黒船来航と江戸湾防衛 |
黒船来航と江戸湾防衛
幕末の外国船来航
わが国では黒船来航から明治維新の大政奉還までを幕末と呼んでいる。その幕末以前に長崎出島のオランダと中国の交易以外の外国船初来航があった。寛政4年(1792)10月ロシアの遺日使節アダム・ラクスル一行が、帆船エカテリーナ号で根室への来航に始まる。この来航は江戸幕府の外国に対する国交、通商、国防政策に重要な出来事であった。
幕府の実権を握る老中松平定信は対外関係に慎重で、鎖国政策に拘り続けていた。急速に産業を発展させた欧米諸国は、強大な戦艦と武力を持ってアジアへ競って進出していた。文政8年(1825)幕府は度重なる外国船来航に対し「異国船打払令」を制定した。日本との交易船以外が沿岸に近付いた場合に砲撃、上陸した外国人は拘束する内容であった。

天保8年(1837)国籍不明船一隻が江戸湾深く侵入してきた。浦賀奉行は英国軍艦と判断、異国船打払令に則り砲撃して追い出した。これが「モリソン号事件」である。実際はアメリカ合衆国の同船は、漂流していた山本音吉など日本人7名の送還と通商が目的の商船であった。異国船打払令は批判の的になるが、モリソン号に撃った砲弾が全く届かなかった事が、幕府の警備の脆弱さを露呈する結果となった。
天保9年(1838)この事件に驚愕した幕府は、外国船の脅威に対する強固な備えのため、江戸湾一帯の調査測量を行なう巡検隊に目付の鳥居耀蔵と代官の江川英龍が任命された。英龍は海防計画の立案書と江戸湾測量図を幕府に提出した。
鳥居耀蔵もまた報告したが、樺太測量の経験をもつ部下に任せた旧式の測量と英龍の西洋式の新知識では雲泥の差があった。耀蔵は大恥をかき、この時の西洋物への異常な個人的な遺恨が「蛮社の獄」という洋学かぶれ者への大弾圧に発展することになる。
天保13年(1842)アヘン戦争で英国艦隊に敗れた清国は、香港を譲り渡す南京条約という不平等条約を締結させられた。強国清国が敗れたことは、幕府中枢に計り知れない衝撃を与えた。同年幕府は異国船打払令を撤廃し、新たに遭難船を救済する「薪水給与令」を発令して、外国船を丁重に扱って静かにお引き取り願うばかりであった。

アヘン戦争(1840~42)でイギリス海軍の軍艦に吹き飛ばされる清国軍のジャンク兵船。
江戸幕府もいずれ強大な武力を持つ外国戦艦の要求する開港を拒否し続けることは困難と認識していた。強硬に開国を迫り来る状況に海防強化で対処するしかなかった。しかし、対外政策では譲夷派と開国派に、国内政策では倒幕派と佐幕派の対立に国内が二分して政策合意に至らず10年間、無策で徒に歳月を費やしていた。
弘化3年(1846)7月19日、東インド艦隊司令官のジェームズ・ビルドは戦艦2隻を率いて浦賀に入港した。入港を知らされていた幕府は直ちに日本船が両戦艦を取り囲み、上陸は許されなかった。ビルドは日本との条約締結したい旨を伝えたが、オランダ以外と通商を行なわず、外交の全てを長崎で行なうので回航すべく伝えると浦賀を出港した。アメリカ軍艦初の日本寄港であった。

国産の鋼鉄製大砲の製造
弘化4年(1847)長崎警備を担当していた佐賀藩10代藩主鍋島直正は、わが国海防の不安を募らせ、幕府老中の阿部正弘に海岸防衛の必要制を建議した。しかし、翌年正式に却下されたため、佐賀藩独自の機密保持で海防強化策を実施、当時のたたら製鉄による青銅大砲より強力な鋼鉄製の大砲製造に切り替える必要に迫られていた。
天保7年(1836)に砲術家高島秋帆により、オランダ王立製鉄所の鋳造法の書籍が輸入されていた。直正はその原書の翻訳を命じ、洋式反射炉の築造に当たらせた。一方、伊豆韮山の江川英龍の「江川塾」に協力を要請した。嘉永3年(1850)佐賀城の北西にある築地に洋式反射炉を築き、日本で最初の鋼鉄製大砲の鋳造に成功した。

反射射炉の構造は、燃焼室の高温の炎と熱をド-ム型天井に反射させて溶解室に置いた原料鉄に高熱を集中させて溶解させる。高い煙突に大量の空気を送り込み、炉内の温度を千数百度にして、鉄に含まれる炭素などの不純物を取り除き、粘りのある鋼鉄製の大砲を製造した。佐賀築地の反射炉は、黒船来航直後の9月に幕府から品川台場に設置する鋼鉄製大砲50門を受注した。

江川英龍は伊豆韮山に生れ、第36代韮山代官を世襲する大和源氏の家系である。英龍は伊豆・相模の海岸域を管轄する代官であり、時勢から海防に危機感を持っていた。英龍は長崎に赴いて砲術家の高島秋帆に弟子入り、近代西洋砲術を学ぶと共に幕府に高島砲術や兵学を取入れた。
天保12年(1841)老中水野忠邦の要請で長崎から高島秋帆を呼び寄せ、江戸の荒川南岸低地一帯の徳丸ヶ原(現高島平)で洋式大砲の砲術と洋式銃陣の公開演習が実施された。英龍は水野忠邦の政権で高島砲術の改良と普及に努め、「韮山塾」を江戸に開き、松代藩士の佐久間象山や桂小五郎を始め多くの門下生がいた。

嘉永3年(1850)西洋砲術家の名声を得た佐久間象山は、松代藩深川下屋敷で諸国の藩士に西洋砲術を伝授し勝海舟も門下生であった。翌4年には江戸木挽町に「砲術塾」を開き、砲術と兵学を教えた。この塾に勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らが続々入門した。ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座した象山は松代に幽閉された。
江戸湾の海上要塞「砲台場」
嘉永6年(1853)7月8日、ペリー提督の率いる4隻の米国艦隊が日本に開国を求めるため浦賀沖に停泊した。米国は中国貿易や捕鯨の為に太平洋を航行する船に日本の港で水や食糧の補給が目的であった。ペリーは各艦の1隻の武装した短艇を派遣して浦賀湊内を測量させた。この測量は幕府側に威圧を加える効果があった。7月11日早朝から測量艇隊は江戸湾奥の江戸に向かい20km侵入した。

江戸湾を調査する短艇と護衛のミシシッピ号
この黒船の行動に幕府は大きな衝撃を受けた。日本最大の千石船は150t級、黒船は15倍以上の2450t級である。浦賀奉行与力を旗艦サスケハナに派遣して、大統領親書を将軍に渡す事が目的と把握した。幕府は浦賀奉行の配下を親書受取人として乗船させたが身分が低すぎると却下された。「親書を受け取れる高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、直接将軍に手渡しすると警告を受けた。

老中阿部正弘の差配で、一行の久里浜への上陸を認めた。陸上を河越藩と彦根藩、海上を会津藩と忍藩が警備する中、ペルー提督は護衛を引き連れ上陸、浦賀奉行2名に開国を促すフイルモア大統領の親書、提督の信任状、覚書を手渡した。将軍家慶が病気のため決定出来ないと1年の猶予を要求、1年後に開港の返事を聞くため1年後に再来航すると確約した。

7月14日ペリー提督の久里浜初上陸の図。
幕府は侵略の危機感から江戸湾の海上防衛要塞「砲台場」を急遽、品川沖から深川州崎にかけて設置計画を立案した。翌7月、老中阿部正弘に抜擢された勘定吟味役の江川太郎左衛門英龍に品川州崎から深川州崎にかけて、海上に砲台場11基の監修、設計、建設を命じた。寛永6年(1853)に第一、第二、第三砲台場の建設が開始された。
ペリー提督の退去からわずか10日後の7月27日12代将軍慶が病死、次期13代将軍家定も病弱で幕政を執る状況ではなく、異国排斥を唱える攘夷論が高まっていた。老中首座の阿部正弘は,開国要求に打つ術なく頭を悩ませた。阿部は幕政以外の人々に外交の意見を求めたが、名案はなく国政は幕府単独でなく合議制で決定するとの考えが広まり、幕府の権威を低下させる結果となった。
嘉永6年(1853)12月14日、建造中の砲台場の守備に第1台場は川越藩、第2台場は会津藩、第3台場は忍藩が任命された。各藩に軍艦の建造を奨励して、幕府自らも同10月に洋式帆船「鳳凰丸」を浦賀造船所で起工した。オランダへの艦船発注もペリーが去って7日後に行なった。米国から2年前に帰国した土佐藩校の教授ジョン万次郎を旗本格として登用、アメリカ事情を聞き取りして備えた。

浦賀造船所で製造した幕府の鳳凰丸の模型
嘉永7年(1854)2月13日、ペリー提督が軍艦7隻を率いて浦賀に再来航した。1年の猶予から半年で来航のため、決断は早まり幕府は焦った。浦賀奉行とアダムス中佐の折衝が始まり、応接場所が横浜に完成した。アメリカ側は総勢446人が横浜に上陸した。日本側の使いに対し、船上でフランス料理や鯛料理を振る舞って歓迎した。その応饗として、横浜応接所で初会談を終え、アメリカ側に本膳料理の昼食を振る舞った。

横浜応接所図
本膳料理は日本橋浮世小路の料亭「百川」の百川茂左衛門が二千両で請け負い、5百人分の膳を作った。横浜応接所の御賄料理所で最上級の食材を使い、食器も酒器も吟味して、酒肴、本膳、二の膳、三の膳、デザートなど100品を超える料理を出した。総じて生物や薄味の料理が多く、一品あたりの量がアメリカ人には少なく感じていた。肉料理も出ないことで、ペリーは日本はもっと良い食物を隠している筈だと述懐している。

ペリー提督横浜初上陸

応接所で1ヶ月にわたる協議も紆余曲折があり、嘉永7年3月31日ペリー提督以下500名の将官や船員とともに横浜に上陸し、日本側の歓迎を受けた。日本側の特命全権大使の林復斎を中心に交渉が開始され、全12箇条に及ぶ「日米和親条約」が締結された。その後、4月25日に吉田松陰が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触している。
ペリー一行は函館港を視察して、その後伊豆下田の了仙寺へ交渉の場を移し、6月17日に和親条約の細則を定めた13条からなる「下田条約」を締結した。横浜での会談でペリーは、伊豆下田港にアメリカ人の役人を駐在させる合意し、出歩ける遊歩区域は7里四方(30km)とした。

下田了仙寺でペリー艦隊の軍事訓練
ペリ-艦隊は6月25日に下田港から帰国、ペリー提督は航海記「日本遠征記」を議会に提出した。だが、条約締結の大役を果たしたぺリー提督はわずか4年後の安政5年(1858)68歳で死去した。その後、アメリカは南北戦争に突入し、日本や清国に対する影響力を失い、結局、英国、仏国が明治の日本と関係を強める結果となった。
嘉永8年8月に第一から第三台場が完成する。同年12月に第五、第六台場も完成した。安政元年(1854)5月に幕府は築造計画の縮小で第四と第七砲台場は途中で建設を中止した。12月には第五と第六台場に陸続きで五角形の御殿山下砲台場を築いた。

日米和親条約が調印されると、第八~11の深川砲台場は中止した。最終六基完成した御砲台場は、将軍家に近い親藩や譜代とそれに準ずる大名によって、慶応4年(1868)の幕府崩壊直前まで江戸湾の拠点として警備が行なわれた。

品川砲台場が配置された品川沖には隅田川、中川、江戸川が運ぶ土砂で比較的水深の浅い海域である。戦艦など船底の深い大型船は、海底谷となっている深い澪筋を通る必要がある。その澪筋を挟む形で六基の砲台場は配置されている。初来航の大型船はその海図を入手するか、澪筋を測量して海図を作成することになる。

その防御機能は、第1~3鉋台で「迎え撃ち」、突破されても澪筋を通る船舶の「横撃ち」、通過されると背後に「追い撃ち」の三度攻撃を行なう。第4~7鉋台も同様の攻撃を繰り返すことになる。
江戸湾の砲台場7基の変遷
開国後、砲台場の役目を終えた第二砲台場は航路の妨げになり撤去した。明治6年(1873)6基の砲台場は海軍省、明治8年(1874)陸軍省の管轄となる。大正4年(1915)第六砲台場は東京市に払い下げられた。大正15年(1926)10月に第三と第六台場が国史跡に指定される。昭和3年(1928)7月に第三台場が都市公園「台場公園」として開園する。

第六台場は野鳥の住む自然豊かな学術的にも貴重な海上史跡となった。昭和14年(1939)6月、築造途中で中止となった第四台場の埋立てが完了した。その跡地には天王洲アイル内の第一ホテル東京シーフォートの周辺の護岸に砲台場の石垣にその名残を留める。

昭和36年(1961)12月に第二台場の撤去工事が完了した。昭和38年(1962)9月に第五台場は品川埠頭の埋立てにより埋没した。昭和40年(1965)3月に第七台場の撤去工事が完了した。品川砲台場は一度も実戦に使用される事もなく静かに歴史の幕を閉じた。