忠臣蔵・吉良邸から泉岳寺を歩く



江戸歴史散歩を楽しむ会


 開催のお知らせ





江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。





テーマ:第14回 忠臣蔵・吉良邸から泉岳寺を歩く



開催日:令和6228日(水)



集合場所:JR総武線 両国駅西口改札口                


                    

開催 時間:受付1230分~午後1時出発~500


  ガイド:渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)


参加費1名:2000 


  申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスに申込み下さい。

 

  懇親会:午後5時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。

 

 荒天順延:中止の場合は前日までにブログの頁に掲載お知らせします。


 

       

主要順路両国駅西口→本所松坂公園-→吉良邸正門・裏門→前原伊助邸

→勝海舟生誕地→回向院・旧正門→大高源五句碑→赤穗浪士

休息地→華屋寿司→一之橋→御船倉跡→芭蕉稲荷→萬年橋→

ちくま味噌→永代橋→霊岸島→八丁堀→高橋→鉄砲州稲荷神社

→浅野内匠頭邸→築地本願寺→義士供養碑→東銀座・銀座駅



連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140


メルアド: watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ





# by watkoi1952 | 2024-02-20 10:53 | 定例会散歩開催のお知らせ | Comments(0)

大名家の家格と伺候席の席次




大名家の家格と伺候席の席次





江戸城本丸表御殿の伺候席は将軍に拝謁するため、登城した大名諸侯や旗本諸役人が順番を待つ控席であり、殿席、詰所とも呼ばれていた。この伺候席は拝謁大名の家格、官位、禄高、役職等の様々な要素を集約して成立させている。幕府の権力機構を絶妙に配置した伺候席の席次部屋と各席内序列は、幕府が諸大名を分類把握する上で極めて有効に機能した。また、その席次が幕府の権威と秩序を克明に表わし、大名同志が自ら江戸城内での地位と家格を認識する上で重要視していた。





大名の伺候席は、大廊下席、溜詰、大広間席、帝鑑間席、柳間席、雁間詰、菊間広縁詰の七部屋に集めた。但し、大名が幕府役職に就任した場合は、その役職に定められた席に詰めた。例えば、奏者番であれば芙蓉間に、大番頭ならば菊間に詰めた。伺候席の上位席順は、将軍の執務居住の中奥「御座之間」から最も近接した順に定めた。黒書院に隣接した「溜間」には徳川家の有力譜代大名が詰めた。




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黒書院と白書院の間にある「雁間」には幕府成立後に取立てられた譜代の城主大名が詰めた。「菊間広縁」には雁間と同様に取立てられた譜代の無城大名が詰めた。白書院に隣接した「帝鑑間」は譜代席とも呼ばれ、老中資格の譜代大名が詰めた。しかし、大廊下や大広間の親藩、外様大名の方が格上だが、将軍との親疎では遠ざけられていた。また、大広間席、帝鑑間席、柳間席の三席の大名は「表大名」と呼ばれ、五節句と月次のみに登城した。





江戸城の公式行事は大名の家格と行事により、白書院、黒書院、大広間が謁見の間である。大手門より登城した大名は大玄関から遠侍に通され、表坊主衆に各々の伺候席に案内される。そこで待機して将軍に拝謁する時間が近づくと礼席と呼ぶ「謁見の間」へ移動した。将軍の中奥に近い謁見の間「黒書院」は日常的な行事に使われ、「白書院」と「大広間」は幕府の公的な行事に使われていた。







大廊下席(上之部屋)


松之大廊下は大広間から白書院を繋ぐL字型の全長50m長廊下である。広い中庭に面した大廊下東側と大廊下西側には浜辺の松原に千鳥が群れ飛ぶ襖絵が描かれていた。その襖壁の裏側に沿って最も格式の高い大廊下席があり、「上之部屋」は将軍家に次ぐ家格の御三家と親藩大名家の詰所であった。





尾張徳川家/従二位大納言/御三家/名古屋城主/61、9万石


紀州徳川家/従二位大納言/御三家/和歌山城主/55、5万石


甲府徳川家/従三位権中将/御両典/甲府城主/35万石


館林徳川家/従三位権中将/御両典/館林城主/35万石


水戸徳川家/従三位 中将/御三家/水戸城主/35万石






御三卿 


御三卿は将軍家の家族や親族の扱いで江戸城内の拝領屋敷、賄料10万石、家臣団の何れも幕府から支給されていた。よって、大名領地の経営や居城もない特別礼遇の親族であり、御三家と同様に将軍家の継嗣や養子を輩出する目的で創設された。御三家と最大の違いは、たとえ後継当主が不在でも拝領屋敷や家臣団が解体されずに存続する「明屋敷」の措置が組込まれていた。従って、将軍家の身内である御三卿は平川御門から登城して本丸中奥の内玄関(御風呂屋口)を経て、将軍居住の中奥に用意された特別礼遇の「御控所」が詰所であった。




田安徳川家/従二位権大納言/御三卿/10万石


一橋徳川家/従二位権大納言/御三卿/10万石


淸水徳川家/従二位権大納言/御三卿/10万石







大廊下席(下之部屋)


下之部屋には松平の名乗りを許された加賀前田家、将軍家と姻戚関係を結んだ薩摩島津家、御家門の越前松平家などが詰めた。これら特別な縁戚待遇を与えられた大名は大廊下席の「下之部屋」を伺候席に定められた。




加賀前田家/従三位宰相/外様/金沢城主/1025千石


越前松平家/正四位下権中将/御家門/福井城主/32万石


鷹栖松平家/従四位下佐兵衛督/紀伊家連枝/無城/1万石


越前松平家/正四位下権中将/御家門/津山城主/10万石







溜詰


溜詰は黒書院溜之間の通称を松溜と呼び溜詰名の由来となった。溜間は将軍の中奥執務室に最も近接しており、臣下に与えられた最高の席である。代々の溜詰を「定溜」、「常溜」、「代々溜」などと呼び、会津松平家、彦根井伊家、高松松平家の三家が詰めた。一代に限り溜間に詰める大名家を「飛溜」、老中を永年勤め退任した大名の前官礼遇で一代限り溜間の末席に詰める「溜詰格」があった。




溜詰では老中と諸役人との用談や評議場に用いられ、重要事に同席するには幕閣の諮問を受ける決まりであった。その定員は5名で儀式の際には老中よりも上席に着座した。その格式は非常に高く後年に飛溜の大名も代々詰め、定員が15名になるなど形骸化した。幕末には寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三奉行や諸役人の評議が溜間で行なわれ一定の権威は保たれた。






溜間(常溜)




近江井伊家/正四位上権中将/譜代/彦根城主/35万石


会津松平家/正四位上権中将/御下門/若松城主/28万石


讃岐松平家/正四位上権中将/水戸連枝/高松城主/12万石






溜間(飛溜)



出羽酒井家/従四位下侍従/御譜代侍従/鶴岡城主/17万石


播磨酒井家/従四位下侍従/御譜代侍従/姫路城主/15万石


久松松平家/従四位下侍従/御譜代侍従/松山城主/15万石


豊前小笠原家/従四位下侍従/御譜代侍従/小倉城主/15


越後榊原家/従四位下侍従/御譜代侍従/高田城主/15万石


久松松平家/従四位下侍従/御譜代侍従/桑名城主/11、3万


奥平松平家/従四位下侍従/御譜代侍従/武蔵忍城主/10


三河本多家/朝散太夫/溜詰格/譜代/岡崎城主/5万石







大広間席


大広間席は外様雄藩の国持大名と準国持大名の伺候席である。これら国主以外でも四品以上の官位を持つ親藩と外様大名が詰めた。このように大広間席の外様雄藩、御家門、連枝は二之間と三之間に家格順に詰め、幕府要職とは縁の少ない伺候席であった。




薩摩島津家/従四位上権中将/外様/鹿児島城主/72万石


陸奥伊達家/従四位上権中将/外様/仙台城主/62万石


美濃高須松平家/従四位上権中将/尾張連枝/無城/3万石


伊予西条松平家/従四位上権中将/紀伊連枝/無城/3万石


肥後細川家/従四位下権中将/外様/熊本城主大身/54万石


筑前黒田家/従四位下権中将/外様/福岡城主/473千石


安芸浅野家/従四位下権中将/外様/広島城主/426千石


肥前鍋島家/従四位下権中将/外様/佐賀城主/357千石


長門毛利家/従四位下権中将/外様/萩城主/36万万9千石


因幡池田家/従四位下権中将/外様/鳥取城主/325千石


伊勢藤堂家/従四位下権中将/外様/津城主/323千石


備前池田家/従四位下権中将/外様/岡山城主/315千石


阿波蜂須賀家/従四位下権中将/外様/徳島城主/25、7万石


土佐山内家/従四位下権中将/外様/高知城主/242千石


出雲松平家/従四位下権中将/御家門/松江城主/18、6万石


出羽上杉家/従四位下権中将/外様/米沢城主/15万石


対馬宗家/従四位下権中将/外様/厳原城主/10万石格


筑後有馬家/従四位下権中将/外様/久留米城主/21、8万石


出羽佐竹家/従四位下権中将/外様/久保田城主/20、5万石


陸奥松平家/従四位下侍従/水戸連枝/無城/定府/2万石


常陸松平家/従四位下侍従/水戸連枝/無城/定府/2万石


伊予伊達家/従四位下権中将/外様/宇和島城主/10万石


筑後立花家/従四位下侍従/外様/柳川城主/109千石


陸奥丹羽家/従四位下侍従/外様/二本松城主/103千石


上野松平家/従四位下侍従/御家門/前橋城主/17万石


越中前田家/従四位下侍従/外様/富山城主/10万石


播磨松平家/従四位下侍従/御家門/明石城主/10万石格


大聖寺前田家/従四位下侍従/外様/無城/10万石


石見松平家/従四位下侍従/御家門/浜田城主/61千石


陸奥津軽家/従四位下侍従/外様/弘前城主/10万石


陸奥南部家/従四位下権少将/外様/盛岡城主/20万石







帝鑑間席


帝鑑間は幕府成立以前から徳川家に臣従していた譜代大名が詰める席で譜代席と呼んでいた。但し、親藩や外様大名からの願いによりこの席に移った大名を「御願譜代」と呼んだ。官名の朝散太夫とは従五位以下の別称である。




大和柳沢家/朝散太夫/譜代/郡山城主/151千石


相模大久保家/朝散太夫/譜代/小田原城主/113千石


備後阿部家/朝散太夫/譜代/福山城主/11万石


下総堀田家/朝散太夫/譜代/佐倉城主/11万石


若狭酒井家/朝散太夫/譜代/小浜城主/103千石


豊前奥平家/朝散太夫/譜代/中津城主/10万石


美濃戸田家/朝散太夫/譜代/大垣城主/10万石


信濃真田家/朝散太夫/譜代格/松代城主/10万石


下総土井家/朝散太夫/譜代/古河城主/8万石


下野戸田家/朝散太夫/譜代/宇都宮城主/77千石


日向内藤家/朝散太夫/譜代/延岡城主/7万石


出羽戸沢家/朝散太夫/譜代格/新庄城主/68千石


深溝松平家/朝散太夫/譜代/肥前島原城主/65千石


松井松平家/朝散太夫/譜代/陸奥棚倉城主/64千石


大給松平家/朝散太夫/譜代/三河西尾城主/6万石


伊勢石川家/朝散太夫/譜代/亀山城主/6万石


信濃戸田家/朝散太夫/譜代/松本城主/6万石


近江本多家/朝散太夫/譜代/膳所城主/6万石


肥前小笠原家/朝散太夫/譜代/唐津城主/6万石


和泉岡部家/朝散太夫/譜代/岸和田城主/6万石


陸奥相馬家/朝散太夫/譜代格/中村城主/6万石


藤井松平家/朝散太夫/譜代/上田城主/53千石


播磨脇坂家/朝散太夫/譜代/龍野城主/51千石


駿河水野家/朝散太夫/譜代/沼津城主/5万石


出羽水野家/朝散太夫/譜代/山形城主/5万石


越後内藤家/朝散太夫/譜代/村上城主/5万石


形原松平家/朝散太夫/譜代/亀山城主/5万石


陸奥秋田家/朝散太夫/譜代格/三春城主/5万石


越前有馬家/朝散太夫/譜代格/丸岡城主/5万石


桜井松平家/朝散太夫/譜代/尼崎城主/4万石


久松松平家/朝散太夫/譜代/今治城主/4万石


信濃本多家/朝散太夫/譜代/飯山城主/35千石


遠江西尾家/朝散太夫/譜代/横須賀城主/35千石


上野土岐家/朝散太夫/譜代/沼田城主/35千石


能見松平家/朝散太夫/譜代/豊後杵築城主/32千石


下野鳥居家/朝散太夫/譜代/壬生城主/3万石


藤井松平家/朝散太夫/譜代/出羽上山城主/3万石


信濃諏訪家/朝散太夫/譜代/高島城主/3万石


志摩稲垣家/朝散太夫/譜代/鳥羽城主/3万石


松江松平家/朝散太夫/御家門/広瀬城主格/定府/3万石


大和植村家/朝散太夫/譜代/高取城主/25千石


出羽酒井家/朝散太夫/譜代/松山城主/25千石


近江加藤家/朝散太夫/譜代格/水口城主/定府/25千石


越前小笠原家/朝散太夫/譜代/勝山城主/22千石


大給松平家/朝散太夫/譜代/豊後府内城主/21千石


三河内藤家/朝散太夫/譜代/三河挙母城主/2万石


越後井伊家/朝散太夫/譜代/与板陣屋/城主格/2万石


奥平松平家/朝散太夫/譜代/小幡陣屋/城主格/2万石


陸奥本多家/朝散太夫/譜代/陸奥泉陣屋/城主格/2万石


上総保科家/朝散太夫/譜代/飯野陣屋/無城/2万石


下総水野家/朝散太夫/譜代/結城城主/18千石


下野堀田家/朝散太夫/譜代/佐野城主/16千石


伊勢本多家/朝散太夫/譜代/神戸城主格/15千石


三河三宅家/朝散太夫/譜代/田原城主/12千石


陸奥内藤家/朝散太夫/譜代/湯長谷陣屋/無城/15千石


近江堀田家/朝散太夫/譜代/宮川陣屋/無城/定府/1、3


播磨小笠原家/朝散太夫/譜代/安志陣屋/無城/1万石


播磨本多家/朝散太夫/譜代/山崎陣屋/無城/1万石


水戸松平家/朝散太夫/水戸連枝/宍戸陣屋/定府/1万石


福井松平家/朝散太夫/御家門/糸魚川陣屋/無城/定府1


松江松平家/朝散太夫/御家門/母里陣屋/無城/定府/1


播磨丹羽家/朝散太夫/譜代/三草陣屋/無城/定府/1万石


越後柳沢家/朝散太夫/譜代/黒川陣屋/無城/定府/1万石


越後柳沢家/朝散太夫/譜代/三日市陣屋/無城/定府/1


豊前小笠原家/朝散太夫/譜代/小倉城内/無城/新田1万石


駿河榊原家/朝散太夫/表御礼衆/無城/交代寄合/1、8千石


三河菅沼家/無位無官/表御礼衆/無城/交代寄合/7千石


久松松平家/無位無官/表御礼衆/無城/交代寄合/6千石


竹谷松平家/無位無官/表御礼衆/無城/交代寄合/4、5千石







柳間席


柳間は五位、無官の外様大名、交代寄合、表高家、並の寄合衆が詰める控席である。準国主でも五位の時は柳間に詰め、四品に昇進すると大広間に移る。




雁間詰


雁間は幕府成立後に新たに取立てられた大名で城主格の大名が詰める控席である。この雁間に詰める大名は「雁間衆」と呼ばれ、他席の大名と異なり毎日登城した。伺候席の中で唯一雁間席が正午に老中が行なう御殿巡回経路に入っており、幕閣の目に留まることで、役職に就く機会も多かった。そのため、帝鑑間から雁間への移動を願い出る大名も多かった。





菊間広縁詰


菊間広縁は幕府成立後に新たに取立てられた大名の内、無城大名の詰める詰席である。また、旗本の大番頭、書院番、小姓組両番頭、旗奉行、槍奉行など武役職の詰所でもある。





菊間


菊間は江戸幕府成立後、新たに取立てられた無城の譜代大名が詰めた。雁間大名の嫡子の席であり、父親が若年寄や奏者番に勤務中であれば嫡子は菊間に詰めた。また、譜代、親藩大名が創設した支藩の当主も菊間に詰めた。










# by watkoi1952 | 2024-02-18 12:10 | 幕藩体制の幕臣と諸大名 | Comments(0)

江戸の繁華街「市中引廻7」を歩く



  大江戸歴史散歩を楽しむ会   


 開催のお知らせ




江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。






テーマ:第13回 江戸の繁華街「市中引廻7」を歩く


開催日:令和6214日(水)



 終了しました。次回の開催は2月28日です。


  「忠臣蔵 吉良邸から泉岳寺を歩く①」 



集合場所:銀座線・都営浅草線・東武線「浅草駅」下車


                雷門の右横スペース



                    

開催 時間:受付1230分~午後1時出発~500



  ガイド:渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)



 参加費1名:2000 



  申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスに申込み下さい。



   懇親会:午後5時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。



  荒天順延:中止の場合は前日までにブログの頁に掲載お知らせします。



        

主要順路:風雷門→浅草観光センタ-→展望テラス→吾妻橋→奥州街道→

     齣形堂→厩橋→駒形どぜう→蔵前小学校(漱石碑)→浄念寺→

     西福寺→鳥越神社→甚内橋→甚内神社→松浦蓬莱園→浅草見附

     →柳橋→神田川河口→元柳橋→薬研堀→不動院→順天堂発祥地

     →鞍掛橋→竹森神社→伝馬町牢屋敷→小伝馬町駅





連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140



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# by watkoi1952 | 2024-02-05 14:31 | 定例会散歩開催のお知らせ | Comments(0)

秋葉原の地名と秋葉大権現



秋葉原の地名と秋葉大権現





世界屈指の電気街「秋葉原」、通称「アキバ」の地名由来となった秋葉神社の歴史を繙いて見よう。それは、明治2年(18691212日、神田相生町20番地の塗師職人の金次郎宅から出火して、外神田の近隣八町1、100戸が焼失した延焼大火に始まる。この相生町大火の惨状を憂慮した江戸城西ノ丸に入城間もない英照皇太后(孝明天皇妃)が明治天皇に火防の祈願所の設置を進言したという。




明治天皇の勅命で太政官は発足まもない東京府に下命、相生町の出火地一帯に延焼をくい止める火除明地(9、000坪)の設営を決め、住民に保証を与え立退かせた。明治3年(187010月、江戸城紅葉山に鎮座していた秋葉神社に新たに三祭神(火産(ほむすび)()大神(おおかみ)水波能売(みずはのめの)(かみ)埴山毘売(はにやまひめ)(かみ))を祀り、神田相生町一帯に設けた火除明地に移築遷座したのである。地図には鎮火神社と秋葉の原と記されている。




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江戸城紅葉山の秋葉神社


明治元年(1868411日に江戸城は平和裡に明治新政府軍の先遣隊に明け渡された。天正18年(159081日、家康の江戸入府以来、江戸城は実に278年間で徳川家の手を離れたのである。15代将軍慶喜は謹慎中であり、徳川家達が徳川宗家16代当主に任命され家督を継いた。江戸城紅葉山には初代家康の東照大権現、二代台徳院から歴代将軍の霊廟が鎮座している。




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家康の月命日には紅葉山東照宮へ「お宮御社参」という幕府の公式行事が270年間に及び励行されてきた。明治元年(1868)1219日、明治新政府は16代徳川宗家の家達に紅葉山の歴代霊廟の撤去を命じて、徳川家の痕跡を全て消し去った。紅葉山東照宮の石造鳥居は上野東照宮の参道に移設したが、家康の地元の浜松秋葉神社から勧請した火防の神を祀る秋葉神社の小洞は、その由来が不明なのか取り残されていた。




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神仏習合と神仏分離令


明治新政府は王政復古や祭政一致を唱え、明治元年(1868313日に青天霹靂の如く神仏分離令が発布された。それまで、千年の歴史を有する日本古来の自然崇拝の神道と渡来仏教との神仏習合の時代であった。八百万の神々を依代とする神官が仏に救いを求め、仏教が主体で神道は従属する立場となった。




神道の八百万の神々は、様々な仏教の仏や菩薩が衆生を救うために化身して、日本の地に「権現」の神号として現れた。つまり、火防の秋葉神は仏の仮の姿で「秋葉権現」と呼ばれた。神仏習合の神社には神宮寺や別当寺が付属して、祭祀を行なうのは神主だが、神社の経営全般を統括したのは付属寺院の僧侶で社僧や別当と呼ばれていた。




明治の神仏分離令では寺社から社寺へ地位が逆転する過激な廃仏希釈が行なわれ、神道が国家の中心思想となった。その立場上、皇居内の紅葉山に神仏習合の権化である秋葉大権現の存在はあってはならない極秘物件であった。霊山秋葉山に、和銅2年(709)元明天皇の勅命により社殿が築かれ創建された歴史があり、破却も出来ず、その移設先に苦慮していた。




そこに神田大火跡地の火除明地に秋葉神社を移転する絶好の機会を得たのである。しかも、宮中では歴代天皇の位牌や仏像に仏画類をどうすべきか論争になっていたが全て破棄された。神仏習合の秋葉神社の社名で新政府が移設すれば、神仏分離政策は崩壊しかねない非常事態であった。







鎮火神社の遷座創建


そこで全国の神祇や祭祀を統括する神祇官は、神道で祀る神々は記紀神話に登場する由緒正しい鎮火三神を祭神とする鎮火(ひしずめ)神社(鎮火社)と命名して移築遷座した。東京府を代表する火災鎮護の祈願所として、入口に鳥居と中央東に社殿を築いて火防の「鎮火神社」として創建したのである。明治6年(18731月、鎮火神社は江戸の総鎮守である神田神社の兼務社となる。さらに、同年8月に東京府郷社に格上げして社格を整え、東京の火災鎮護の祈願所として崇敬を集めるよう配慮した。





明治新政府は、江戸時代に「神田明神」が神格化した平将門の祭神を朝廷の反逆者として降下させ「神田神社」と改めている。明治7年(1874)に火除明地の住所を「神田花岡町」と改めるなど順調に推移していた。ところが、地元庶民は鎮火ひしずめ社として創建した神社を江戸でぶせの神で信仰を集めていた秋葉信仰の「秋葉大権現」を当然の如く勧請したと想い、秋葉様、秋葉さんと親しみを込めて呼び慣わしていた。それが一般に広く流布していたにも拘わらず何故か、新政府役人や創建した東京府に命名した神祇官すら誰一人、秋葉様でなく鎮火神社が正式名称であると異論を唱える者はいなかった。




つまり、江戸から東京において、「火防の神」と言えば、広く民衆の信仰を集めた遠州「秋葉大権現」または、京都「愛宕権現」の何れかであって、唐突な「鎮火神社」など知る由もなかった。江戸の譜代大名屋敷内には家康ゆかりの浜松秋葉神社から分祀した秋葉神社が鎮座して、大名火消の火防の神として信仰を集めていた。明治になると国元に帰った大名屋敷内の秋葉神社は近隣の町の「火難除けの神」として引き継がれている。







秋葉詣と秋葉講


五代将軍綱吉の時代(16461709)には、火事に怯える江戸庶民に火防の神として「遠州秋葉詣」が盛んになり、秋葉山への参詣道は秋葉街道と呼ばれた。また「秋葉講」が大流行、伊勢詣を凌ぐ秋葉信仰が絶大な人気を博していた。しかし、江戸時代の庶民にとって秋葉詣の旅費は負担となった。そこで、宗教的な互助組織の「秋葉講」を各地域で結成して講金を積み立て、籤引などで選出された代参者が交代で霊山秋葉山に参詣した。




代参者は秋葉山頂の本宮で江戸の町々の火防安全を祈願して霊験を新たに帰郷した。当然、秋葉山の御守や御土産に道中土産話は代参者の務めであった。そこで地元の神田花岡町の火除明地の鎮火神社広場を「秋葉あきばはら」や「秋葉あきばぱら」と呼ぶようになり、現在の秋葉原の通称「アキバ」の語源となった。







秋葉山本宮秋葉神社


静岡県浜松市春日野町の秋葉山の標高866mの頂上に上社の秋葉山本宮秋葉神社が鎮座し、南東山麓には下社が鎮座する。秋葉山は天竜川左岸の赤石山脈が平野に下る間際に屹立する霊山である。全国秋葉神社八百社の総本宮で秋葉(あきは)神社と呼称する。御祭神は火の主祭神である「火之迦(ひのか)具土(ぐつちの)大神(おおみかみ)」、御神徳は火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を払い除く火防開運の神として信仰されている。




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秋葉山は御神体山であり、その霊山の神様を神道、仏教、修験道の三者がそれぞれの信仰と儀礼でお祀りする修行の場であった。平安鎌倉時代の神仏習合で神道と仏教が融合して江戸時代まで秋葉大権現を祀る秋葉神社と聖観音を本尊とする秋葉寺が併存し、修験者三尺坊が護神とされていた。明治の神仏分離令で権現号と秋葉寺は廃され、秋葉神社は愛宕神社と同じ神道の「火之迦具土大神」を祭神としている。




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彦根藩三代藩主の井伊直孝は、秋葉山本宮の山頂で武田赤備え隊が井伊家に従属する忠誠を誓った地に金銅製の「黄金の鳥居」を寄進した。直孝は大阪の陣の武功に
より三十万石に加増され、徳川幕府譜代大名の筆頭となる。







浜松秋葉神社


永禄13年(1570)徳川家康は浜松城入城の際に浜松城に近接した丘陵地に霊山秋葉山より勧請して「浜松秋葉神社」と命名した。その建立地は家康の長女亀姫が正室となった奥三河を支配する家臣奥平信昌の屋敷地であった。家康はこの浜松秋葉神社を江戸城紅葉山に分祀したのである。




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信長と家康による武田家滅亡で最強の赤備え武田騎馬隊の多くが家康の重臣井伊家に従属するため、秋葉山山頂で忠誠を誓った。その「信玄衆誓詞」の起請文が浜松秋葉神社に奉納され、「井伊の赤備え発祥の地」となった。それ故に徳川家の武勇躍進の礎となった重要な神社であった。







江戸の神田火事はなぜ延焼大火になるのか


宝暦10年(176026日の「宝暦の大火」は、神田旅籠町(外神田1丁目)の明石屋足袋店から出火した。文政12年(1829321日の「文政の大火」は神田佐久間町の材木置場小屋の失火で、折からの北西強風で江戸の中心街に延焼し、37万軒焼失2800人の焼死者を出した。佐久間河岸の地名は江戸城普請の際に大量の材木を供給した豪商「佐久間平八」に由来する。神田川の北側が佐久間河岸、佐久間町、和泉町と街並みが続いている。和泉町や和泉橋の名称は、築城名人藤堂和泉守高虎の上屋敷15千坪に由来する。




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天保5年(183427日の甲午火事と呼ばれる「天保の大火」では神田佐久間町二丁目から出火、強風による飛び火で各方面に延焼した大火の焼死者は4000人に及ぶ大惨事であった。「またも火元は佐久間町」か、度重なる出火に江戸中を恐怖に陥れ、大火の出火元の佐久間町は、「悪魔町」と呼ばれるほど怖れられていた。




幕府もこの地に対し厳しい措置を取り、火元となる可能性のある地域は替地へ、材木置き場は深川方面へ移転させた。その跡地に延焼を防ぐ「火除広道」を和泉橋から筋違橋までを火除明地とした。そして、明治2年(1869122日の「神田相生町の大火」で11町の建物1100戸を延焼した時にも「また佐久閒町の出火か」と江戸市中で噂が一人歩きしたほどである。




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この地域は江戸から火事延焼が同一地域で何度も発生した。当然、火除明地になるが数年して地元民が陳情、また家並が建つと火事を繰り返してきた。一軒の火元から数軒に広がると町火消の活躍でくい止める。しかし、この低層住宅区域で出火すると遮るものがない熱風が本郷台の急斜面に上昇気流が発生して、海抜3~4mから海抜22mまで一気に上昇して、瞬く間に数十軒に延焼する。しかも、隅田川から神田川の水面を障害もなく滑るように走る風で酸素は絶え間なく火事に供給される。さらに寒冷期の北西風が加わり、烈風吹き荒ぶ季節の火事が延焼大火になるのである。








鎮火神社の遷座と秋葉原貨物専用駅


明治17年(1884)には神田花岡町の鎮火神社境内の広場に大道芸、見世物小屋などの興行や飲食屋台、貸自転車、貸馬のある行楽地の賑わいであった。前年の明治16年日本初の私鉄「日本鉄道」が上野駅~熊谷駅間(JR高崎線)に鉄道を開設した。上野駅では生糸や米穀など貨物の増加に伴い、神田花岡町の火除明地に貨物専用駅を延伸させ荷捌する計画を発表した。




明治21年(18887月、貨物駅設置のため、東京府から火除明地は日本鉄道に払い下げられた。同年、秋葉が原の鎮火神社は替地として、下谷区入谷町(台東区松ヶ谷3-10-7)に遷座した。昭和5年(1930)には、政府が懸念した神仏分離は人々に忘れられ、火鎮神社を元の秋葉神社と改めたのである。庶民の想い込みから「秋葉原」の地名が生まれ、神社の社号も本来の「秋葉神社」に変わるが三祭神を変える事はなかった。




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東北や信越の玄関口である上野駅では、旅客と貨物を共に扱っていた。しかし、年々貨物量が増加の一途を辿り、集荷と配達の荷車が犇めき合い周辺の狭い道路に渋滞が広がった。これに対応するため、旅客と貨物の分離計画を推し進めた。上野駅の南に9千坪の火除明地があり、神田川の水運利用が決め手となった。神田川から引込水路に船荷溜を築き、明治23年(1890)秋葉原貨物取扱所駅は開業した。





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大正14年(1925)山ノ手線上野駅~東京駅間の高架線開業と同時に「秋葉原駅」として旅客営業を開始した。この「あきはばら駅」の命名から秋葉原の地名の呼称が「アキハバラ」に統一された。昭和7年(1932)に御茶ノ水駅~両国駅間が延伸され、総武線は秋葉原駅で山ノ手線と、御茶ノ水駅で中央線と連絡した。船運はトラック運送になり、昭和38年(1963)引込水路と船溜は埋立てられた。昭和50年(1975)に秋葉原貨物駅の営業は廃止された。







神田佐久間町と防火守護地の物語


「またも出火は佐久間町か」と江戸中を恐怖に陥れた佐久間町の住民は、町の忌まわしい過去を払拭するために火の元と火の始末には殊の外気配りした。他の町よりも辻々に多くの天水桶を置き火の用心に努めた。長老たちは「何があってもこの町から火を出してはならない」と戒めた。毎晩の見廻りと火災訓練も励行していた。




その最中の大正12年(1923911153M7.9 の関東大震災が発生した。明暦の大火(明暦3年(165732日~4日)以来の大惨事である未曾有の大火となった。初期消火は消防隊に地域住民が協力して消火したが、昼過ぎからの火災は強風に煽られ短時間に燃え広がった。延焼の火に追われた町では、警官の誘導で隅田川を渡り本所方面に続々と避難した。




佐久間町界隈も浅草方面より火の手が迫り、避難を始めようとした矢先に神田川に架かる和泉橋と美倉橋に町内会長や町の有志が立ち「この町の者は逃げてはならない桶やバケツを持って集まれ」と呼びかけた。これまで語り継がれた火防の戒めを思い起こした住民は呼びかけに即応した。




高齢者や体の不自由な方や子供達には在郷軍人が付き添い上野公園へ避難させた。東京市は警視庁消防部と傘下の市部消防部で組織されていた。市部消防隊は江戸の町火消の流れを汲む鳶職人で構成された予備消防員であった。東京市の主要装備は消防車38台、市部消防部には消火栓直結のホ-スが配備され、市中の全域に消火栓を持つ水道は整備されていた。




しかし、地震で全て損壊断水して市部消防体制の100万都市は一挙に無力化した。そこに神田和泉町界隈を管轄する万世橋消防署の消防隊は、あろうことか命令で地元を放棄して日本橋区へ出動してしまった。だが、和泉町には前年に「和泉町ポンプ所」が建てられており、佐久間町の人々はその貯水や神田川の水を汲み上げ、瓦の落ちた屋根に火が付くとバケツリレーで消火した。




それでも風に煽られ猛烈な速度で火勢は迫ってくる。近隣の病院と会社が自衛用に備えていた2台の消防ポンプを借り、迫り来る地域に配備して放水で火勢を弱め、そこに皆の協力でバケツリレーで消火した。ポンプ車のガソリンは住民が手分けして必死で集めながら消防力を維持し続けた。近隣企業の社員も加勢し、それら不燃ビルや煉瓦塀に石造倉庫などが防火壁となって火勢を弱める働きをした。




さらに布団やムシロを濡らし数人掛かりで叩き消し、濡らした布を棒先に取付けた火叩きで飛び火を迎え撃った。延焼の勢いを止める防火帯を造るため、住宅を引き倒す破壊消防で防ぎ、彼らは怯むことなく一晩中火と闘い続けた。しかし、翌2日目には蔵前の方から火が猛烈な勢いで迫り、火災旋風が巻き起こった。夜通し闘い続け疲れ果てた頃、怖れていた事が起こった。




佐久間町の中央にある佐久間小学校二階建て木造校舎の屋根に飛び火が付いたのだ。皆は小学校が燃えたらこの町はもう駄目だと思ったそのとき諦めない人達がいた。それは卒業生や中学生達が自分たちの小学校が燃えていると聞き続々と集まってきたのだ。自分たちでバケツリレーを始め、二階の机や椅子を積み重ね天井と屋根を破り、強風で煽られた屋根上の火を必死に消し止めた。




彼らの危険に怯まない必死の消火活動を見ていた人達も一人、二人と列に加わり、最終的に二百人を超える人々が母校の火災に立ち向かった。大勢の力が結集され、必死の消火活動が功を奏して、92日午後6時頃に鎮火した。町の人達が一致協力して町を守り抜いたのだ。93日の朝、見渡す限り跡形もなく燻り続ける焼け野原の中で、神田佐久間町と和泉町などの町だけの建物が焼残ったのである。





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町の人々の働きで佐久閒河岸米蔵の13000俵が焼け残り、震災後多くの人命を救うことになった。神田佐久間町と和泉町の焼け残った町のことが伝えられ「関東大震災の奇跡」と呼ばれた。そして、ついに佐久閒町は悪魔町の汚名を払拭したのである。昭和14年(1934)東京府はこの地域一帯を範とすべきと「町内協力防火守護之地」と命名して町の人々の心意気を称えた。




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皆で守り抜いた佐久閒町小学校跡地の佐久閒町公園に鎮座する「防火守護之地」の石碑は、逃げる防災だけでなく、安全が確保できた元気な人は不条理な災害と闘う勇気も必要であると教示している。全ての防災対策や危機管理は緻密な事前対策が必要である。明日は我が身に災害が降りかかる。多くの犠牲を払って得た教訓を活かすのは残された者の責務であろう。







# by watkoi1952 | 2024-01-28 14:04 | 江戸学よもやま話 | Comments(0)

江戸の繁華街「市中引廻6」を歩く


江戸歴史散歩を楽しむ会


 

 開催のお知らせ





江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。





テーマ:第12回 江戸の繁華街「市中引廻6」を歩く



開催日:令和61月24日(水)



  今回は終了しました。次回は2月14日(水)です。



集合場所:「JR上野駅」不忍口や広小路口を出て右方向の 


                「上野公園前交番」前 

 

         (交番のすぐ裏手に京成上野駅の入口)



                    

開催 時間:受付1230分~午後1時出発~500



  ガイド:渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)



参加費1名:2000 



  申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスに申込み下さい。



   懇親会:午後4時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。



  荒天順延:中止の場合は前日までにブログの頁に掲載お知らせします。



        

主要順路:上野公園前→黒門→あゝ上野駅歌碑→高岩寺→台東区役所→

     浅草通り→永昌寺→法善寺(江戸名所図会)→源空寺(伊能

     忠敬)→秋葉神社→合羽橋道具街→東本願寺→等光寺(啄木)

     →清光寺→雷門→江戸通り→言問橋西→今戸橋→待乳山聖天

     →猿若町→浅草寺→浅草駅→1700




連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140


メルアド: watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ






# by watkoi1952 | 2024-01-16 19:00 | 定例会散歩開催のお知らせ | Comments(0)