大江戸歴史散歩を楽しむ会
2024-03-19T15:44:50+09:00
watkoi1952
江戸東京の歴史散策に興味があり、健脚であればどなたでも気軽に参加できます。この会は歴史散歩の趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散策を楽しみながら懇親を深めることを目的としている。
Excite Blog
吉良邸から泉岳寺を歩く②
http://wako226.exblog.jp/242114566/
2024-03-19T15:34:00+09:00
2024-03-19T15:42:56+09:00
2024-03-19T15:34:27+09:00
watkoi1952
定例会散歩開催のお知らせ
大江戸歴史散歩を楽しむ会 開催のお知らせ
江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。
テーマ:第15回忠臣蔵・吉良邸から泉岳寺を歩く②
開催日:令和6年3月27日(水)
集合場所:有楽町線/新富町駅の明石町方面改札口
開催 時間:受付12時30分~午後1時出発~4時50分
ガイド:渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)
参加費1名:2、000円
申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスにて申込み下さい。
懇親会:午後5時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。
荒天順延:中止の場合は前日までにブログの頁に掲載お知らせします。
主要順路:新富町駅→築地川南流-→軽子橋→築地川公園→浅野家上屋敷跡
築地本願寺→赤穗浪士供養塔→築地川東流→二之橋(采女橋)→
新橋演舞場→御幸通り→象山五月塾→木挽町狩野画塾一三十間堀
川→汐留橋→旧東海道→→旧汐留駅→→仙台伊達家上屋敷→築地
浜離宮展望→大江戸線汐留駅→新橋駅
連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140
メルアド: watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ
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吉良邸から泉岳寺を歩く①
http://wako226.exblog.jp/242095272/
2024-02-20T10:53:00+09:00
2024-03-19T15:44:50+09:00
2024-02-20T10:53:13+09:00
watkoi1952
定例会散歩開催のお知らせ
大江戸歴史散歩を楽しむ会
開催のお知らせ
江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。
テーマ:第14回 吉良邸から泉岳寺を歩く①
開催日:令和6年2月28日(水)
終了しました。次回は3月13日(水)です。
開催中止のお知らせ
3/13(水)午前中は晴後曇り、午後雨天の予報か
ら晴れに向う模様ですが、寒暖差による不調もあ
り、13日の開催を中止と致します。
次回は3/27日(水)の予定です。
集合場所:JR総武線 両国駅西口改札口
開催 時間:受付12時30分~午後1時出発~5時00分
ガイド:渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)
参加費1名:2、000円
申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスに申込み下さい。 懇親会:午後5時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。 荒天順延:中止の場合は前日までにブログの頁に掲載お知らせします。
主要順路:両国駅西口→本所松坂公園-→吉良邸正門裏門→前原伊助邸→勝海舟生誕地→回向院・旧正門→大高源五句碑→赤穗浪士休息地→華屋寿司→一之橋→御船倉跡→芭蕉稲荷→萬年橋→ちくま味噌→永代橋→豊海橋→湊橋→高橋→鉄砲州稲荷神社→築地川南流→有楽町線新富町駅
連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140
メルアド: watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ
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大名家の家格と伺候席の席次
http://wako226.exblog.jp/242093738/
2024-02-18T12:10:00+09:00
2024-02-18T17:20:45+09:00
2024-02-18T12:10:21+09:00
watkoi1952
幕藩体制の幕臣と諸大名
大名家の家格と伺候席の席次
江戸城本丸表御殿の伺候席は将軍に拝謁するため、登城した大名諸侯や旗本諸役人が順番を待つ控席であり、殿席、詰所とも呼ばれていた。この伺候席は拝謁大名の家格、官位、禄高、役職等の様々な要素を集約して成立させている。幕府の権力機構を絶妙に配置した伺候席の席次部屋と各席内序列は、幕府が諸大名を分類把握する上で極めて有効に機能した。また、その席次が幕府の権威と秩序を克明に表わし、大名同志が自ら江戸城内での地位と家格を認識する上で重要視していた。
大名の伺候席は、大廊下席、溜詰、大広間席、帝鑑間席、柳間席、雁間詰、菊間広縁詰の七部屋に集めた。但し、大名が幕府役職に就任した場合は、その役職に定められた席に詰めた。例えば、奏者番であれば芙蓉間に、大番頭ならば菊間に詰めた。伺候席の上位席順は、将軍の執務居住の中奥「御座之間」から最も近接した順に定めた。黒書院に隣接した「溜間」には徳川家の有力譜代大名が詰めた。
黒書院と白書院の間にある「雁間」には幕府成立後に取立てられた譜代の城主大名が詰めた。「菊間広縁」には雁間と同様に取立てられた譜代の無城大名が詰めた。白書院に隣接した「帝鑑間」は譜代席とも呼ばれ、老中資格の譜代大名が詰めた。しかし、大廊下や大広間の親藩、外様大名の方が格上だが、将軍との親疎では遠ざけられていた。また、大広間席、帝鑑間席、柳間席の三席の大名は「表大名」と呼ばれ、五節句と月次のみに登城した。
江戸城の公式行事は大名の家格と行事により、白書院、黒書院、大広間が謁見の間である。大手門より登城した大名は大玄関から遠侍に通され、表坊主衆に各々の伺候席に案内される。そこで待機して将軍に拝謁する時間が近づくと礼席と呼ぶ「謁見の間」へ移動した。将軍の中奥に近い謁見の間「黒書院」は日常的な行事に使われ、「白書院」と「大広間」は幕府の公的な行事に使われていた。
大廊下席(上之部屋)
松之大廊下は大広間から白書院を繋ぐL字型の全長50m長廊下である。広い中庭に面した大廊下東側と大廊下西側には浜辺の松原に千鳥が群れ飛ぶ襖絵が描かれていた。その襖壁の裏側に沿って最も格式の高い大廊下席があり、「上之部屋」は将軍家に次ぐ家格の御三家と親藩大名家の詰所であった。
尾張徳川家/従二位大納言/御三家/名古屋城主/61、9万石
紀州徳川家/従二位大納言/御三家/和歌山城主/55、5万石
甲府徳川家/従三位権中将/御両典/甲府城主/35万石
館林徳川家/従三位権中将/御両典/館林城主/35万石
水戸徳川家/従三位 中将/御三家/水戸城主/35万石
御三卿
御三卿は将軍家の家族や親族の扱いで江戸城内の拝領屋敷、賄料10万石、家臣団の何れも幕府から支給されていた。よって、大名領地の経営や居城もない特別礼遇の親族であり、御三家と同様に将軍家の継嗣や養子を輩出する目的で創設された。御三家と最大の違いは、たとえ後継当主が不在でも拝領屋敷や家臣団が解体されずに存続する「明屋敷」の措置が組込まれていた。従って、将軍家の身内である御三卿は平川御門から登城して本丸中奥の内玄関(御風呂屋口)を経て、将軍居住の中奥に用意された特別礼遇の「御控所」が詰所であった。
田安徳川家/従二位権大納言/御三卿/10万石
一橋徳川家/従二位権大納言/御三卿/10万石
淸水徳川家/従二位権大納言/御三卿/10万石
大廊下席(下之部屋)
下之部屋には松平の名乗りを許された加賀前田家、将軍家と姻戚関係を結んだ薩摩島津家、御家門の越前松平家などが詰めた。これら特別な縁戚待遇を与えられた大名は大廊下席の「下之部屋」を伺候席に定められた。
加賀前田家/従三位宰相/外様/金沢城主/102万5千石
越前松平家/正四位下権中将/御家門/福井城主/32万石
鷹栖松平家/従四位下佐兵衛督/紀伊家連枝/無城/1万石
越前松平家/正四位下権中将/御家門/津山城主/10万石
溜詰
溜詰は黒書院溜之間の通称を松溜と呼び溜詰名の由来となった。溜間は将軍の中奥執務室に最も近接しており、臣下に与えられた最高の席である。代々の溜詰を「定溜」、「常溜」、「代々溜」などと呼び、会津松平家、彦根井伊家、高松松平家の三家が詰めた。一代に限り溜間に詰める大名家を「飛溜」、老中を永年勤め退任した大名の前官礼遇で一代限り溜間の末席に詰める「溜詰格」があった。
溜詰では老中と諸役人との用談や評議場に用いられ、重要事に同席するには幕閣の諮問を受ける決まりであった。その定員は5名で儀式の際には老中よりも上席に着座した。その格式は非常に高く後年に飛溜の大名も代々詰め、定員が15名になるなど形骸化した。幕末には寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三奉行や諸役人の評議が溜間で行なわれ一定の権威は保たれた。
溜間(常溜)
近江井伊家/正四位上権中将/譜代/彦根城主/35万石
会津松平家/正四位上権中将/御下門/若松城主/28万石
讃岐松平家/正四位上権中将/水戸連枝/高松城主/12万石
溜間(飛溜)
出羽酒井家/従四位下侍従/御譜代侍従/鶴岡城主/17万石
播磨酒井家/従四位下侍従/御譜代侍従/姫路城主/15万石
久松松平家/従四位下侍従/御譜代侍従/松山城主/15万石
豊前小笠原家/従四位下侍従/御譜代侍従/小倉城主/15万
越後榊原家/従四位下侍従/御譜代侍従/高田城主/15万石
久松松平家/従四位下侍従/御譜代侍従/桑名城主/11、3万
奥平松平家/従四位下侍従/御譜代侍従/武蔵忍城主/10万
三河本多家/朝散太夫/溜詰格/譜代/岡崎城主/5万石
大広間席
大広間席は外様雄藩の国持大名と準国持大名の伺候席である。これら国主以外でも四品以上の官位を持つ親藩と外様大名が詰めた。このように大広間席の外様雄藩、御家門、連枝は二之間と三之間に家格順に詰め、幕府要職とは縁の少ない伺候席であった。
薩摩島津家/従四位上権中将/外様/鹿児島城主/72万石
陸奥伊達家/従四位上権中将/外様/仙台城主/62万石
美濃高須松平家/従四位上権中将/尾張連枝/無城/3万石
伊予西条松平家/従四位上権中将/紀伊連枝/無城/3万石
肥後細川家/従四位下権中将/外様/熊本城主大身/54万石
筑前黒田家/従四位下権中将/外様/福岡城主/47万3千石
安芸浅野家/従四位下権中将/外様/広島城主/42万6千石
肥前鍋島家/従四位下権中将/外様/佐賀城主/35万7千石
長門毛利家/従四位下権中将/外様/萩城主/36万万9千石
因幡池田家/従四位下権中将/外様/鳥取城主/32万5千石
伊勢藤堂家/従四位下権中将/外様/津城主/32万3千石
備前池田家/従四位下権中将/外様/岡山城主/31万5千石
阿波蜂須賀家/従四位下権中将/外様/徳島城主/25、7万石
土佐山内家/従四位下権中将/外様/高知城主/24万2千石
出雲松平家/従四位下権中将/御家門/松江城主/18、6万石
出羽上杉家/従四位下権中将/外様/米沢城主/15万石
対馬宗家/従四位下権中将/外様/厳原城主/10万石格
筑後有馬家/従四位下権中将/外様/久留米城主/21、8万石
出羽佐竹家/従四位下権中将/外様/久保田城主/20、5万石
陸奥松平家/従四位下侍従/水戸連枝/無城/定府/2万石
常陸松平家/従四位下侍従/水戸連枝/無城/定府/2万石
伊予伊達家/従四位下権中将/外様/宇和島城主/10万石
筑後立花家/従四位下侍従/外様/柳川城主/10万9千石
陸奥丹羽家/従四位下侍従/外様/二本松城主/10万3千石
上野松平家/従四位下侍従/御家門/前橋城主/17万石
越中前田家/従四位下侍従/外様/富山城主/10万石
播磨松平家/従四位下侍従/御家門/明石城主/10万石格
大聖寺前田家/従四位下侍従/外様/無城/10万石
石見松平家/従四位下侍従/御家門/浜田城主/6万1千石
陸奥津軽家/従四位下侍従/外様/弘前城主/10万石
陸奥南部家/従四位下権少将/外様/盛岡城主/20万石
帝鑑間席
帝鑑間は幕府成立以前から徳川家に臣従していた譜代大名が詰める席で譜代席と呼んでいた。但し、親藩や外様大名からの願いによりこの席に移った大名を「御願譜代」と呼んだ。官名の朝散太夫とは従五位以下の別称である。
大和柳沢家/朝散太夫/譜代/郡山城主/15万1千石
相模大久保家/朝散太夫/譜代/小田原城主/11万3千石
備後阿部家/朝散太夫/譜代/福山城主/11万石
下総堀田家/朝散太夫/譜代/佐倉城主/11万石
若狭酒井家/朝散太夫/譜代/小浜城主/10万3千石
豊前奥平家/朝散太夫/譜代/中津城主/10万石
美濃戸田家/朝散太夫/譜代/大垣城主/10万石
信濃真田家/朝散太夫/譜代格/松代城主/10万石
下総土井家/朝散太夫/譜代/古河城主/8万石
下野戸田家/朝散太夫/譜代/宇都宮城主/7万7千石
日向内藤家/朝散太夫/譜代/延岡城主/7万石
出羽戸沢家/朝散太夫/譜代格/新庄城主/6万8千石
深溝松平家/朝散太夫/譜代/肥前島原城主/6万5千石
松井松平家/朝散太夫/譜代/陸奥棚倉城主/6万4千石
大給松平家/朝散太夫/譜代/三河西尾城主/6万石
伊勢石川家/朝散太夫/譜代/亀山城主/6万石
信濃戸田家/朝散太夫/譜代/松本城主/6万石
近江本多家/朝散太夫/譜代/膳所城主/6万石
肥前小笠原家/朝散太夫/譜代/唐津城主/6万石
和泉岡部家/朝散太夫/譜代/岸和田城主/6万石
陸奥相馬家/朝散太夫/譜代格/中村城主/6万石
藤井松平家/朝散太夫/譜代/上田城主/5万3千石
播磨脇坂家/朝散太夫/譜代/龍野城主/5万1千石
駿河水野家/朝散太夫/譜代/沼津城主/5万石
出羽水野家/朝散太夫/譜代/山形城主/5万石
越後内藤家/朝散太夫/譜代/村上城主/5万石
形原松平家/朝散太夫/譜代/亀山城主/5万石
陸奥秋田家/朝散太夫/譜代格/三春城主/5万石
越前有馬家/朝散太夫/譜代格/丸岡城主/5万石
桜井松平家/朝散太夫/譜代/尼崎城主/4万石
久松松平家/朝散太夫/譜代/今治城主/4万石
信濃本多家/朝散太夫/譜代/飯山城主/3万5千石
遠江西尾家/朝散太夫/譜代/横須賀城主/3万5千石
上野土岐家/朝散太夫/譜代/沼田城主/3万5千石
能見松平家/朝散太夫/譜代/豊後杵築城主/3万2千石
下野鳥居家/朝散太夫/譜代/壬生城主/3万石
藤井松平家/朝散太夫/譜代/出羽上山城主/3万石
信濃諏訪家/朝散太夫/譜代/高島城主/3万石
志摩稲垣家/朝散太夫/譜代/鳥羽城主/3万石
松江松平家/朝散太夫/御家門/広瀬城主格/定府/3万石
大和植村家/朝散太夫/譜代/高取城主/2万5千石
出羽酒井家/朝散太夫/譜代/松山城主/2万5千石
近江加藤家/朝散太夫/譜代格/水口城主/定府/2万5千石
越前小笠原家/朝散太夫/譜代/勝山城主/2万2千石
大給松平家/朝散太夫/譜代/豊後府内城主/2万1千石
三河内藤家/朝散太夫/譜代/三河挙母城主/2万石
越後井伊家/朝散太夫/譜代/与板陣屋/城主格/2万石
奥平松平家/朝散太夫/譜代/小幡陣屋/城主格/2万石
陸奥本多家/朝散太夫/譜代/陸奥泉陣屋/城主格/2万石
上総保科家/朝散太夫/譜代/飯野陣屋/無城/2万石
下総水野家/朝散太夫/譜代/結城城主/1万8千石
下野堀田家/朝散太夫/譜代/佐野城主/1万6千石
伊勢本多家/朝散太夫/譜代/神戸城主格/1万5千石
三河三宅家/朝散太夫/譜代/田原城主/1万2千石
陸奥内藤家/朝散太夫/譜代/湯長谷陣屋/無城/1万5千石
近江堀田家/朝散太夫/譜代/宮川陣屋/無城/定府/1、3万
播磨小笠原家/朝散太夫/譜代/安志陣屋/無城/1万石
播磨本多家/朝散太夫/譜代/山崎陣屋/無城/1万石
水戸松平家/朝散太夫/水戸連枝/宍戸陣屋/定府/1万石
福井松平家/朝散太夫/御家門/糸魚川陣屋/無城/定府1万
松江松平家/朝散太夫/御家門/母里陣屋/無城/定府/1万
播磨丹羽家/朝散太夫/譜代/三草陣屋/無城/定府/1万石
越後柳沢家/朝散太夫/譜代/黒川陣屋/無城/定府/1万石
越後柳沢家/朝散太夫/譜代/三日市陣屋/無城/定府/1万
豊前小笠原家/朝散太夫/譜代/小倉城内/無城/新田1万石
駿河榊原家/朝散太夫/表御礼衆/無城/交代寄合/1、8千石
三河菅沼家/無位無官/表御礼衆/無城/交代寄合/7千石
久松松平家/無位無官/表御礼衆/無城/交代寄合/6千石
竹谷松平家/無位無官/表御礼衆/無城/交代寄合/4、5千石
柳間席
柳間は五位、無官の外様大名、交代寄合、表高家、並の寄合衆が詰める控席である。準国主でも五位の時は柳間に詰め、四品に昇進すると大広間に移る。
雁間詰
雁間は幕府成立後に新たに取立てられた大名で城主格の大名が詰める控席である。この雁間に詰める大名は「雁間衆」と呼ばれ、他席の大名と異なり毎日登城した。伺候席の中で唯一雁間席が正午に老中が行なう御殿巡回経路に入っており、幕閣の目に留まることで、役職に就く機会も多かった。そのため、帝鑑間から雁間への移動を願い出る大名も多かった。
菊間広縁詰
菊間広縁は幕府成立後に新たに取立てられた大名の内、無城大名の詰める詰席である。また、旗本の大番頭、書院番、小姓組両番頭、旗奉行、槍奉行など武役職の詰所でもある。
菊間
菊間は江戸幕府成立後、新たに取立てられた無城の譜代大名が詰めた。雁間大名の嫡子の席であり、父親が若年寄や奏者番に勤務中であれば嫡子は菊間に詰めた。また、譜代、親藩大名が創設した支藩の当主も菊間に詰めた。
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江戸の繁華街「市中引廻7」を歩く
http://wako226.exblog.jp/242082025/
2024-02-05T14:31:00+09:00
2024-02-15T19:49:21+09:00
2024-02-05T14:31:13+09:00
watkoi1952
定例会散歩開催のお知らせ
大江戸歴史散歩を楽しむ会
開催のお知らせ
江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。
テーマ:第13回 江戸の繁華街「市中引廻7」を歩く
開催日:令和6年2月14日(水)
終了しました。次回の開催は2月28日です。
「忠臣蔵 吉良邸から泉岳寺を歩く①」
集合場所:銀座線・都営浅草線・東武線「浅草駅」下車
雷門の右横スペース
開催 時間:受付12時30分~午後1時出発~5時00分
ガイド:渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)
参加費1名:2、000円
申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスに申込み下さい。
懇親会:午後5時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。
荒天順延:中止の場合は前日までにブログの頁に掲載お知らせします。
主要順路:風雷門→浅草観光センタ-→展望テラス→吾妻橋→奥州街道→ 齣形堂→厩橋→駒形どぜう→蔵前小学校(漱石碑)→浄念寺→ 西福寺→鳥越神社→甚内橋→甚内神社→松浦蓬莱園→浅草見附 →柳橋→神田川河口→元柳橋→薬研堀→不動院→順天堂発祥地 →鞍掛橋→竹森神社→伝馬町牢屋敷→小伝馬町駅
連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140
メルアド: watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ
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秋葉原の地名と秋葉大権現
http://wako226.exblog.jp/242066134/
2024-01-28T14:04:00+09:00
2024-02-25T10:10:11+09:00
2024-01-28T14:04:14+09:00
watkoi1952
江戸学よもやま話
秋葉原の地名と秋葉大権現
世界屈指の電気街「秋葉原」、通称「アキバ」の地名由来となった秋葉神社の歴史を繙いて見よう。それは、明治2年(1869)12月12日、神田相生町20番地の塗師職人の金次郎宅から出火して、外神田の近隣八町1、100戸が焼失した延焼大火に始まる。この相生町大火の惨状を憂慮した江戸城西ノ丸に入城間もない英照皇太后(孝明天皇妃)が明治天皇に火防の祈願所の設置を進言したという。
明治天皇の勅命で太政官は発足まもない東京府に下命、相生町の出火地一帯に延焼をくい止める火除明地(9、000坪)の設営を決め、住民に保証を与え立退かせた。明治3年(1870)10月、江戸城紅葉山に鎮座していた秋葉神社に新たに三祭神(火産霊大神・水波能売神・埴山毘売神)を祀り、神田相生町一帯に設けた火除明地に移築遷座したのである。地図には鎮火神社と秋葉の原と記されている。
江戸城紅葉山の秋葉神社
明治元年(1868)4月11日に江戸城は平和裡に明治新政府軍の先遣隊に明け渡された。天正18年(1590)8月1日、家康の江戸入府以来、江戸城は実に278年間で徳川家の手を離れたのである。15代将軍慶喜は謹慎中であり、徳川家達が徳川宗家16代当主に任命され家督を継いた。江戸城紅葉山には初代家康の東照大権現、二代台徳院から歴代将軍の霊廟が鎮座している。
家康の月命日には紅葉山東照宮へ「お宮御社参」という幕府の公式行事が270年間に及び励行されてきた。明治元年(1868)12月19日、明治新政府は16代徳川宗家の家達に紅葉山の歴代霊廟の撤去を命じて、徳川家の痕跡を全て消し去った。紅葉山東照宮の石造鳥居は上野東照宮の参道に移設した。だが、家康の地元の浜松秋葉神社から勧請した火防の神を祀る秋葉神社の小洞は、その由来が不明なのか取り残されていた。
神仏習合と神仏分離令
明治新政府は王政復古や祭政一致を唱え、明治元年(1868)3月13日に青天霹靂の如く神仏分離令が発布された。それまで、千年の歴史を有する日本古来の自然崇拝の神道と渡来仏教との神仏習合の時代であった。八百万の神々を依代とする神官が仏に救いを求め、仏教が主体で神道は従属する立場となった。
神道の八百万の神々は、様々な仏教の仏や菩薩が衆生を救うために化身して、日本の地に「権現」の神号として現れた。つまり、火防の秋葉神は仏の仮の姿で「秋葉権現」と呼ばれた。神仏習合の神社には神宮寺や別当寺が付属して、祭祀を行なうのは神主だが、神社の経営全般を統括したのは付属寺院の僧侶で社僧や別当と呼ばれていた。
明治の神仏分離令では寺社から社寺へ地位が逆転する過激な廃仏希釈が行なわれ、神道が国家の中心思想となった。その立場上、皇居内の紅葉山に神仏習合の権化である秋葉大権現の存在はあってはならない極秘物件であった。霊山秋葉山に、和銅2年(709)元明天皇の勅命により社殿が築かれ創建された歴史があり、破却も出来ず、その移設先に苦慮していた。
そこに神田大火跡地の火除明地に秋葉神社を移転する絶好の機会を得たのである。しかも、宮中では歴代天皇の位牌や仏像に仏画類をどうすべきか論争になっていたが全て破棄された。神仏習合の秋葉神社の社名で新政府が移設すれば、神仏分離政策は崩壊しかねない非常事態であった。
鎮火神社の遷座創建
そこで全国の神祇や祭祀を統括する神祇官は、神道で祀る神々は記紀神話に登場する由緒正しい鎮火三神を祭神とする鎮火神社(鎮火社)と命名して移築遷座した。東京府を代表する火災鎮護の祈願所として、入口に鳥居と中央東に社殿を築いて火防の「鎮火神社」として創建したのである。明治6年(1873)1月、鎮火神社は江戸の総鎮守である神田神社の兼務社となる。さらに、同年8月に東京府郷社に格上げして社格を整え、東京の火災鎮護の祈願所として崇敬を集めるよう配慮した。
明治新政府は、江戸時代に「神田明神」が神格化した平将門の祭神を朝廷の反逆者として降下させ「神田神社」と改めている。明治7年(1874)に火除明地の住所を「神田花岡町」と改めるなど順調に推移していた。ところが、地元庶民は鎮火社として創建した神社を江戸で火防の神で信仰を集めていた秋葉信仰の「秋葉大権現」を当然の如く勧請したと想い、秋葉様、秋葉さんと親しみを込めて呼び慣わしていた。それが一般に広く流布していたにも拘わらず何故か、新政府役人や創建した東京府に命名した神祇官すら誰一人、秋葉様でなく鎮火神社が正式名称であると異論を唱える者はいなかった。
つまり、江戸から東京において、「火防の神」と言えば、広く民衆の信仰を集めた遠州「秋葉大権現」または、京都「愛宕権現」の何れかであって、唐突な「鎮火神社」など知る由もなかった。江戸の譜代大名屋敷内には家康ゆかりの浜松秋葉神社から分祀した秋葉神社が鎮座して、大名火消の火防の神として信仰を集めていた。明治になると国元に帰った大名屋敷内の秋葉神社は近隣の町の「火難除けの神」として引き継がれている。
秋葉詣と秋葉講
五代将軍綱吉の時代(1646~1709)には、火事に怯える江戸庶民に火防の神として「遠州秋葉詣」が盛んになり、秋葉山への参詣道は秋葉街道と呼ばれた。また「秋葉講」が大流行、伊勢詣を凌ぐ秋葉信仰が絶大な人気を博していた。しかし、江戸時代の庶民にとって秋葉詣の旅費は負担となった。そこで、宗教的な互助組織の「秋葉講」を各地域で結成して講金を積み立て、籤引などで選出された代参者が交代で霊山秋葉山に参詣した。
代参者は秋葉山頂の本宮で江戸の町々の火防安全を祈願して霊験を新たに帰郷した。当然、秋葉山の御守や御土産に道中土産話は代参者の務めであった。そこで地元の神田花岡町の火除明地の鎮火神社広場を「秋葉の原」や「秋葉っ原」と呼ぶようになり、現在の秋葉原の通称「アキバ」の語源となった。
秋葉山本宮秋葉神社
静岡県浜松市春日野町の秋葉山の標高866mの頂上に上社の秋葉山本宮秋葉神社が鎮座し、南東山麓には下社が鎮座する。秋葉山は天竜川左岸の赤石山脈が平野に下る間際に屹立する霊山である。全国秋葉神社八百社の総本宮で秋葉神社と呼称する。御祭神は火の主祭神である「火之迦具土大神」、御神徳は火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を払い除く火防開運の神として信仰されている。
秋葉山は御神体山であり、その霊山の神様を神道、仏教、修験道の三者がそれぞれの信仰と儀礼でお祀りする修行の場であった。平安鎌倉時代の神仏習合で神道と仏教が融合して江戸時代まで秋葉大権現を祀る秋葉神社と聖観音を本尊とする秋葉寺が併存し、修験者三尺坊が護神とされていた。明治の神仏分離令で権現号と秋葉寺は廃され、秋葉神社は愛宕神社と同じ神道の「火之迦具土大神」を祭神としている。
彦根藩三代藩主の井伊直孝は、秋葉山本宮の山頂で武田赤備え隊が井伊家に従属する忠誠を誓った地に金銅製の「黄金の鳥居」を寄進した。直孝は大阪の陣の武功により三十万石に加増され、徳川幕府譜代大名の筆頭となる。
浜松秋葉神社
永禄13年(1570)徳川家康は浜松城入城の際に浜松城に近接した丘陵地に霊山秋葉山より勧請して「浜松秋葉神社」と命名した。その建立地は家康の長女亀姫が正室となった奥三河を支配する家臣奥平信昌の屋敷地であった。家康はこの浜松秋葉神社を江戸城紅葉山に分祀したのである。
信長と家康による武田家滅亡で最強の赤備え武田騎馬隊の多くが家康の重臣井伊家に従属するため、秋葉山山頂で忠誠を誓った。その「信玄衆誓詞」の起請文が浜松秋葉神社に奉納され、「井伊の赤備え発祥の地」となった。それ故に徳川家の武勇躍進の礎となった重要な神社であった。
江戸の神田火事はなぜ延焼大火になるのか
宝暦10年(1760)2月6日の「宝暦の大火」は、神田旅籠町(外神田1丁目)の明石屋足袋店から出火した。文政12年(1829)3月21日の「文政の大火」は神田佐久間町の材木置場小屋の失火で、折からの北西強風で江戸の中心街に延焼し、37万軒焼失2、800人の焼死者を出した。佐久間河岸の地名は江戸城普請の際に大量の材木を供給した豪商「佐久間平八」に由来する。神田川の北側が佐久間河岸、佐久間町、和泉町と街並みが続いている。和泉町や和泉橋の名称は、築城名人藤堂和泉守高虎の上屋敷1万5千坪に由来する。
天保5年(1834)2月7日の甲午火事と呼ばれる「天保の大火」では神田佐久間町二丁目から出火、強風による飛び火で各方面に延焼した大火の焼死者は4、000人に及ぶ大惨事であった。「またも火元は佐久間町」か、度重なる出火に江戸中を恐怖に陥れ、大火の出火元の佐久間町は、「悪魔町」と呼ばれるほど怖れられていた。
幕府もこの地に対し厳しい措置を取り、火元となる可能性のある地域は替地へ、材木置き場は深川方面へ移転させた。その跡地に延焼を防ぐ「火除広道」を和泉橋から筋違橋までを火除明地とした。そして、明治2年(1869)12月2日の「神田相生町の大火」で11町の建物1100戸を延焼した時にも「また佐久閒町の出火か」と江戸市中で噂が一人歩きしたほどである。
この地域は江戸から火事延焼が同一地域で何度も発生した。当然、火除明地になるが数年して地元民が陳情、また家並が建つと火事を繰り返してきた。一軒の火元から数軒に広がると町火消の活躍でくい止める。しかし、この低層住宅区域で出火すると遮るものがない熱風が本郷台の急斜面に上昇気流が発生して、海抜3~4mから海抜22mまで一気に上昇して、瞬く間に数十軒に延焼する。しかも、隅田川から神田川の水面を障害もなく滑るように走る風で酸素は絶え間なく火事に供給される。さらに寒冷期の北西風が加わり、烈風吹き荒ぶ季節の火事が延焼大火になるのである。
鎮火神社の遷座と秋葉原貨物専用駅
明治17年(1884)には神田花岡町の鎮火神社境内の広場に大道芸、見世物小屋などの興行や飲食屋台、貸自転車、貸馬のある行楽地の賑わいであった。前年の明治16年日本初の私鉄「日本鉄道」が上野駅~熊谷駅間(JR高崎線)に鉄道を開設した。上野駅では生糸や米穀など貨物の増加に伴い、神田花岡町の火除明地に貨物専用駅を延伸させ荷捌する計画を発表した。
明治21年(1888)7月、貨物駅設置のため、東京府から火除明地は日本鉄道に払い下げられた。同年、秋葉が原の鎮火神社は替地として、下谷区入谷町(台東区松ヶ谷3-10-7)に遷座した。昭和5年(1930)には、政府が懸念した神仏分離は人々に忘れられ、火鎮神社を元の秋葉神社と改めたのである。庶民の想い込みから「秋葉原」の地名が生まれ、神社の社号も本来の「秋葉神社」に変わるが三祭神を変える事はなかった。
東北や信越の玄関口である上野駅では、旅客と貨物を共に扱っていた。しかし、年々貨物量が増加の一途を辿り、集荷と配達の荷車が犇めき合い周辺の狭い道路に渋滞が広がった。これに対応するため、旅客と貨物の分離計画を推し進めた。上野駅の南に9千坪の火除明地があり、神田川の水運利用が決め手となった。神田川から引込水路に船荷溜を築き、明治23年(1890)秋葉原貨物取扱所駅は開業した。
大正14年(1925)山ノ手線上野駅~東京駅間の高架線開業と同時に「秋葉原駅」として旅客営業を開始した。この「あきはばら駅」の命名から秋葉原の地名の呼称が「アキハバラ」に統一された。昭和7年(1932)に御茶ノ水駅~両国駅間が延伸され、総武線は秋葉原駅で山ノ手線と、御茶ノ水駅で中央線と連絡した。船運はトラック運送になり、昭和38年(1963)引込水路と船溜は埋立てられた。昭和50年(1975)に秋葉原貨物駅の営業は廃止された。
神田佐久間町と防火守護地の物語
「またも出火は佐久間町か」と江戸中を恐怖に陥れた佐久間町の住民は、町の忌まわしい過去を払拭するために火の元と火の始末には殊の外気配りした。他の町よりも辻々に多くの天水桶を置き火の用心に努めた。長老たちは「何があってもこの町から火を出してはならない」と戒めた。毎晩の見廻りと火災訓練も励行していた。
その最中の大正12年(1923)9月1日11時53分M7.9 の関東大震災が発生した。明暦の大火(明暦3年(1657)3月2日~4日)以来の大惨事である未曾有の大火となった。初期消火は消防隊に地域住民が協力して消火したが、昼過ぎからの火災は強風に煽られ短時間に燃え広がった。延焼の火に追われた町では、警官の誘導で隅田川を渡り本所方面に続々と避難した。
佐久間町界隈も浅草方面より火の手が迫り、避難を始めようとした矢先に神田川に架かる和泉橋と美倉橋に町内会長や町の有志が立ち「この町の者は逃げてはならない桶やバケツを持って集まれ」と呼びかけた。これまで語り継がれた火防の戒めを思い起こした住民は呼びかけに即応した。
高齢者や体の不自由な方や子供達には在郷軍人が付き添い上野公園へ避難させた。東京市は警視庁消防部と傘下の市部消防部で組織されていた。市部消防隊は江戸の町火消の流れを汲む鳶職人で構成された予備消防員であった。東京市の主要装備は消防車38台、市部消防部には消火栓直結のホ-スが配備され、市中の全域に消火栓を持つ水道は整備されていた。
しかし、地震で全て損壊断水して市部消防体制の100万都市は一挙に無力化した。そこに神田和泉町界隈を管轄する万世橋消防署の消防隊は、あろうことか命令で地元を放棄して日本橋区へ出動してしまった。だが、和泉町には前年に「和泉町ポンプ所」が建てられており、佐久間町の人々はその貯水や神田川の水を汲み上げ、瓦の落ちた屋根に火が付くとバケツリレーで消火した。
それでも風に煽られ猛烈な速度で火勢は迫ってくる。近隣の病院と会社が自衛用に備えていた2台の消防ポンプを借り、迫り来る地域に配備して放水で火勢を弱め、そこに皆の協力でバケツリレーで消火した。ポンプ車のガソリンは住民が手分けして必死で集めながら消防力を維持し続けた。近隣企業の社員も加勢し、それら不燃ビルや煉瓦塀に石造倉庫などが防火壁となって火勢を弱める働きをした。
さらに布団やムシロを濡らし数人掛かりで叩き消し、濡らした布を棒先に取付けた火叩きで飛び火を迎え撃った。延焼の勢いを止める防火帯を造るため、住宅を引き倒す破壊消防で防ぎ、彼らは怯むことなく一晩中火と闘い続けた。しかし、翌2日目には蔵前の方から火が猛烈な勢いで迫り、火災旋風が巻き起こった。夜通し闘い続け疲れ果てた頃、怖れていた事が起こった。
佐久間町の中央にある佐久間小学校二階建て木造校舎の屋根に飛び火が付いたのだ。皆は小学校が燃えたらこの町はもう駄目だと思ったそのとき諦めない人達がいた。それは卒業生や中学生達が自分たちの小学校が燃えていると聞き続々と集まってきたのだ。自分たちでバケツリレーを始め、二階の机や椅子を積み重ね天井と屋根を破り、強風で煽られた屋根上の火を必死に消し止めた。
彼らの危険に怯まない必死の消火活動を見ていた人達も一人、二人と列に加わり、最終的に二百人を超える人々が母校の火災に立ち向かった。大勢の力が結集され、必死の消火活動が功を奏して、9月2日午後6時頃に鎮火した。町の人達が一致協力して町を守り抜いたのだ。9月3日の朝、見渡す限り跡形もなく燻り続ける焼け野原の中で、神田佐久間町と和泉町などの町だけの建物が焼残ったのである。
町の人々の働きで佐久閒河岸米蔵の13、000俵が焼け残り、震災後多くの人命を救うことになった。神田佐久間町と和泉町の焼け残った町のことが伝えられ「関東大震災の奇跡」と呼ばれた。そして、ついに佐久閒町は悪魔町の汚名を払拭したのである。昭和14年(1934)東京府はこの地域一帯を範とすべきと「町内協力防火守護之地」と命名して町の人々の心意気を称えた。
皆で守り抜いた佐久閒町小学校跡地の佐久閒町公園に鎮座する「防火守護之地」の石碑は、逃げる防災だけでなく、安全が確保できた元気な人は不条理な災害と闘う勇気も必要であると教示している。全ての防災対策や危機管理は緻密な事前対策が必要である。明日は我が身に災害が降りかかる。多くの犠牲を払って得た教訓を活かすのは残された者の責務であろう。
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江戸の繁華街「市中引廻6」を歩く
http://wako226.exblog.jp/242049140/
2024-01-16T19:00:00+09:00
2024-01-31T18:54:30+09:00
2024-01-16T19:00:46+09:00
watkoi1952
定例会散歩開催のお知らせ
大江戸歴史散歩を楽しむ会
開催のお知らせ
江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。
テーマ:第12回 江戸の繁華街「市中引廻6」を歩く
開催日:令和6年1月24日(水)
今回は終了しました。次回は2月14日(水)です。
集合場所:「JR上野駅」不忍口や広小路口を出て右方向の
「上野公園前交番」前 (交番のすぐ裏手に京成上野駅の入口)
開催 時間:受付12時30分~午後1時出発~5時00分
ガイド:渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)
参加費1名:2、000円
申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスに申込み下さい。
懇親会:午後4時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。
荒天順延:中止の場合は前日までにブログの頁に掲載お知らせします。
主要順路:上野公園前→黒門→あゝ上野駅歌碑→高岩寺→台東区役所→ 浅草通り→永昌寺→法善寺(江戸名所図会)→源空寺(伊能 忠敬)→秋葉神社→合羽橋道具街→東本願寺→等光寺(啄木) →清光寺→雷門→江戸通り→言問橋西→今戸橋→待乳山聖天 →猿若町→浅草寺→浅草駅→17:00
連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140
メルアド: watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ
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皇居本丸の皇室御殿「呉竹寮」
http://wako226.exblog.jp/242040002/
2024-01-07T14:14:00+09:00
2024-01-10T09:13:34+09:00
2024-01-07T14:14:03+09:00
watkoi1952
皇居の歴史景観
皇居本丸の皇室御殿「呉竹寮」
皇居内の旧江戸城天守台前の大芝生中央には、昭和天皇の皇女である内親王の三方の居住する御殿「呉竹寮」があった。当時の皇室の慣習に従って、学齢期にご両親のお住まいから離れて居住・学習される住居用の建物である。昭和天皇と香淳皇后は手許での養育を希望していたが、皇室の自立させる慣習などもあり、両親の元を離れて居住学習の場が必要となった。姉妹で一緒に住んで何時でも両親に会えることが可能かどうか、天皇が侍従に尋ねたことで隣接した旧本丸の宮殿敷地内に建設が決まった。
昭和6年(1931)12月7日に建設が始まり、翌7年3月18日に竣功した。建坪480坪の純和式平屋建て二棟からなり、10畳と8畳と次の間付の居間、20畳の遊戯室に食堂、寝室が用意された。翌4月4日には、明治42年(1909)に明治天皇の御製した和歌に因み「呉竹寮」と命名された。4月6日に昭和天皇と香淳皇后の第1皇女の照宮成子内親王が呉竹寮に入居した。4月9日には呉竹寮から女子学習院に通学した。
御製とは歴代天皇の詠んだ和歌のみを「御製」と呼んでいる。宮中歌会始で皇后の詠んだ和歌を御歌」、他の皇族の方の詠んだ和歌を「お歌」と使い分けている。平安朝中期に内裏庭上に植栽された河竹と呉竹は和歌に詠まれている。この両竹について、僧兼好は「呉竹は葉細く、河竹は葉広し、御溝(清涼殿)に近きは「河竹」、仁壽殿の方に植えられたるは「呉竹」なり」と記され、何れも台に植えられている。
昭和25年(1950)の「宮中歌会始」
御製「いかならむ ことある時にも うつせみの 人の心よ ゆたかならなむ」口語訳、いつ、いかなる思いがけぬ異変がおきても、この世の中の人々の心は、あわてふためくことなく、広く豊かでありたいものだ。
御歌「人はただ すなほならなむ 呉竹の 世にたちこえむ ふしはなくとも」口語訳、人は何よりもただ、まっすぐに素直な心で生きてゆきたいものです。たとえ、あの竹のように世の困難に耐える節はなくても。
呉竹寮での三姉妹、左より順宮厚子内親王(池田厚子)、照宮成子内親王(東久邇成子)、孝宮和子内親王(鷹司和子)
土曜日の午後には、昭和天皇・皇后が呉竹寮を訪問し、日曜日の午後には成子内親王が宮城を訪問して、家族の時間を持った。成子内親王は宮城に宿泊することはなかったが、例外として昭和11年(1936)2月28日の唯一の宿泊は2、26事件の避難であった。天皇の神格化が進む時代であった昭和17年(1936)女子学習院中等科5年生は「反省録」を記し、担任教師の指導を受けていた。成子内親王は10月26日付で、次のような反省録を記している。
「私はどういうめぐり合わせか高貴な家に生れた。私は絶えず世間の注視の中にある。いつどこにおいても私は優れていなければならない。私は皇室を背負っている。私の言動は直に皇室に響いてくる。どうして安閑としていられよう。高い木には風当たり易い。それなのに高きにありながら多くの弱点をもつ自分を見るとき、この地位にいる資格があるか恐ろしくなる」秋元書房「皇女照宮」
昭和34年(1959)4月10日のご結婚当日、呉竹寮は潔斎所およびお召し替場として使用された。美智子妃は十二単に着替えられ呉竹寮から宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)の後方にある綾綺殿に向かわれる途中である。
綾綺殿は天皇が三殿の神事の時、斎戒・更衣に使用される。
昭和39年(1964)に呉竹寮の建物は解体され、皇居内の各所に移築された。半蔵門内の「林鳥亭」では皇室の集会所として使用された。賢所に隣接した「東宮妃殿下潔斎所」、紅葉山下の「女官潔斎所」、宮内庁分室「旧桂宮御仮寓所」として有効活用されている。
江戸城本丸の午砲台
皇室御殿「呉竹寮」が建てられる前の本丸芝生地に、時報を知らせる午砲台があった。明治4年(1871)10月22日旧江戸城本丸の中程に陸軍近衛師団が空砲による時報を開始した。正午の空砲音は東京市15区内に聞こえ、「ドン」と呼ばれて人々に親しまれていた。日本各地に配置した午砲台の「ドン」は、仕事や授業が午前中に終わる「半ドン」の由来も昔話となった。
「江戸東京たてもの園に移設した午砲台」
午砲台の運営は海軍兵学校など転々とするが、大正11年(1922)9月15日この日限りで陸海軍は経費節減のため撤退した。東京市が業務を引き継ぎ、東京市報時所となる。しかし、昭和4年(1929)5月1日に空砲による時報を終了した。これまで午砲の音で時計の針を正午に合わせていたが、時計の精度が上がったことによる。午砲は江戸東京たてもの園に移設展示されている。この後に皇室御殿「呉竹寮」の建設が計画された。
「午砲跡跡碑」の左方向に天守台石垣がが見える。
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江戸の繁華街「市中引廻5」歩く
http://wako226.exblog.jp/242037778/
2024-01-04T09:42:00+09:00
2024-01-09T12:37:08+09:00
2024-01-04T09:42:45+09:00
watkoi1952
定例会散歩開催のお知らせ
大江戸歴史散歩を楽しむ会 開催のお知らせ
江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。
テーマ:第11回江戸の繁華街「市中引廻」を歩く
開催日:令和6年1月10日(水)
受付は終了しました。次回は開催は1月24日です。
集合場所:「JR飯田橋駅」東口改札を出て歩道を左に30m 先の左側、または各地下鉄の乗換地下道B5出 口エスカレータで集合場所に出ます。
開催 時間:受付12時30分~午後1時出発~5時00分
ガイド:渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)
参加費1名:2、000円
申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスに申込み下さい。
懇親会:午後4時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。
荒天順延:中止の場合は前日までにこの頁に掲載お知らせします。
主要順路:飯田橋駅東口→五叉路→小石川庭園側道→水道橋→藤田東湖碑 →白山通→壱岐坂→本郷通→お茶の水橋→明治大学博物館刑事 部門→聖橋→神田明神→江戸神社→本郷通り→春日通→麟祥院 (春日局墓所)→湯島天神→切通し→湯島→池之端→上野広小路 →上野公園前17:00
連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140
メルアド: watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ
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徳川家の譜代大名
http://wako226.exblog.jp/242037250/
2024-01-03T14:15:00+09:00
2024-01-08T14:19:11+09:00
2024-01-03T14:15:53+09:00
watkoi1952
徳川将軍家と諸大名家
徳川家の譜代大名
譜代大名の創始
譜代とは「譜第の臣」というように、数代にわたり主家に仕える家系で、家政にも関わってきた家臣のことである。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると世間から激しく非難される戦国の世であった。譜代大名の創始は、豊臣政権下で家康が関東に移封された際に、万石以上の譜代の大身に関東諸城と大名格を与え、徳川家を支える藩屏としたことに由来する。家康は拝領した関東七国(伊豆・武蔵・相模・上野・上総・下総・下野半国)の知行割当で「譜代の将は敵が攻めてくる国境に配置する」と定めた。
例えば、上野箕輪の井伊直政(十二万石)や沼田の真田信幸は北の越後上杉、信濃真田に備えさせ、館林の榊原康政(十万石)や矢作の鳥居元忠(四万石)は常陸の佐竹に睨みを利かせた。上総大多喜の本多忠勝(十万石)は安房の里見に対する備えであった。北条地盤であった小田原の大久保忠世(四万石)、伊豆韮山の内藤信成、津久井の青山忠成、相模玉縄の本多正信などの中堅に委ねた。
大身ほど江戸から遠い領地を拝領し、小身は一夜泊りの距離に置いた。家康が入府して最初に命じた江戸城を護る家臣団の大番組の駐屯地が麹町の番丁である。また、中堅の旗本や馬廻諸隊は江戸周辺に知行地を与え、屋敷を江戸城外郭の内外に置いた。これら譜代大名以外の家臣は徳川将軍家の直轄軍に編成され、直参旗本や御家人となった。
親藩・譜代・外様
江戸幕府を開いた家康は諸大名を統制するため、家康の子を祖とする徳川御三家などの御一門を「親藩大名」、代々徳川家の家臣に仕え関東諸国で新たに大名となった「譜代大名」、関ヶ原の戦い後に臣従した「外様大名」の三種に分類した。織豊時代に仕え、徳川家康と同列の立場にあった大名は譜代とされず、外様大名となって遠隔地に転封させた。幕府は安定政権を築くため、外様大名に隣接して親藩大名や譜代大名を配して監視させ、参勤交代では外様と同時に江戸在府にさせず、有事に備えて国許に残る譜代大名を置いた。
徳川将軍家にとって、なんといっても信用できるのは、同郷でともに戦ってきた譜代大名である。江戸の泰平の世にも藩併として、政治に軍事によく徳川宗家を盛り上げてきた。幕閣の老中や若年寄の要職を務め、譜代大名以外からは要職に登用しない慣行が不文律として厳格に守られた。家康の男系親族家の親藩の者であれ、幕府要職に就任させず、外様の大藩を政治顧問として幕政に参与させない。これが徳川政権の顕著な特徴であった。また、江戸城主要門の多くは譜代大名が警護し、殿中の祝日には、将軍よりまず譜代大名が盃を賜った。
江戸幕府は将軍家の家政機関であるため、幕政を司る老中が政策を決め、若年寄が老中を補佐する。寺社奉行は全国の寺院と神社を管理、京都所司代は朝廷の監視と京都の警備、大阪城代は大阪城主として西国の外様大名の監視にあたる。これら幕府要職に就任する権利は、将軍の側近としての役割をもつ譜代大名に限られていた。
松平宗家九代の安祥・岡崎・駿河譜代
松平宗家は、三河国松平郷の初代親氏、二代泰親(親氏の弟)、三代信光(親氏の二男)、四代親忠(信光の長男)、五代長親(親忠の長男)、六代信忠(長親の長男)、七代清康(信忠の長男)、八代広忠(清康の長男)、九代家康(広忠の長男)である。徳川家康の男系男子の子孫が始祖となる御三家・御三卿などが親藩である。家康の祖父清康の時代までに分家した男系親族が十八松平家で、譜代大名になった者は親藩でなく御一門と呼ばれた。
即ち、御三家、御三卿に次ぐのが御一門である。家康の異父母家系の久松松平家も親藩でなく譜代大名の御一門である。例えば、親藩の田安徳川家に生まれた松平定信は、陸奥国白河藩の久松松平家の養子になり、譜代大名として老中になり寛政の改革を断行している。松平宗家初代親氏から九代家康に臣従した時期を最古参から三分割した譜代の格式が「柳営秘鑑」や「三河物語」に記されている。
1、三河安祥譜代とは、
三代松平信光が額田郡岩津に居点を築き、親忠・長親・信忠までが安祥城に在城したときの七家臣を「三河安祥譜代」と呼んでいる。松平家最古参の家臣団であり、初代親氏の子・広親に連なる筆頭家臣の酒井・大久保・本多・阿倍・石川・青山・植村の七家である。
2、三河岡崎譜代とは、
七代清康が山中、岡崎を攻略した以降の家臣を「三河岡崎譜代」と呼んでいる。井伊・榊原・鳥居・戸田・永井・水野・内藤・安藤・久世・井上・阿倍・秋元・渡辺・伊丹・屋代・平岩の十六家が挙げられている。
3、駿河譜代とは、
駿河領国以後の家臣を「駿河譜代」と呼んでいる。板倉・太田・松平(伊豆、左京、備中)・西尾・上屋・森川・藤堂・高木・堀田・牧野・奥平・岡部・小笠原・朽木・諏訪・保科・土岐・稲垣・丹羽・三浦・遠山・加賀爪・内田・小堀・西郷・京極・毛利・山口・柳生・脇坂・奥田・堀・那須である。
譜代大名の最高家格「酒井家」
松平家の祖となる初代親氏は、三河国加茂郡松平郷の松平信重の婿養子となる。清和源氏新田氏流支族を名乗る親氏は、それ以前に同国幡豆郡坂井郷の領主であった酒井忠則の入婿となり、広親を生んだ妻は早世する。親氏は坂井郷を離れ松平郷に移り、松平家当主となった。後に坂井郷に出向き成長した実子の広親と対面した。しかし、松平家の家督を相続した以上、長男とは言えず雅楽頭を名乗らせ、元妻の姓の酒井雅楽頭広親と命名した。そして、松平家第一の家臣として忠勤に励めと命じた。
譜代の名門「左衛門尉家」と「雅楽頭家」
松平家の家臣となった広親は妻との間に三人の男児が生れ、長男の氏忠は「左衛門尉」を名乗り、左衛門尉家の菩提寺は大樹寺回向院である。次男は祖父親氏が連れて松平郷の六所神社の世襲宮司家とした。三男の家忠は「雅楽頭」を名乗り、菩提寺は龍梅院である。戦国期に松平宗家と共に左衛門尉酒井家と雅楽頭酒井家は勢力を広げ、譜代大名の徳川四天王として筆頭家格の門閥譜代層を築き一族から多数の老中や大老を排出した譜代の名門である。
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粋な江戸の坂「神楽坂」を歩く
http://wako226.exblog.jp/242017474/
2023-12-19T08:04:00+09:00
2023-12-26T12:12:53+09:00
2023-12-19T08:04:15+09:00
watkoi1952
定例会散歩開催のお知らせ
大江戸歴史散歩を楽しむ会
開催のお知らせ
江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。
テーマ:第10回 粋な江戸の坂「神楽坂」を歩く
開催日:令和5年12月27日(水)
受付終了しました。次回は令和6年1月10日です。
集合場所:「飯田橋駅」B3出口より神楽坂通り上「毘沙門
天・善国寺境内」です。東西線「神楽坂駅」と
大江戸線「牛込神楽坂駅」より7分
開催 時間:受付12時30分~午後1時出発~4時00分
ガイド:渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)
参加費1名:2、000円
申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスに申込み下さい。
懇親会:午後4時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。
荒天順延:中止の場合は前日までにブログの頁に掲載お知らせします。
主要順路:飯田橋駅→毘沙門天善国寺→料亭松ヶ枝跡→神楽坂検番→ 泉鏡花旧居→若宮八幡神社→川合玉堂旧居→古河本邸→ 大小暦・錦絵発祥地→最高裁長官公邸→太田南畝→宮城道 雄記念館→牛込城祉→光照寺→藁店坂→行元寺→黒屏石畳 料亭街横丁→飯田橋駅16:00
連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140
メルアド: watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ
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江戸の繁華街「市中引廻4」を歩く
http://wako226.exblog.jp/241989135/
2023-12-04T12:23:00+09:00
2023-12-12T07:48:04+09:00
2023-12-04T12:23:48+09:00
watkoi1952
定例会散歩開催のお知らせ
大江戸歴史散歩を楽しむ会 開催のお知らせ
江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。
テーマ:第9回江戸の繁華街「市中引廻4」を歩く
開催日:令和5年12月13日(水)
受付は終了しました。次回は12/27(水)です。
集合場所:丸内線・銀座線「赤坂見附駅」赤坂見附方面の改札口を出て左のエスカレーター上の地上フロア
開催 時間:受付12時30分~午後1時出発~5時00分
ガイド:渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)
参加費1名:2、000円
申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスに申込み下さい。
懇親会:午後5時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。
荒天順延:中止の場合は前日までにブログの頁に掲載お知らせします。
主要順路:赤坂見附駅→赤坂見附跡→弁慶橋→青山通り→大岡越前邸跡→赤坂豊川稲荷→表伝馬町→紀国坂(元赤坂)→外堀通り→真田濠→→四谷見附→市谷亀岡八幡→長延寺坂→浄瑠璃坂→闇坂→大久保通り→圓福寺→神楽坂通り→毘沙門天→飯田橋駅
連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140
メルアド: watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ
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江戸の繁華街「市中引廻3」を歩く
http://wako226.exblog.jp/241975013/
2023-11-14T17:19:00+09:00
2023-12-10T10:43:53+09:00
2023-11-14T17:19:41+09:00
watkoi1952
定例会散歩開催のお知らせ
大江戸歴史散歩を楽しむ会
開催のお知らせ
江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。
テーマ:第8回江戸の繁華街「市中引廻3」を歩く
開催日:令和5年11月22日(水)
受付は終了しました。次回は12月13日(水)です。
集合場所:都営大江戸線「赤羽橋駅」改札口
開催 時間:受付12時30分~午後1時出発~5時00分
ガイド:渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)
参加費1名:2、000円
申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスに申込み下さい。
懇親会:午後5時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。 荒天順延:中止の場合は前日までにブログの頁に掲載お知らせします。
主要順路:赤羽橋駅→有馬家上屋敷→桜田通り→外国人宿所→東京タワー (芝紅葉館)→金地院→飯倉→麻布台ヒルズ→神谷町→気象 (休憩)→虎ノ門ヒルズ→還二通り→虎ノ門新タワー→大目付 屋敷→汐見坂→米国大使館前→榎坂→溜池→赤坂→日枝神社 →みすじ通り→赤坂見附駅
連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140
メルアド: watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ
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江戸の繁華街「市中引廻2」を歩く
http://wako226.exblog.jp/241964369/
2023-10-30T18:46:00+09:00
2023-12-10T10:45:07+09:00
2023-10-30T18:46:48+09:00
watkoi1952
定例会散歩開催のお知らせ
大江戸歴史散歩を楽しむ会
開催のお知らせ
江戸東京の歴史散策に興味があり、通常の健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。
テーマ:第7回江戸の繁華街「市中引廻2」を歩く
受付終了。次回は11/22の開催です。
開催日:令和5年11月8日(水)
集合場所:JR「新橋駅」西口(烏森口) SL広場機関車前
開催 時間:午後1時出発~5時00分(休憩30分)
ガイド: 渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)
参加費1名: 2、000円
申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスで申込み下さい。
懇親会:午後5時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。
荒天順延:中止の場合は前日までにこの頁に掲載お知らせします。
主要順路:新橋駅→烏森神社→汐留川→芝口橋(新橋)→第一京浜(国道 15号)→日比谷神社→新虎通り(環状2号線)→浅野長矩終焉 地(田村屋敷)→芝大神宮→芝大門→芝離宮(休憩)→金杉橋 →三田→芝浜→田町→札の辻交差点→桜田通り→慶応大学綱坂 →イタリア大使館→赤羽橋駅
連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140
メルアド: watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ
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江戸の繁華街「市中引廻1」を歩く
http://wako226.exblog.jp/241955356/
2023-10-18T14:20:00+09:00
2023-12-10T10:45:54+09:00
2023-10-18T14:20:48+09:00
watkoi1952
定例会散歩開催のお知らせ
大江戸歴史散歩を楽しむ会
開催のお知らせ
江戸東京の歴史散策に興味があり、健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。
テーマ:第6回江戸の繁華街「市中引廻1」を歩く
終了しました。次回は11月8日(水)です。
開催日:令和5年10月25日(水)
中央区の天気:傘マークが取れて絶好の散歩日和となりました。
集合場所:日比谷線「小伝馬町駅」北千住方面行ホーム
③④改札口前(改札口を出ない手前)
開催 時間:午後1時出発~5時00分(休憩30分)
ガイド: 渡辺功一・山口能直(大江戸歴史散歩を楽しむ会)
参加費1名: 2、000円
申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスで申込み下さい。
懇親会:午後5時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。
荒天順延:中止の場合は前日までにこのブログに掲載お知らせします。
主要順路:小伝馬町駅→十思公園→吉田松陰碑⇒小伝馬町牢屋敷展示館→ 大安楽寺→伝馬町本町通→小船町→西掘留川荒布橋→江戸橋→ 日本橋南詰晒場→楓川海運橋→兜神社→渋沢栄一旧邸→東京証 券取引所(休憩)→八丁堀→松幡橋→南伝馬町→京橋→銀座二 丁目 銀座発祥地→銀座中央通り→新橋
連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140
メルアド:watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ
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赤塚城・東京大仏・高島平を歩く
http://wako226.exblog.jp/241939898/
2023-10-04T14:25:00+09:00
2023-10-18T23:06:49+09:00
2023-10-04T14:25:48+09:00
watkoi1952
定例会散歩開催のお知らせ
大江戸歴史散歩を楽しむ会
開催のお知らせ
江戸東京の歴史散策に興味があり、健脚であればどなたでも気軽に参加できる「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を開催しております。健康散歩や歴史探訪に好奇心があり、世間と折合いの付けられる、趣味を同じくする人々が集い、江戸切絵図を片手に身近な散歩を楽しみながら懇親を深めることを目的としています。定例会は第2水曜日と第4水曜日に毎月開催致します。どうぞ、お一人でお気軽にご参加ください。
テーマ:第5回 赤塚城・東京大仏・高島平を歩く
開催日:令和5年10月11日(水)
終了しました。次回は10月25日(水)です。
集合場所:都営三田線「西高島平駅」改札口(終着駅)
開催 時間:午後1時出発~5時00分(休憩30分)
ガイド: 渡辺功一(大江戸歴史散歩を楽しむ会)
参加費1名: 2、000円
申込方法:資料準備のため下記のメールアドレスで申込み下さい。
懇親会: 午後5時以降のオフ会は事前申込者限定で行います。
荒天順延: 順延や中止は前日までネットの頁に掲載してお知らせします。
主要順路:西高島平駅(終着駅)→赤塚溜池公園→板橋郷土資料館 (休憩)→赤塚城本丸祉→不動の滝→浄蓮寺・東京大仏→ 赤塚植物園(休憩)→松月院・高島秋帆大砲碑→都立赤塚 公園けやき並木→徳丸ヶ原公園(高島秋帆大砲演習地)→ 高島平駅→巣鴨駅
連絡先: 渡辺功一 携帯090-2449-3140
メルアド:watako1952@jcom.home.ne.jp 申込はコチラ
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