道三濠・伝奏屋敷・評定所


道三濠・伝奏屋敷・評定所 





道三濠


道三濠は、天正18年(1590)徳川家康が江戸入府して、最初に開削した掘割で内濠と外濠を結ぶ水路である。内濠の余水を和田倉濠の埋樋を通り、辰ノ口より落差のある道三濠へ注ぐ。東に流れ外濠に合流し、江戸城普請の建築資材や生活物資を搬入する入船水路とした。当時の平川は江戸城の東側を通って、日比谷入江に流れ込んでいた。




この日比谷入江を埋め立て、武家屋敷地とするため平川の流路を道三濠に繋ぎ外海に流した。さらに町人地の埋立てが進み、道三濠の延長水路の日本橋川から隅田川に合流する水運として発展した。道三濠や道三橋は、河岸の南に家康と秀忠の侍医を勤めた名医・曲直瀬道三の屋敷があったことに因む。道三濠は、明治42年(1909)に埋め立てられビル街となった。






伝奏屋敷(公家衆御馳走屋敷)


伝奏屋敷は、毎年2月下旬から3月上旬にかけて、天皇の名代である勅使と上皇の名代である院使などの武家伝奏衆が、将軍への年頭挨拶で江戸に下向した際の迎賓宿泊所である。この屋敷地は、高家旗本の吉良義冬の屋敷であったが、寛永12年(1635)伝奏屋敷(2530坪)の設置にともない、転居した鍛冶橋屋敷で吉良上野介が生まれている。



さて、武家伝奏役とは、朝廷に置かれた公家2名の役職で幕府との交渉にあたる。勅使の滞在中は、勅使饗応役に任命された5万石の大名が交代で幕府の儀式を司り、高家の指南を受けてその職務に当たる。元禄14年(17013月の勅使下向では、高家が吉良上野介で赤穂藩主の浅野匠頭長矩が勅使饗応役を務めた。



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御評定所


龍ノ口の御評定所は、いわば江戸幕府の最高裁判所で、政策の立案や審議も行なう機関である。寛永13年(1636)以降に確立し、老中・町奉行・寺社奉行・勘定奉行で構成され、大目付・目付が審理に加わった。大名や旗本の訴訟や、複数の奉行の管轄にまたがる諸問題の裁判もおこなった。当初は老中の屋敷で審議が行われていたが、明暦3年(1657)の大火で類焼を免れた伝奏屋敷でしばらく行われた。寛文元年(16618月、伝奏屋敷の隣接地に独立した評定所が置かれた。




広く庶民の要求や不満を聞く目安箱は、評定所の門前に置かれていた。複雑な裁判用語を見ると、幕府で行なう刑事の断罪を「公儀仕置」に対し、大名・地頭の場合は「自分仕置」という。寺社・勘定・町奉行がそれぞれ自分の一手で裁くのを「手限りもの」、復数奉行に関係する「三手掛」、五手掛の裁判を「評定物」と呼んだ。民事裁判を「出入物」、刑事裁判を「吟味物」、上級武士に限り「詮議物」といって区別した。原告は「訴訟方」で民事では「願人」という。




被告人は「相手方」で、刑事では「訴人」といった。訴状は「目安」、裁判所が被告を日時を定めて召喚する「差紙」叉は「呼出状」がある。差紙を拒めば罰せられる。呼出状はやや寛大であるが、被告に逃亡のおそれある場合は「手当呼出状」で役人に監視させた。法定における調書は、武士・神官・僧侶の「口上書」、庶民の「口書」と区別した。審理後に所管の役所から上司へ裁許を請う書類を「吟味伺書」、特に老中に提出する書類には黄付箋を付けたことで「黄紙」と呼んだ。訴訟関係者の氏名や経歴などを記録する「訴訟帖」、一件落着した裁判記録は「御仕置済帖」といった。








小普請奉行


小普請奉行とは、幕府の建物の造営や修繕を司る役所である。造営を司る役所として作事奉行があるが、小普請奉行は主に大奥、東叡山、役屋敷などの小修理を担当した。若年寄支配で、役高2千石、中の間席、定員2名である。小普請方吟味役、小普請方大工棟梁など多くの配下がいた。







作事奉行


江戸城を始め、幕府の建物、禁裏(天皇)御所、仙洞(上皇)御所、の造営や修繕を司った。老中支配で役高2千石、芙蓉の間席で定員は2名である。多くの建築資材を保管するため、道三橋の近くに広い屋敷があった。配下に京都大工頭、大工頭、畳奉行、大鋸棟梁、小細工奉行、瓦奉行、植木奉行、作事方庭作などがいた。








普請奉行


普請奉行は、寛永9年(1632)に置かれ、江戸城の石垣や濠に橋の普請、土木建築の基礎工事、さらに神田上水や玉川上水の管理運営の任にあたった。老中支配で役高2千石、芙蓉の間席、定員1名である。配下に普請下奉行、普請方改役、普請方同心などがいた。





道三橋


曲直瀬道三は、それまでの観念的な治療法を改め、実証的な臨床医学の端緒を開き、道三流医術を完成させ、日本医学中興の祖と呼ばれる。道三流医術を受け継いだ曲直瀬玄朔は、慶長18年(1613)徳川秀忠の診療のため、京より江戸に呼ばれ幕府の侍医となる。玄朔の長男が今大路道三である。今大路家の屋敷が濠の南にあり、道三が将軍の急な御召しに遅れたことで道三橋が架橋された。食後の御椀に少し残った味噌汁に白湯を入れて飲む健康法を道三汁という。








銭瓶橋


銭瓶橋は、文禄4年(1595)道三濠に初めて架橋する工事で、永楽銭の詰まった瓶が発見されたことに由来する。天正14年(1591)江戸で初の銭湯が銭瓶橋のほとりに建てられた。この地域は工事人夫で溢れていて、遊女屋や銭湯など江戸で最初の盛り場として賑わった。神田上水の余水は、銭瓶橋のたもとで道三濠に落していた。この落水を船に積み込み水道のなかった本所・深川方面に運び一荷4文で売る水屋という商売があった。この水屋を詠んだ江戸川柳に「飲み水の井戸を辰巳で漕ぎあるき」がある。






道三濠に架かる銭瓶橋の左で外濠に合流する。中央に呉服橋御門内の渡櫓門。右奥に北町奉行所が見える。


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by watkoi1952 | 2017-02-14 16:08 | 江戸の水運・船入運河 | Comments(0)