇族のみが任命される「皇族摂政の制度」が皇室典範に規定されている。




3、太政大臣とは太政官における最高の官職である。また、天皇の師範であり天下の見本となる者であり、相応しい人物がなければ空席とした。太政大臣は太政官が管轄するすべての職務に権限を有するため、あえて職務を定めていない官職であった。その職を務めて権限を行使するよりも、職に任命されること自体に意味を成す名誉職であった。




4、左大臣とは、上位の太政大臣が功労者を待遇する名誉職の意味合いが強く、具体的な職務がないため事実上の太政官の最高長官である。摂関政治の最盛期においても、長期にわたって左大臣の地位を保持し続けて、太政大臣であった期間は極短い。監察・治安維持を主要業務とする弾正台が不当な糾弾や摘発を行なった場合は、左大臣が代わって弾劾する権限を持った。




5、右大臣とは、左大臣と供に太政官の事実上の最高長官である。議政官の首座は左大臣であるが、空席あるいは出仕しない場合は右大臣が首座を代行した。また、左大臣が関白であった時も右大臣が政務を司った。「三公」とは、天皇を補佐する太政大臣・左大臣・右大臣の三名を指している。




6、内大臣とは、中臣鎌足が叙任されたのが最初で、左大臣と右大臣の下に位し、両人の欠員や何らかの事情で不出仕の場合に代理として政務や儀式を司った。豊臣政権下で五大老筆頭の徳川家康も内大臣に叙任され、江戸時代においても歴代徳川将軍にも叙任されている。明治18年(1885)内閣制度の発足にあたり、天皇側近の重臣として内大臣の官職が宮中に置かれた。




7、大納言とは、太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。大臣と政務を審議し、天皇に奏上または勅命を伝達する役職である。慶応3年(186712月の王政復古で太政官は廃絶するが、2年後に太政官制が復活し、大納言に岩倉具視と徳大寺実則が最期の就任となって消滅した。




8、中納言とは、大納言に準じて補佐する役職である。官位相当性の関係で大納言の定数を満たせず、これを補うために奉勅・宣旨と奏上を担当する中納言を設置した。中納言に昇進するには、参議を15年以上務める慣例があった。また、中納言の唐名を黄門と呼ぶことで、権中納言を極官とする水戸家の徳川光圀は水戸黄門と呼ばれた。




9、参議とは、大中納言に準じ、四位以上の位階をもつ廷臣の中から才能ある者を選び、大臣と参会して朝政を参議させた者である。参議の官職にある者は位階が四位であっても、三位以上の公卿に含まれる。明治2年の太政官制で大臣・納言は公卿と諸侯出身者で占められ、参議は薩長土肥の維新功臣から任命されていた。参議は閣僚にあたる卿より上位であった。明治18年(1885)の太政官制度の廃止により、日本政府は内閣制の総理大臣を単独首班として頂く組織に移行していった。




朝廷公家の構成と幕府の統制_a0277742_13120864.jpg

   王朝文化と平安貴族






堂上家と地下家


平安時代の初頭、天皇家の外戚である藤原良房流一族が摂政、関白、内覧などの要職に就き、摂関家による政治の独占が行なわれた。本来は天皇家と血縁の近い者が選任された公卿も摂関家から選出されていった。平安時代後期には、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に上る昇殿を許された上級貴族「堂上家137家」と昇殿を許されない下級貴族「地下家460家」の二家に分けられていた。一般に公家と言えば堂上家を指し、貴族から公卿に昇進する家格で、摂家(正一位)、清華家(従一位)、大臣家(従二位)、羽林家(正三位)、名家(正三位)、半家(正四位下)に限定されていた。




1、摂家とは、鎌倉時代の建長4年(125210月に藤原鎌足を祖とする藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家の「五摂家」が成立した。これ以降、五摂家当主が順次に摂政、関白、太上大臣、藤氏長者を歴任する。つまり、清華家以下の公家とは隔絶された地位を築き上げ、揺るぎない「摂関家」の家格となる。


天正13年(15857月、内大臣の羽柴秀吉は、摂家の17代近衛家当主・近衛前久の猶子となり、近衛秀吉として念願の関白に就任した。秀𠮷は天皇より豊臣姓を賜り豊臣秀吉として関白になり、征夷大将軍に代わる「武家の棟梁」と位置付けた。さらに、武家関白による政権継承のために甥で養子の豊臣秀次に関白職を譲り、前関白は慣例により「太閤」と呼ばれた。このことから「大師は弘法に奪われ、太閤は秀𠮷に奪わる」という格言が生まれた。




2、清華家とは、五摂家に次ぎ大臣や大将を兼任し、最高位は太政大臣まで昇進できる家格である。摂家と清華家の子弟たちは(きん)(だち)と呼ばれた、三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭の7家で、江戸時代に広幡・醍醐が立家され九清華家となる。平清盛や源頼朝は清華家の家格を得て、その子弟が大臣・大将、さらに皇后になることができた。




3、大臣家とは、清華家の庶流から生まれた家で、大臣に欠員が出た場合に大納言から近衛大将を経ずに内大臣に昇進する家柄である。大臣家は次の3家、正親町三条家(家業は有識故実)、三条西家(家業は香道・和歌・有識故実)、村上源氏久我庶流の中院家(家業は有識故実)の公家の家格である。




4、羽林家とは、「羽の如く速く、林の如く多い」という意で、北斗星を守護する星名が転じて、天皇を護る宮中護衛の官名となった。名家と同列の家格で近衛少将・中将を兼ね、参議から中納言、最高は大納言まで進める武官職の家格である。つまり、近衛の将を任ずる家が羽林家である。正親町家、滋野井家、清水谷家など旧家から分家した40家の新家があった。装束や楽道を家業とする家が多いのは、儀仗を任とする近衛府の職掌によるものである。




5、名家とは、侍従や弁官などの文官職を経て、中納言・大納言に進む家系である。大納言を極官とする雨林家と同列下で、半家の上の序列に位置する公家の家格である。日野流藤原氏、勧修寺流藤原氏、桓武平氏の30諸家で構成されている。




6、半家とは、特殊な有識故実、和歌、神楽などで朝廷に仕え、堂上家の中でも最下位の貴族である。官位は名家に準じて昇進するが、公卿になっても非参議に留まる家格である。





平安末期には武家出身の平清盛が太政大臣に就任した。太政大臣とは朝廷で公卿が就任する官職の最高職であり、皇族と公家が中心の朝廷に武家出身者が浸透することになる。鎌倉時代になると、本格的に武家政権が展開し、源頼朝が鎌倉幕府を開いた。頼朝は天皇や公家たちの公家政権と協力し合うが、経済的支配権は徐々に武家政権の統治となる。室町時代には公家政権の建言は有名無実化され、御所に出仕しながら将軍家に仕える公家となり、朝廷から離れて諸国で荘園を営む公家が増えていった。




慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後の10月、家康は公卿や官人の所領である公家領の調査を行なう。翌慶長6年には皇室の財産である禁裏御料をはじめ、女院(太皇太后・皇太后・皇后・准后・内親王)、宮家(皇族)、公家(朝廷に仕える貴族や上級官人)、門跡(皇族・公家が勤める住職や寺院)に対する所領支配権「知行」の確定を行なった。続いて、昇殿を許されない地下官人制度の再編成を行なっており、この流れの一環として、禁中並公家諸法度も発布されるようになる。






幕府の禁中並公家諸法度


幕府はこれら朝廷への干渉をさらに強める端緒となった事例があった。慶長14年(1609)に発覚した猪熊事件は、公家の猪熊教利は人妻や宮廷女官との不義密通で公家衆乱行随一と称された醜聞事件である。公家の乱脈ぶりが白日の下に晒されただけでなく死罪や流罪の処分となった。この事件を契機に後陽成天皇は退位し、慶長16年(1611)後水尾天皇が即位した。幕府はこれらを好機と捉え一挙に公家支配を強化した。慶長18年(1613)の公家衆法度、勅許紫衣之法度、大徳寺妙心寺等諸寺入院法度が制定された。




禁中並公家諸法度の発令は、豊臣家滅亡直後の慶長20年(1615)金地院崇伝の起草により、徳川家康が制定した。同年717日、京都二条城で大御所家康、将軍秀忠、前関白二条昭実が連署した十七条の本文を武家伝奏に渡す形式で発布された。これは江戸幕府が朝廷や公家に対して直接的に統制するための「公家諸法度」が発令された。天皇の本分、天皇以下の礼服、親王・公家の席次の決定、人事権で官職の任免、改元、刑罰、門跡以下僧侶の官位など十七条からなる規定で幕府終焉まで改訂されることはなかった。




第一条、天皇の主務は、天子が行なうべき学問や芸術の中で、第一は御学問、ついで和歌の習学が重要である。


第二条三公(太政大臣、左大臣、右大臣)と親王および諸親王の座次規定で、三公には摂家の大臣と清華の大臣があり、座次は摂家の大臣⇒親王⇒清華の大臣⇒摂家の前官大臣⇒諸親王の順となる。


第三条、 清華家の大臣と諸親王の座次規定、諸親王は3世以下の親王で、座次は、諸親王⇒清華の前大臣の順となる。


第四条、 摂関の任免は、摂関家の生まれであっても、才能のない者が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)、摂政、関白に任命してはならない。まして、摂関家以外の者の任官は論外である。


第五条摂関の任免は、能力のある三公、摂政、関白が高齢でも辞めてはならない。但し、辞任しても再任はあるべきである。


第六条、 養子の規定で、同姓を用うるべきと定められている。


第七条武家の官位は、幕府の裁量で選定するが、公家の官位とは別物とする。


第八条改元の規定は、漢朝の年号の内より吉例を以て選定するが、今後は習熟者を得るようになれば、日本の先例によるべきである。


第九条、 天皇、仙洞、大臣、親王、公卿、殿上人などの衣服規定である。


第十条、 公家衆の官位昇進の規定で、その家々の守旧例に倣うとある。


第十一条、 関白、武家伝奏、職事、などの申渡の遵守規定、違背者への罰則は、流罪とする。


第十二条、 罪の軽重は名例律に拠る規定である。


第十三条摂家門跡の席次は。親王門跡の次座とする。


第十四条、最上位の僧正の任命叙任規定である。


第十五条、 門跡及び院家の増官、贈位規定である。


第十六条紫衣勅許の寺は住持職とする規定、天皇の勅許により着用できる紫色の僧衣を許される住職は稀であった。だが、近年はみだりに勅許が行なわれ、僧侶の修行年次による序列を乱して、ひいては寺院の名を汚すことになる。今後はその住職が紫衣を与えるに相応しいのか、確認の上に勅許すべきである。


第十七条、 上人号の任用規定で紫衣同様に幕府の認可が必要である。




朝幕間の対立と紫衣事件


幕府は朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じていた。ところが、後水尾天皇は幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った三代将軍家光は、幕府の認可もなく法度違反と見做し、勅許状の無効を宣言して、京都所司代の板倉重宗に法度違反の紫衣を取上げるよう命じた。幕府の強硬な態度に対し、朝廷は強く反抗し幕府に抗弁書を提出した。寛永6年(1629)幕府は反抗した臨済宗大徳寺住職の沢庵宗彭など数名の高僧を出羽国や陸奥国への流罪とした。




この事件で幕府の法度は天皇の勅許にも優先すると明示した。本来は朝廷の官職の一つに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという意味である。寛永9年(1632)大御所徳川秀忠の逝去による大赦令で紫衣事件に連座した者は許され、大徳寺派、妙心寺派の寺院の住持らの紫衣も戻された。出羽国上山に配流されていた沢庵は、家光の帰依を受けたことで家光に近侍した。沢庵は家光により創建された品川の東海寺の初代住職となった。






幕府による宮中統制


禁中並公家諸法度において、摂関の席次を親王よりも上位とした事で、摂関家の権威を高め、皇室の権威を下げる結果となった。それは摂関家当主の合議が朝廷の最高意思決定機関となり、幕府は皇室と摂関家を分断する事による朝廷統制を行なったのである。幕府は朝廷支配のために京都所司代を設置し、寛永20年(1643)に設けた禁裏付が禁裏財政の管理を行なった。禁裏御料3万石、朝廷に奉仕する公家所領は10万石とされている。



朝廷公家の構成と幕府の統制_a0277742_12303699.jpg



また、幕府の武家官位の勅許は年間三桁以上あり、従五位下諸太夫で金十両、大納言で銀100枚が天皇家に上納されていた。公家には極めるべき家道(陰陽道・書道・華道・香道・和歌・雅楽楽器・蹴鞠)の家元としての収入があった。朝廷では所司代と連絡を取る役目を武家伝送と摂家(関白・太政大臣・左大臣・右大臣)とした。さらに、寛文3年(1663)天皇側近の取次役として設けた議奏が公家の統制にあたった。






世襲四親王家


江戸時代の四親王家とは、伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮の四宮家である。天皇家の血統を維持するために、天皇の継承者がいない場合は、世襲親家から新帝が選出された。また、宮家に後継者が無き場合は、天皇の皇子を迎え入れて、お互いの存続を図った。明治維新後、皇族制度の整備に伴い、世襲親王制度は廃止され、旧皇室典範が定める皇族となった。




「伏見宮家」は、室町時代の応永16年(1409)北朝三代崇光天皇の皇子の栄仁親王を初代とする世襲親王家が成立した。宮号は所領の伏見殿に因む。第102代後花園天皇の皇統が今日の皇室に連なっている。一方、後花園天皇の弟の貞常親王の系統は代々伏見宮家を継承し、明治以降に数多くの連枝が新宮家を創設した。昭和21年(1946)財産税が導入され、旧華族、旧皇族は所有地面積に応じた9割もの過大な税負担を強いられ、多くの名家が資産の切り売りを余儀なくされた。



昭和22年(19471014日に昭和天皇及び弟宮三家(秩父宮・高松宮・三笠宮)を除いた傍系宮家がGHQの指令により皇室財産が国庫の帰属となる。華族制度の廃止で宮家を維持できないため、やむなく臣籍降下(皇籍離脱)となる。583年続いた伏見宮家26代博明王は臣籍降下して伏見博明を名乗る。このとき皇籍離脱した旧皇族の11宮家51人は、いずれも第20代邦家親王を男系の祖として創設された伏見宮家系統である。




「桂宮家」は、安土桃山時代の天正17年(1589正親町(おおぎまち)天皇の皇孫・(とし)(ひと)親王を初代とする世襲親王家である。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀𠮷に秀頼が生れたため、宮家創立を奏請して成立した。豊臣家から離れて今出川通の本邸と知行地を献上された。智仁親王が作った別邸「桂離宮」が京都八条通の沿線上にあり、八条宮と称した。八条宮から継嗣の変遷を経て、光格天皇皇子の盛仁親王が継承して「桂宮」と称した。明治14年(188112代淑子内親王の薨去により桂宮家は断絶した。 桂離宮は幕末に孝明天皇の仮皇居になっており、皇女和宮親子内親王はここから江戸へ降嫁している。




「有栖川宮家」は、寛永2年(1625)後陽成天皇の第7子の好仁親王を初代とする世襲親王家である。当初の高松宮は親王の祖母の御所高松殿に由来する。好仁親王は徳川秀忠の養女(実父松平忠直)を妃とするが、嗣子がなく甥の後水尾天皇の皇子の良仁親王が2代目の養嗣子となる。やがて、良仁親王が後西天皇となり、中継ぎの後西天皇の皇子の幸仁親王に高松宮を継がせて、宮号を有栖川宮に改称した。霊元天皇の皇子の職仁親王が5代を継承して、10代まで同血統が続いた。明治41年(1908)に11代就任予定の栽仁王が20歳で薨去のため、大正2年(191310代威仁親王の薨去により有栖川宮家は断絶した。



 

 

「閑院宮家」は、宝永7年(1710)六代将軍家宣の侍講・新井白石の皇統の断絶を危惧した建言に基づき、中御門天皇に奉請して世襲親王家が成立した。 当時の朝廷では皇位継承予定者と世襲親王家の継承予定者以外の子女は出家して法親王となることが慣習であった。これらを改めた新井白石の進言が活かされ、二代閑院宮家の子である兼仁親王が、第119代光格天皇となった。



しかし、5代愛仁親王には後嗣がなく、明治5年(1872)に至り、伏見宮家の載仁親王が再興した。昭和22年(19471014日に230年間存続した閑院宮家の7代春仁王は皇籍離脱となった。光格天皇の在位は37年間に及び、仁孝天皇が皇位を継承して以来、閑院宮の皇統が今上天皇たる現皇室まで継続している。仁孝から徳仁(今上天皇)までの歴代天皇は直系子孫たる皇太子より皇位が継承されている。






# by watkoi1952 | 2023-01-18 12:31 | 徳川将軍家と諸大名家 | Comments(0)

武将名の由緒と構成



武将名の由緒と構成




氏姓制度


古代ヤマト王権に対する中央貴族や有力豪族の王権に対する貢献度と政治上の地位に応じて朝廷より(うじ)(かばね)の名を授与された。その特権地位を世襲するのが「氏姓(しせい)制度」である。ヤマト王権を統合する大王の下で有力豪族たち血族集団が氏として奉仕し、王権を維持構成した。地名による氏の名は、蘇我氏、葛城氏、吉備氏、上毛野氏などがある。職務による氏の名は、物部氏、大伴氏、中臣氏などに大別されてい。




一族の首長を「氏上」と呼び集団を支配していた。氏上がヤマト王権の構成員であり、それぞれの地位に応じて(おみ)(むらじ)宿彌(すくね)(みやっこ)という(かばね)を授けていた。この「氏姓(しせい)制度」の中でも特に臣や連を賜った豪族はヤマト王権の中枢にいた。その他の有力豪族には、葛城(かずらぎ)平群(へぐり)巨勢(こせ)()()大伴(おおとも)物部(ものべ)らがいた。さらに、最も力のある豪族には大臣おおおみ大連おおむらじの階位が授けられていた。財政や外交を担当した大臣は蘇我氏であり、軍事や裁判を担当した大連は物部氏であった。




これらの氏姓制度は、民衆にまで形を変え後の戦国時代に受け継がれていくことになる。戦国武将・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の氏姓その構成を紐解いて見る。また、血族概念として四姓「源平藤橘」という「氏」の下位概念として「家」「苗字」という概念が生じ、同じ氏族の者が後継者になることを「家督を継ぐ」、異なる氏族の者が後継者になることを「名跡を継ぐ」といった。






織田信長の正式名称


戦国武将には幼名があり、元服して(いみな)をもらい、役職につくと官職名で呼ばれる。織田信長の正式名は「(たいら)(のあ)(そん)織田(おだか)上総(ずさの)(すけ)三郎(さぶろう)信長(のぶなが)」である。日本の代表的な四姓「源氏、平氏、藤原氏、橘氏」が氏姓の源流となる。源氏と平氏は皇族の身分を離れ、皇族にはない姓を与えられ臣下の籍に降りる臣籍降下である。また、藤原氏と橘氏は恩賞により天皇から賜った姓である。戦国武将は武勲を挙げ功成ると、先祖に四姓の系譜を求め偽姓を名乗ることになる。



天文18年(1549)織田信長は、15代将軍足利義昭を追放した時点で、桓武平氏を系譜に平氏を名乗っていた。これまでの織田家は藤原氏を名乗るが、この背景には源平交替思想を取り入れ、源氏「義昭」から平氏「信長」の世になるという意思を示したのである。「平」が氏族で「朝臣」が信長の本姓となる。本姓は「八色(やくさ)(かばね)」と呼ばれた氏族の八段階の序列「真人(まひと)()(そん)宿禰(すくね)(いみ)()道師(みちのし)(おみ)(むらじ)稲置(いなぎ)」の順となり、三位(さんみ)以上は氏の下に付け、四位(しい)・五位は諱の下に付けた。信長は上から二番目「朝臣」は皇族以外では最高の身分である。




武将名の由緒と構成_a0277742_10023696.png




織田三郎右大臣平朝臣信長

名字 通称  官位  氏 姓  諱


(たいら)(のあ)(そん)織田(おだか)上総(ずさの)(すけ)三郎(さぶろう)信長(のぶなが)

氏 姓 名字  官職名 通称  諱




信長の名字は「織田」である。氏族は貴族などの特権階級の所有で、子孫が増えると「氏」よりも「家」を意識し始めた。この名字は貴族や武士の土地を「名田」と呼び、その所有地を主張するため、名田のある土地名を名乗り「名字」の語源となった。同音異字の「苗字」の文字は、江戸時代に血統や血族に由来した言葉である。





藤原鎌足を始祖とする藤原氏族は鎌倉時代中期に成立した。その各分家は、それぞれ異なる格式の家名を名乗った。公家の家格最上位の近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家の五摂家である。さて、信長の上総介と三郎は、通称で親しみを込めて呼ばれた。上総介は,地方長官の官職名で出世すると変わるが、任官するとその官職名で同僚から呼ばれる。三郎は仮名けみょうという愛称で家族からは三郎と呼ばれる。



「信長」は(いみな)(本名)で、忌み名の意であり、人の死後にその実名を言うこと忌むので諱といった。生前には口に出すのも、他人に知られることも憚られる実名であった。本来の名前の表記は、生前「名」、死後は「諱」と区別していた。この諱は元服すると主君や父親の一字を入れ、後継者として命名されることが多い。尾張の虎と呼ばれた父「織田信秀」の信の一字を入れて「信長」と命名したのである。



自分よりも位の高い人に対して(いみな)で呼ぶことは禁忌(きんき)であり、極めて無礼であった。諱で呼べるのは主君や親に限られていた。信長様、信長殿、信長公と時代劇で家臣が呼ぶ描写は、時代考証上ではあり得ないことである。織田信長は「三郎」、豊臣秀吉は「藤吉郎」、德川家康は「次郎三郎」、明智光秀は「十兵衛」、黒田如水は「勘兵衛」の通称で呼ばれていた。



将軍や大名がその功績から名前の一字を与え、本名である諱が変わることを「偏諱(へんき)」という。武家社会では主君の諱の一字を臣下に与える風習があった。黒田長政は信長の「長」の偏諱を与えられ「長政」を名乗ったが、その翌年に本能寺の変が勃発した。浅井長政は、堅政から信長の「長」の偏諱を与えられ長政を名乗り、信長の妹「お市の方」を妻に迎えたが、その後、信長と敵対して自害に追い込まれた。






豊臣秀吉の正式名称


豊臣秀吉は氏や名字を持たぬ下層出身者で、立身栄達により主君織田信長に倣い平氏を称した。天正11年(1583)従四位下参議から天正13年(1585)に正二位内大臣まで「平秀吉」と公文書に記されている。天正11年(15847月、秀𠮷は前関白近衛前久と仮の親子間家を結ぶ養子よりも緩やかな猶子になり、関白叙任で平氏から藤原氏に改める。翌天正12年(1584)に朝廷より豊臣姓を賜り、関白、そして、平清盛以来の太政大臣に就任する。



豊臣(とよとみ)()(そん)羽柴(はしば)(とう)吉郎(きちろう)(ひで)𠮷(よし)

氏  姓  名字 通称  諱



秀𠮷は関白任官記において、「われ天下を保ち末代に名あり、ただ新たに別姓を定め濫觴たるべし」とした。秀𠮷は特別に傑出した人物であるから、源平藤橘の四姓に並ぶ第五の豊臣姓を創始すると高らかに宣言したのである。天正14年(1586)の太政大臣任官より、「羽柴関白太政大臣正一位豊臣朝臣秀𠮷」と命名した。



武将名の由緒と構成_a0277742_12004365.jpg



羽柴(はしば)関白(かんぱく)太政(だじょう)大臣(だいじん)正一(しょういち)()豊臣(とよとみ)(あそ)()(ひで)𠮷(よし)

名字 天皇補佐職 最高官位 位階  氏  姓  諱

  



秀𠮷の与えた偏諱は、宇喜多秀家、大谷吉継、小早川秀秋、伊達秀宗、徳川秀忠、毛利秀就、結城秀康などがいる。武将が出家した場合は「法号」を名乗る。上杉輝虎は出家して、法号は不識安謙信から上杉謙信と呼ばれた。






徳川家康の正式名称


徳川家康は三河国松平郷の九代松平家の生まれで、竹千代6歳で駿府今川氏の人質となる。天文24年(15553月、今川氏の元で元服し、今川義元から諱を賜って「次郎三郎元信」と名乗る。後に朝廷から藤原氏とされ「従五位下三河守」に叙任された。将軍足利義昭の出家で将軍不在になった時期に、豊臣政権下の家康は源氏として、左馬寮御監・左近衛大将に任命された。この時すでに清和源氏新田流の源氏改姓を許されて源氏を公称していた。これが後の征夷大将軍任官への布石である。源氏の創始を紐解くと、弘仁5年(814)嵯峨天皇が「源」の氏と「朝臣」の姓を賜り「源氏」が誕生した。



「源氏」の姓は、中国の「魏書」の文中に「大武帝が源賀に対して告げた「卿、朕と源を同じくする。事に困って姓を分ち、今、源氏となすべし」という言葉を語源としている。源氏二十一流の中でも「嵯峨、清和、宇多、村上」の四流派が源氏の代表格である。村上源氏は公家として存続したが、嵯峨、清和、宇多の三源氏は武家として繁栄した。清和源氏は所有する根拠地から攝津源氏、大和源氏、河内源氏、甲斐源氏、信濃源氏という流派が生まれ武家の嫡流と呼ばれた。



当時の天皇家を子孫とする天下四姓は、平氏、源氏、藤原氏、橘氏があり、下克上の戦乱を生き抜いた戦国大名は、(こぞ)って祖先を天下四姓に求め、緻密な家系図に仕上げ正統性を主張していた。家康は征夷大将軍として幕府を開くため、源氏の家格を整えたのである。慶長8年(1603222日、後陽成天皇が参議を勅使として伏見城に派遣、朝廷より六種八通の宣旨(せんじ)が下がる。徳川家康を征夷大将軍、右大臣、源氏長者、淳和奨学両院別当、兼右近衛大将、右馬寮御に任命された。



徳川将軍家の格式は、「内大臣、従一位、征夷大将軍、源氏長者、淳和奨学両院別当、兼右近衛大将、右馬寮御監」である。要約すると、官位「内大臣、従一位」、家柄「源氏長者」、職格「淳和奨学両院別当、兼右近衛大将、右馬寮御監」、これに領土「八百万石」を加えた格式で朝廷では、公卿と装束や座次が決められる。



武将名の由緒と構成_a0277742_12013468.jpg




(みなもと)()(そん)徳川(とくがわ)次郎(じろう)三郎(さぶろう)家康(いえやす) 

 氏  姓 名字   通称   諱


(じゅう)一位(いちい)徳川(とくがわ)次郎(じろう)三郎(さぶろう)(みなもと)()(そん)家康(いえやす)

位階  名字   通称  氏  姓  諱




永禄10年(15677月、徳川家康の長男竹千代は、元服で舅の信長より「信」、父家康の「康」の諱で「信康」を名乗った。竹千代は信長の娘である徳姫と結婚させ岡崎城を譲り、家康は浜松城へ移った。






四等官制と江戸の守名乗り


武家に誕生すると「幼名」が付けられる。元服すると幼名から本名に変わり、通称で呼ばれる。出世して役職に付くと通称から官名で呼ばれる。名前には、名字、(かみ)名乗(なの)り(官名)、忌み名(諱)がある。大宝律令で制定された四等官制では、長官((かみ))、次官((すけ))、判官((じょう))、()(かん)(さかん))の四等級で守護・国司の官名であった。戦国時代の大名は自らの家系に箔をつけるため、朝廷に働きかけて「受領名ずりょうめい(守名乗り)」を献金で取得していた。




ところが、朝廷の関知しないところで大名が非公式に官名を勝手に名乗り、さらに大名の権限で家臣に官名を与えていた乱世の所業である。羽柴秀吉は「筑前守」、明智光秀は「日向守」を主君織田信長から賜っていた。慶長11年(1606)徳川家康は「武家官位執奏権」を制定して、徳川幕府から朝廷に奉請する制度となった。大名と三千石以上の旗本に守名乗りが申請と老中審査で認可されていた。幕府の所在地「武蔵守」、家康の生誕地「三河守」、名門島津家の「薩摩守」、名門伊達家の「陸奥守」に幕府直轄地名などは暗黙の了解で憚られ、また同姓同名の守名乗りも許されなかった。



江戸の武士社会で実名を呼ぶことは無礼千万にあたり、奉行所の白州へ「遠山左衛門尉様、ご出座~」の呼び出しで現れる。遠山(名字)金四郎(通称)通之進(幼名)から元服時に遠山金四郎景元となる。西丸小納戸頭取格で叙任され従五位下の遠山大隅守景元、老中支配の町奉行に任命されると、遠山左衛門尉景元を名乗る。遠山が「名字」、左衛門尉が「名乗り(官職)」、景元が「(いみな)」である。





明治の戸籍法


明治時代になると、かばねうじは一本化され「名字」となる。明治3年(1870)「平民名字許可令」が布告されたが、これまで名字が使えるのは貴族と武士のみで、名前しか持たない平民は名字を持つことに不安を感じていた。明治4年(18714月に戸籍法が制定され、翌年に壬申戸籍が成立したが、無届けの転出転入が多かった。明治8年(1875)に全国民に名字を義務付ける「平民名字必称義務令」が布告された。




日本に13万種ある名字ランキングの中で「渡辺」は109万人で上5位にランクインしている。その中で渡部(182千人)、渡邊(33千人)、渡邉(2千人)の4種は通常の変換で出てくる書体である。さらに100種類以上もの渡辺には変換できない書体が存在する。明治の名字義務令において、本家と分家を識別するために「邊」の一部を変えて申請した。だが、それは極一部で、明治初期より昭和40年頃まで戸籍は手書きで登録するため、申請者と戸籍台帳の記入担当者の双方の誤記入による複雑多種の名字が間違いのまま登録された。



武将名の由緒と構成_a0277742_10272400.jpg


これは戸籍には画数の多い文字の略字を用いてはならない規定があったことも一因である。結婚式の席次表に「邊・邉」などのフォントに困り果て、「御芳名の誤字がありました節は深くお詫び申し上げます」と記していた。現在は戸籍上本来の旧字体「渡邊」は公式の書類には適用されるが、通常は「渡辺」の表記が認められている。多くの渡辺姓に含まれる「辺」の異字体は、日本の漢字の特異性の一端を物語っている。









# by watkoi1952 | 2022-12-19 10:03 | 江戸学よもやま話 | Comments(0)

若き日の黒澤明と神楽坂



若き日の黒澤明と神楽坂




映画監督の黒澤明は、明治43年(1910323日、父黒澤勇と母シマの44女の末子に生れた。兄姉は茂代、昌康、忠康(夭折)、春代、種代、百代、丙午である。生誕地は京急立会川駅に近い父の勤務する荏原中学校の職員社宅の品川区東大井3264である。慶応元年(1864)生まれの父勇の先祖は、秋田久保田藩で代々神職であったが、戊辰戦争で官軍に参戦した功績で帯刀を許され士族となった。仙台鎮台(師団)の軍人であった勇は、明治18年(1885)陸軍戸山学校の第一期体育学生で、卒業後に武術体育の教官を務めた厳格な職業軍人であった。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_15183337.jpg




明治24年(1891811、西南戦争に従軍した日高藤吉郎が牛込区原町に成城学校(成城中学高等学校)を創立した。日高は富国強兵に占める体育の価値を重視した体位、体力の向上、その普及と実践のため日本体育会(日本体育大学)を創設し、黒澤勇は理事に就任した。日高は陸軍時代の上司であり、勇は東大井の日本体育会の役員で体操学校と荏原中学校の教官であった。同会は明治32年から国庫補助金、東京府の教員補助金で運営されていた。



大正4年(1915425日、明5歳は南高輪の裕福な家庭の子が通う私立南高輪幼稚園に入園した。同年928日に邸内に開校した私立南高輪小学校には、翌大正5年に入学した。この学校は、明治34年(1910)実業家森村市左衛門の邸内の庭を解放して創立した学校である。その母体は、明治9年(1876)森村市左衛門兄弟によって創建した日本を代表する陶磁器産業である。現在のノリタケ、TOTO、日本ガイシ、INAXNGKなどの森村グループである。この私費を投じた森村学校は、昭和53年(1978)横浜緑区に移転した森村学園の前身である。黒澤家の兄姉も入学し、明の姉百代は卒業後の大正11年(1922)に森村小学校の教師となる。






東京大正博覧会と日本体育会


大正3年(1914)に上野公園で開催された「大正博覧会」へ日本体育会も体育館(工事費3万円)を建設して出展した。しかし、期待した補助金を受けられず、想定外の不人気で体育館の観客動員は振るわなかった。体育館建設費や運営費などの諸経費は大赤字で不渡手形を乱発した。この不正経理の発覚で経営破綻となった。



若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_15552567.jpg

東京大正博覧会は、大正天皇即位を祝って開かれた。上野公園を第一会場に、不忍湖畔を第二会場にして、大正3年(1914320日~731日まで開催された。





理事で会計責任者の黒澤勇が、その責任を負わされて常任理事を解任される。大正博覧会の名誉総裁である閑院宮載仁親王の称号は「元帥陸軍大将」である。その閑院宮家の式部官と華族と関係の深い丁酉銀行支配人が異例の警視庁刑事の取り調べを受けた。余程の問題と証拠がない限り有り得ないことである。これらは閑院宮家の財政上の赤字を出展館の国庫補助金を期待した建築諸経費に付加えたのではないかと噂されたが、個人流用はなく不起訴でうやむやとなった。




ところが、21年前の明治31年(18981月、体育の振興こそ富国強兵の基本であると、閑院宮載仁親王は「日本体育会総裁」に就任していたのである。今回の事件で、大正3年(1914)大正博覧会終了前の627日に同会の臨時総会が開かれた。日本体育会の財政健全化のため、総裁推載に関する条項が定款から削除され、閑院宮載仁親王は退任の止むなきに至った。



大正3年後に日本体育会が一新して存続したのは、近代国家に欠かせない国民体育を推進する体育指導者(卒業生)が体育界に大きな影響力を持っていたからである。以後、日本体育会体操学校、日本体育専門学校へと変遷して、昭和12年(1937)現在の日本体育大学(世田谷区深沢711)に発展している。






黒澤プロ第1号作品「悪い奴ほどよく眠る」


さて、幾霜月を経た昭和35年(1960)に黒澤プロ第1号作品「悪い奴ほどよく眠る」が封切られた。この原案が黒澤明をよく知る甥から、政治家や官僚の汚職に関わる連中を成敗する「悪い奴の栄華」という題名作品を提出された。大正3年に読売新聞に報道された皇族との会計疑惑で責任を負った黒澤監督の父親の話しではないかと巷間で囁かれていた。父親勇の処分は責任上に切腹して贖罪する「詰腹」にあたる。映画の脚本は土地開発公団の不正入札汚職で上司に濡れ衣を着せられ、公団ビルから飛び降り自殺に追いやられた父の復讐を果たそうとする男の姿を描いている。



若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_15222329.jpg




父親の復讐に取り憑かれた主役の息子役が三船敏郎である。三船の鬼気迫る演技に黒澤監督の怨念が憑依したかのような熱意を感じる作品である。この映画の「悪い奴ほどよく眠る」のタイトルは「本当に悪い奴は表に自分が浮かび上がる様なことはしない。人目の届かぬ所で、のうのうと枕を高くして寝ている」という趣旨である。黒澤は晩年に「是非作りたい題材があるが、作ると自分のみならず子にも累が及ぶのでできない」と語っていた。それは宮家と父親勇の冤罪を正面から扱った作品ではなかろうか。







黒田小学校と神田川


大正6年(1917)父勇52歳が日本体育会を辞職したため、職員社宅を退去して、一家は文京区西江戸川町9番地(現水道1丁目4)に転居した。明7歳は神田上水沿いの黒田尋常小学校(文京区小日向21615)に転校した。江戸川の桜名所で知られる大曲近くの家から毎朝江戸川沿いに兄丙午と一緒に黒田小学校に通った。明治39年(1906)の丙午ひのえうまに生まれた4歳上の兄が丙午へいごである。この一帯の住民には、承応年中(165255)に神田上水の白堀の定浚じょうざらえを命ぜられたため、小日向は上水道を管理する水道町と改称している。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_15332987.jpg



筑前福岡藩第12代・最期の藩主黒田長知は、上屋敷(外務省)を返上して赤坂本邸に住んでいた。明治11年(1878)に隠居した長知は、黒田家抱屋敷小日向二丁目の別邸に小学校を自費で建て東京府に寄贈した。東京府は黒田尋常小学校と命名し、黒田家の家紋である「藤の花」を校章に定めた。明少年は三年担任の立川精治先生に絵を褒められ絵を描くことに夢中になり、他の学科の成績も伸び始める。しかし、生徒の個性を伸ばす立川先生の斬新な教育方針が校長と正面衝突して辞任、後に進歩的な九段の暁星小学校に招かれて多くの才能を世に送り出している。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_17323975.jpg

黒田小学校東側と服部坂(小日向涯線の急坂)




井の頭池を水源に流下し、善福寺川と妙正寺川を合流して関口大洗堰までを神田上水、大洗堰から飯田橋までを江戸川と呼び、その下流の隅田川合流までを神田川と呼んでいた。昭和40年(19654月の河川法改正で、井の頭から隅田川に注ぐ全長255kmを「神田川」と改称した。関口の大洗堰で江戸川と分水した神田上水は、水道町12丁目を通り徳川水戸家上屋敷内を経由した。明治17年(1884)頃から江戸川沿いの住民が玉川上水の小金井のような桜名所にと、江戸川橋から龍慶橋までの両岸に桜の木を植えて江戸川は桜名所になった。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_17345468.jpg

江戸川の中ノ橋付近の花見風景である。夜には雪洞が灯り夜桜見物に粋筋が連れた神楽坂芸者が花を添えていた。





明治19年(1886)黒田小学校に入学した大先輩の作家永井荷風は近くの安藤坂上の金富町45番地に住んでいた。黒田小学校の跡地は、区立第五中学校から音羽中学校になり、現在は筑波大学の特別支援教育センターになっている。そして、神田川は洪水の被害が甚大で流域住民に恐怖を与え河川改修が急務とされた。桜の風情を楽しむのか、それとも洪水から身を守るのか、大正8年(1919)に竣工した護岸工事で両岸を高くして、コンクリートの壁を築き放水路にしてしまい、夜桜見物で賑わった桜名所の面影はなくなった。





神楽坂の映画館「文明館」


厳格な職業軍人であった父勇は、日本古来の武術は基より、欧米のスポーツの普及に努め、日本初のプール設置にも関わった先進的な体育教官であった。また、活動写真(無声映画)にも理解があり家族を連れて神楽坂の映画館に良く見に行った。明治45年(1912)神楽坂の通寺町(神楽坂六丁目)に時代劇を主とする常設映画館「文明館」が開館した。初期の映画は活動写真と呼ばれ、大正3年(1914)にデビューしたチャップリンの映画に代表される音の出ない映像のみの無声(サイレント)映画であった。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_15484518.jpg

明治45年に牛込通寺町に開設した活動写真館「文明館」跡地に戦後建てられた武蔵野館(神楽坂6丁目)である。





この活動写真はブームと供に弊害も指摘され始めた。大正6年(19178月に活動写真取締規制が公布され、館内は男子席、女子席、夫婦席に分かれていた。同伴しても未婚男女の同席はかたく禁じられていた。同年2月、神楽河岸の神楽坂警察署に正力松太郎32歳が署長に就任した。映画館内の後部座席の一段高い所に臨検の神楽坂署の巡査が厳しく目を光らせていた。その頃、徳川無声や松井翠声などの弁士(映画説明者)が活躍していた。だが、映画の筋から外れたことや少しでも性的なセリフの言い廻しがあると、すかさず「弁士中止」の大声が館内に響き渡るのである。






京華中学校と読書


大正11年(1922)明12歳は黒田小学校を首席で卒業し、卒業式では総代として答辞を読んだ。そして、お茶の水の順天堂病院と道路を隔てた京華中学校(文京区本郷21)に進学した。明は勉学よりも日本文学やロシア文学に熱中した。この読書が後の黒澤明の人間形成に大きな影響を与えている。後に黒澤は中学時代に読みふけった読書について、世界中の優れた小説や戯曲を読むべきだ。それらがなぜ名作と呼ばれるのか、考えて見る必要がある。作品を読みながら沸き起こってくる感情はどこから来るのか。




その登場人物の描写やストーリー展開に、どうして作者は熱を入れて書かねばならなかったのか。こういったことを全て掴みきるまで読み込まなくてはならないという。当然、自分の人生経験だけでは足りないのだから、人類遺産の文学作品を読まないと人間は一人前にならないと記している。黒澤は読書を通して多様な価値観と出会い、作者の立場にになって世界を見る力を養えと訴えている。そこから異なる意見への寛容さが醸成される。それが人間にとって一番大切であると述べている。




大正12年(192391日の関東大震災で京華中学校は校舎を全焼失した。神楽坂界隈は外濠と神田川に囲まれた地域で地震後の火災延焼被害を免れたため、銀座の有名店が復興までの2年間仮店舗を設けていた。神楽町二丁目の東京物理学校(東京理科大学)は、当時夜学校で空いた昼間の校舎を借りて、京華中学生は一年間授業を受けた。同校は文京区白山に移転して、京華中学高等学校(旧制京華中学校)となる。この京華中学の卒業生には三名もの文化勲章の受章者がいる。日本画家の前田青邨、歌舞伎役者の尾上松綠、映画監督の黒澤明である。






神楽坂の洋画封切館「牛込館」


神楽坂通り最古の老舗相馬屋前から高台の牛込城跡にある光照寺に向かう地蔵坂がある。この急坂の里称藁店(わらだな)の中腹右側(袋町3番地)に江戸後期から都々逸など色物寄席「わら新」は賑わっていた。明治22年(1889和良店亭(わらだなてい)と改め、落語好きな夏目漱石がよく通っていた。その後、牛込高等演芸館に俳優養成所を併設していた。大正3年(1914)に木造二階建て定員五百十三人の洋画セカンド館「牛込館」がオープンした。当時、山の手の洋画封切館として有名になる。この牛込館に良く通ってくる中学生がいた。洋画を観ることに父親の積極的な理解もあり、映画鑑賞に打ち込んでいた若き日の黒澤明である。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_15362050.jpg




黒澤明が晩年に上梓した「蝦蟇の油 自伝のようなもの」がある。中学生頃から昭和初期の神楽坂で過ごした貴重な体験を綴っており、それらが後の黒澤作品に大きく影響を及ぼしていると語っている。「子供の私も食事の作法では良く叱られた。そんな父だが前にも書いた通り、映画は良く見せてくれた。それも主に洋画であった。神楽坂に牛込館という洋画の常設館があって、そこで私は連続活劇やウィリアム・S・ハートの主演する映画をよく見た。



この時分見た日本映画は洋画に比べて、子供の私にも幼稚であまり熱を上げなかった。父は映画ばかりでなく、神楽坂の寄席によく連れて行ってくれた。覚えているのは、小さん、小勝、円右。円右は渋すぎたのだろう。子供の私にはあまり面白くなかった。と述懐している。当時の音声のでない活動写真は登場人物のセリフやナレーションを入れて、映画を楽しめるよう弁士が活躍していた。楽士は楽器の生演奏でさらに館内を盛り上げていた。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_15460338.jpg

「神楽坂演舞場」戦後には落語家・柳家金語楼の定席






無声映画の弁士と楽士


無声映画(サイレント)は弁士や小楽団などの媒体が混合した形態の舞台芸術である。見どころ、聴かせどころは、語り手と舞台上のストーリーの間の緊張感に存在する。ゆえに、観客は出演俳優や監督よりも「誰が弁士を務めるか」によって観る映画を決めていた。活動弁士は一つ話芸となり、弁士はナレーターとしてスクリーンの横で物語を語り、役者として登場人物の声を演じたのである。




弁士達の名セリフには、「春や春、春南方のローマンス」、「花のパリかロンドンか、月が泣いたかホトトギス」、剣劇では「抜けば玉散る氷の刃」、危険に巻込まれる者へ「命あっての物種」、大辻司郎のドロボーが出てくる場面の名文句「胸に一物、手に荷物、落つる涙を小脇に抱え、勝手知ったる他人の家」、上映の終わりに「一巻の終わり」などのセリフは観客の拍手喝采を博していた。また、徳川無声の間の取り方は別格で話芸の神様と呼ばれていた。




活動写真や映画はキネマトグラフ呼び「キネマ」と略した。大正2年(1913)英国からキネマカラーが輸入され、天然色活動写真会社やキネマレコード社が生まれる。大正8年(1919)にはキネマ旬報が創刊、大正9年(1920)には松竹キネマ、続いて帝国キネマ、東亜キネマといった映画会社が設立される。活動写真は見世物から芸術への発展と供に、大正6年(1917)頃からは映画と呼ばれ始め、昭和10年(1935)頃に映画の呼称が定着していた。



大正8年(1919)兄丙午13歳は、陸軍士官学校の予備校であった牛込原町の成城中学校に進学した。大正14年(1925)同校を別財団に分離し、世田谷区に移り成城学園となる。父親の勧める軍人の道に馴染めず、文学青年であった丙午は、神楽坂で見た映画の世界に夢中になる。大正10年(1921)丙午15歳は黒澤謡村の名で雑誌「キネマ旬報」に映画評を投稿、映画館のパンフレットの原稿を書くまでになり、活動弁士を目指していた。







関東大震災と黒澤兄弟


大正12年(192391日正午2分前、南関東一帯の広域に大震災が発生した。この大震災は日本海沿岸を北上中の台風に向かう強風が関東地方に吹き込み、家屋の崩壊と昼食準備中の火で燃え広がった。黒澤丙午は弟の明を連れて、東京の焼野原を徘徊した。隅田川を渡ると幕府の米蔵「本所御蔵」43千坪の跡地に軍服など作る陸軍被服廠跡があった。大正8年に(1919)に被服廠は赤羽へ移転して、大正11年(1922)に跡地は逓信省と東京市に跡地を払い下げていた。



若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_16323307.jpg




大正12年に横網公園の建設も始まったばかりの広大な空地に4万人もの家財道具を抱えた被災民が避難していた。一度避難した住民がここは安全と倒壊した自宅に戻り、持てる限りの家財を抱えて戻っていた。そこに火災旋風が発生して高熱の竜巻が4万人を襲い38千人が焼死した。東京全体で6万人、大半の焼死者がこの一帯で亡くなる大惨事となった。黒澤丙午は弟明に折重なる死骸の惨状を目に焼き付けさせ、恐ろしさを克服することを教えた。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_10375383.png

黒澤明は大曲の自宅から陸軍砲兵工廠の煉瓦塀沿いを歩き、外濠通りに出て神田川沿いにお茶の水の京華中学に通学していた。左に水道橋駅と煙たなびく操業中の砲兵工廠、震災後に九州博多に移転する。





黒澤家に近接した小石川の陸軍砲兵工廠では、地下の武器弾薬庫の破裂音が33晩断続的に続いて壊滅的な被害を受けた。この大震災は近代日本において史上最大規模の広範囲の被害をもたらした。これまで江戸川の洪水で緩んだ地盤の黒澤家の建物も被害を受けた。この震災で人々は地盤の強固な山の手の高台へ移動し始めた。特に地盤の軟弱な銀座では郊外の世田谷、目黒、大田区方面に住宅を移し、再開した銀座商店街に通勤した。







神楽坂「牛込館」の専属弁士須田貞明


大正13年(1924)丙午18歳は成城中学を卒業する頃、近所に住む活動映画弁士の山野一郎を尋ね、弁士になりたいと熱く懇願、山野の勤める新宿武蔵野館で弁士見習いとなった。さらに、山野の紹介で赤坂溜池の葵館で弁士修行を重ねる。大正14年(1925)黒澤丙午19歳は、神楽坂の洋画封切館「牛込館」で須田貞明の芸名で初出演、2年間牛込館専属弁士を務める。弁士須田貞明は「甘く叙情的かつ劇的な語り」で観客を魅了する人気弁士となった。昭和元年(1926)神田シネマ・パレスにも出演して、翌年には同館の専属弁士となる。昭和4年(1929)に浅草と新宿の松竹座に移る。昭和5年(1930)須田貞明24歳は浅草の大勝館で主任弁士と活躍の場を広げる。




昭和2年(19273月、中学6年の明17歳は、京華中学校を卒業すると、画家を志して美術学校を受けるが不合格、川端絵画研究所へ通う。昭和3年(19289月の第15回「二科展」で油彩「静物」が入選した。10月には丸の内の「造形美術研究所へ通い始める。翌昭和4年に同研究所が豊島区長崎に移転する。4月に全日本無産者芸術連盟傘下の日本プロレタリア美術家連盟の造形美術研究所の会員となる。無産者新聞の左翼運動の末端活動に手を染めていたが、政治運動に活路を見出せず、連絡も途切れていた。




昭和5年(1930)黒澤明20歳は、神楽坂の津久戸小学校で懲役検査を受ける。甲種合格は現役兵、乙種は予備兵、丙種は兵役免除、丁種は事故病気で再検査となる。その時の徴兵司令官が陸軍戸山学校の体育教官であった父親の教え子で、明は虚弱児と配慮され兵役を免除された。徴兵司令官は「国に奉公する事は、軍人でなくとも出来る」と、明治生まれながら身長182cm体重75kgの頑強な若者は終戦まで徴兵されなかった。昭和5年頃はまだ平和な時代で、後に戦況が悪化した日本帝国軍は、満43歳まで徴兵年齢を延長して戦地に送り出していた。






トーキー映画の出現で無声映画の衰退


昭和6年(1932)に無声映画から映像と音声が同期化したトーキング・ピクチャーの略「トーキー映画」の時代の波が押し寄せ、洋画には字幕スーパーが公開された。当然、音声や音楽は必要なく弁士や楽士は転職を余儀なくされた。この失業弁士が考案したのが漫談であり、楽士は新規開店を宣伝するチンドン屋に転向する者が多かった。しかし、日本における無声映画は非常に楽しく、活動弁士が台詞と解説を加えていたため、全く問題なく完成された形態であった。唯、トーキーでは何かが優れてわけでなく、映画館側が弁士や楽士に賃金を払わずに済む、経済的な理由で活動写真は瞬く間に衰退したのである。



昭和7(1932)22歳は、兄丙午の住む神楽坂上の通寺町(神楽坂6丁目)に隣接した横寺町の棟割長屋に身を寄せた。自伝の蝦蟇の油によると「兄の住んでいる長屋も小路も、落語に出て来る長屋そっくりの雰囲気で水道もなく、昔ながらの井戸や井戸端があり、住人は江戸の生き残りのような人達ばかりだった。そこの長屋の老人達は、大方、神楽坂の寄席の下足番や映画館の雑役をしていて、その役得に、その寄席や映画館の定期券のようなものを勝手に作って安い金で近所に人に貸していた。私はそれを利用して足繁く通った」と述懐している。




昭和7(1932)この年に須田貞明は松竹、大勝館、電気館でトーキー映画による解雇争議の争議委員長となる。映画館との労働争議で板挟みとなった黒澤丙午27歳は、昭和8年(1933710日、伊豆湯ヶ島温泉の旅館で愛人と服毒自殺を遂げた。その4ケ月後に長兄の昌康も病死した。黒澤家唯一の男性となった明は、神楽坂の兄丙午の長屋に居候していた。定職を持たず雑誌の挿絵を描くなどデザインのフリーターの状態から真剣に定職を考えるようになった。




黒澤明の晩年の自著「蝦蟇の油」には「私にとって、兄の住む長屋での生活は、もの珍しくとても勉強になった。そこにいる間、毎日毎晩、映画館と寄席に通った。当時、神楽坂の映画館は洋画の牛込館と日本物の文明館の二つ、寄席は神楽坂演舞場と、あと二つあった。寄席の芸を存分に味わう事ができたのは、神楽坂に近い長屋生活の賜物だろう。落語、講談、音曲、浪花節、この庶民に親しまれた芸を、それが将来の私にどれほど役に立つかなどとは夢にも考えずに気軽に楽しんだ。



そして、その著名な芸人の芸のほかに、寄席を借りて自分の芸を披露する幇間(ほうかん)(芸妓と客の間を取持つ太鼓持)達の芸に接する事もできた。今でも忘れられない幇間の芸に、馬鹿の夕暮れというのがある。それは夕暮れ時に馬鹿が一人、夕焼け空の(ねぐら)に帰る鳥をポカンと見て立って入るだけのパントマイムであるが、その可笑しくて、なんだか哀しい情景を彷彿として見せたその幇間の芸に驚嘆した」と述べている。







黒澤明の運命「助監督募集」


昭和11年(1936)黒澤明26歳に運命を変える新聞広告「助監督募集」が目に飛び込んできた。映画は弁士の兄丙午の影響を受け、洋画はよく吟味し咀嚼していた。一次試験の論題は、日本映画の根本的欠陥を例示し、その矯正方法について述べよ」であった。「助監督募集」5名の募集枠に500人が書類審査に申込んだ。成城学園駅近くのPCR(写真化学研究所)映画撮影所で130名の二次試験では、シナリオの提出と口頭試問が行なわれた。そして、三次試験の人物考査の難関を突破して、昭和11年(19364月、黒澤明はP.C.L映画製作所に晴れて入社する。




5名の助監督は幹部候補生であり、映画製作に必要な部門すべての仕事に精通しなければ、映画監督は勤まらないのである。昭和12年(19379月にPCR映画撮影所はJOスタジオと合併し、東宝映画株式会社となった。助監督の公募は毎年4月に同様に行なわれていた。






黒澤助監督デビュー


昭和15年(19408月、黒澤明は師と仰ぐ山本嘉次郎監督「馬」で助監督デビューとなる。岩手の馬産地の曲り家で子馬から軍馬を育て上げる国策映画である。山本監督は多数の撮影を掛持ちするため、助監督に任せて実質的には黒澤が監督に近い存在であった。この撮影で娘役の主演女優高峰秀子17歳と黒澤助監督30歳が恋に落ちた。初乗馬の高峰が落馬しそうになり、それを黒澤が優しく抱き留めた事がきっかけであった。高峰には常に義母の監視役が付くため、交際には限界があった。



若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_10282769.jpg


その後、黒沢が借りた仕事部屋の逢瀬で義母に連れ戻され自宅二階に軟禁、新聞に「黒澤明と高峰秀子が婚約」と記事が出ると、協議の上二人を引き離すことで決着した。ロケ地は東北各地で、山形県最上町の長期ロケで熱狂的なファンを持つ高峰秀子に人目惚れした地元医院の少年が門脇貞男である。彼は後に芸名を医療ドラマのベン・ケーシー、そして初恋の高峰秀子に因んで「ケーシー高峰」と名付けた医療漫談の創始である。昭和30年(1955)高峰秀子31歳は義母の反対を押し切って松山善三と結婚するが、当時の松山は松竹映画の助監督であった。






黒澤監督デビュー作品「姿三四郎」


黒澤は助監督の腕を高く評価され異例の早さで監督に就任した。この時代の映画検閲制度は、シナリオ段階と映画化段階の二度情報局の検閲を受けていた。昭和18年(1943)黒澤明33歳は、富田常雄作の小説「姿三四郎」の映画化で監督デビューを果たした。この作品は戦時下の要求を受け入れた武士道精神を発揚するのに好都合な原作であった。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_11232525.jpg



この姿三四郎のモデルは会津藩家老西郷頼母の養子「西郷四郎」である。17歳で上京して嘉納治五郎と出会い講道館へ入門する。身長5尺(150cm)の小兵ながら天性の素質と激しい稽古で頭角を現した。豪快に相手を投げる独自の「山嵐」で、四郎は柔道界の花形となる。明治19年(1886)警視庁武術大会で、強敵の照島太郎を倒し名声を上げた。その実話が映画作品の姿三四郎(藤田進)と宿敵の檜垣源之助(月形龍之介)が強風の仙石原で戦った迫力満点の決闘シーンが大ヒットした。





戦時下の昭和19年(1944)には、戦意高揚映画で黒澤監督の脚本で「一番美しく」が封切られた。戦時下の平塚の日本光学の工場で働く女子工員の物語で、軍事用のレンズを作るために勤労動員された女子挺身隊の青春を明るく描いた作品である。昭和20年(1945)黒澤明35歳は、山本嘉次郎夫妻の媒酌人により、一番美しくのヒロインを演じた女優矢口陽子と明治神宮で結婚式を上げた。同年12月に長男久雄が生れる。このように戦時下のプロパガンダの国策映画を手掛けているため、徴兵が45歳まで延長されても、充員、臨時招集での兵役は免れていた。前年の昭和1810月の神宮の学徒出陣式以降に残る国民男子は17歳以下と46歳以上の老年人口で、女子の労働力が必要不可欠とされた時代である。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_15121800.jpg

入江たか子と矢口陽子






話芸の名人徳川夢声


大正2年(1913)に活動弁士となった福原駿雄は、大正49月にその評判から赤坂葵館の主任弁士に迎えられる。芸名の徳川夢声は葵館の葵紋から徳川、夢のある無声映画弁士になるように夢声と命名された。大正14年(1925)には新宿武蔵野館に移り、東京を代表する弁士として人気を博する。山本嘉次郎監督「綴方教室」のチ-フ助監督をしていた黒澤は、主演の徳川夢声から「君は、兄さんとそっくりだな。でも兄さんはネガ(陰性)で君はポジ(陽性)だね」と語っている。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_15090935.png

赤坂溜池葵館(赤坂1ー1-17)





神楽坂の本書き旅館「和可菜」


神楽坂の本書き旅館「和可菜」は、昭和29年(1954)に客室5部屋で開業した。女将の和田敏子が少人数で、平成27年(2015)まで60年間切り盛りしていた。深作欣二、山田洋次、内舘牧子、中上健次、伊集院静、野坂昭如などが原稿を書き、出世旅館として人気を博した。この物書き旅館の三種の神器は、電気スタンド、鉛筆削り、特大のゴミ箱である。さらに広辞苑を常備し、執筆中には一切声掛けしないことが最上級のおもてなしであった。寅さん35作から山田洋次監督の専用一部屋となる。女将和田敏子の姉が松竹の人気女優小暮実千代の縁で、脚本家が和可菜に缶詰になり映画五千本の脚本を仕上げている。女優木暮実千代は、昭和23年(1948)黒澤明監督の「酔いどれ天使」の妖婦役や昭和54年(1979)の「男はつらいよ」翔んでる寅次郎のマドンナ母役で出演している。



若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_23285659.jpg





黒澤作品と三船敏郎


昭和15年(1940)から陸軍航空隊の兵役で写真部に所属していた三船敏郎は、昭和21年(1946)東宝撮影部にカメラマン助手希望で応募した。その履歴書が誤って第一期ニューフェース募集の面接官に廻っていた。昭和23年(1948)黒澤監督38歳は、別映画のオーデションに落ちたデビュー1年目の若手俳優の三船敏郎に一目惚れ、「酔いどれ天使」で初主演に大抜擢した。以後、黒澤監督と三船敏郎コンビは15本の作品を残した。さらに三船と志村喬のコンビ作を次々と発表した。昭和20年、生まれ故郷の秋田に疎開していた父親の黒澤勇が83歳の長命で死去した。





若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_15164031.jpg

   東宝第一期ニューフェース 三船敏郎





黒澤明監督は黒田小学校の同級生植草圭之助と映画製作に関わることになった。黒澤級長と植草副級長の仲で、映画監督と脚本家コンビになる。植草は菊池寛主宰の脚本研究会に所属し、戯曲が文学座で上演されていた。昭和17年(1942)「母の地図」で映画シナリオに転向していた。昭和22年(1947)黒澤監督、脚本植草の「素晴らしき日曜日」は戦後の貧しい青春を描いた作品である。翌23年の「酔いどれ天使」は、戦後社会の象徴である闇市にのさばるヤクザを取上げ、中年過ぎの酔いどれ医師(志村喬)と結核を病むヤクザの青年(三船敏郎)との交流を描きながら、日本の戦後社会の世相の動揺と混乱を鮮烈に捉えた作品である。




昭和25年(1950)公開の「羅生門」が翌年の第12回ベネチア国際映画祭でグランプリを受賞した。以後、「生きる」「七人の侍」「蜘蛛の巣城」「どん底」「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」「赤ひげ」など多くの作品が世界の注目を浴び、日本映画の世界的評価を高めた。「世界のクロサワ」の誕生である。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_15340975.jpg

「七人の侍」の演技指導する黒澤監督





黒澤監督作品に多大な影響を及ばしたであろう神楽坂。黒澤明は人出も多かった最盛期の華やかな神楽坂の通りを闊歩し、文化の香り高き多くの映画、演劇に触れ貪欲に吸収していった。「羅生門」「七人の侍」「生きる」など躍動感あふれる映像美と人間味あふれる作品で、映画の面白さと楽しさを、世界の映画愛好家に与え続けた日本映画史上もっとも偉大な巨匠である。さらに、国際的にクロサワの名は広まり、内外の映画人から師と仰がれるようになり、ジョージ。ルーカスやスピルバーグをして「現在における映像のシェクスピア」と言わしめた。




若き日の黒澤明と神楽坂_a0277742_15312737.png



しかし、黒澤映画は日本よりもむしろ海外での評価が高いという現象が続いている。黒澤監督は自伝の中で「日本人は何故、日本という存在に自信を持たないのだろう。何故、外国の物は尊重し、日本の物は卑下するのだろう」と述べていることが印象に残る。「人の一生に影響を与えるような映画を創りたい」という思いが、多くの映画史に残る名作を世に送り出し「世界のクロサワ」と称えられた。



昭和60年(1986)世界的映画の功績の評価から文化勲章受章する。平成2年(1990)にはアカデミー賞名誉賞を受賞した。数々の栄誉ある映画賞を受賞した黒澤明監督は、平成10年(199896日世田谷区成城の自宅で脳卒中のため、八十八歳の米寿で亡くなった。奇しくも命日がクロさんの愛称である。その輝かしい功績を称えた映画監督初の「国民栄誉賞」が贈られた。平成22年(2010)生誕百年を迎えて、世界の黒澤明を語り継ぐ文化交流が世界各地で開催された。

 




                  






# by watkoi1952 | 2022-11-06 15:23 | 牛込神楽坂百景 | Comments(0)