馬喰町・初音の馬場


馬喰町・初音の馬場





元弘年間(133039)頃に、奥州街道の基点となる地に豊受比売命を祀る初音森神社が創建された。現在の馬喰町靖国通り交差点あたりに位置する。天文20年(1551)初音森神社の前に初音の馬場が造成され、初午祭りには馬追いの催事で賑わった。天正日記に初音の馬場の博労・高木源兵衛預かりの記録がみえる。この江戸最古の馬場で家康が馬揃えを行なった。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の前に関東の馬産地から集めた、数百頭の軍馬の優劣を馬の鑑定人である博労が検分し、戦勝を祈願する馬揃えを行った。




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徳川幕府の江戸城拡張工事で浅草見附門建設のため、初音森神社境内地の半分が幕領地となる。馬喰町の地名は、馬の素質の良否を見分ける馬想見の専門家を博労と呼ぶ。博労は牛馬の売買や病気治療も行なう。その住居地を博労町と名付けた。正保年間(164448)に同音の「馬喰町」に改名した。




博労あるいは馬工郎の字を当てたのは、中国周代の名馬鑑定人孫陽の称号「名伯楽」で、その伯楽の中国音から転じたもので、鎌倉中期から文献に登場する。さて、明暦3年(1657)の大火で初音森神社の別当地は、関東郡代屋敷用地となり、神社は現墨田区千歳に替地を拝領し遷宮した。同時に初音の馬場も二筋の追廻馬場が縮小された。天和年間(168184)までは、流鏑馬や笠懸のできる120間の一筋馬場があった。






馬喰町馬場


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馬場の木戸入口のある東南側の五軒目に紫屋染物店がある。軒先には張板が建て掛けられ、向かいの馬場埒ぎわに沿った張り場で、伸子張りが行われている。この位置から火の見櫓を望んだ構図が廣重の名所江戸百景「初音の馬場」に描かれている。左上に浅草御門の渡櫓門の屋根が見える。





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元禄6年(1693)には、西半分が町屋になるなど縮小して、明治元年まで初音の馬場は火除明地を兼ねて存在した。この馬場で行われる馬市で隣接する大伝馬町、小伝馬町、南伝馬町で幕府の伝馬役を務める馬方に乗用馬や荷役馬が供給されていた。また、浅草観音裏手の馬場では、12月半ばに軍馬に適した南部藩の産駒三歳馬の売買が行われていた。寄騎(与力)以上の武士には、幕府の軍役規定により騎馬は必需であった。しかし、江戸で乗用馬を維持管理できない武士も多く、登城行列などには貸馬を利用した。








名所江戸百景「馬喰町初音の馬場」


江戸時代には、三種類の火の見櫓があった。幕府の武家地に置かれた定火消屋敷の火の見櫓には、中央に大太鼓が置かれ、四隅に半鐘が下げられていた。大名屋敷内の火の見櫓には、板木が備えられた。町方の火の見櫓には、半鐘が吊るされ、10町に1棟の火の見櫓を配置、火の見櫓のない町には、自身番の上に火の見梯子が建てられていた。火災が鎮火すると「ジャン」と半鐘を一度だけ叩いたことから、失敗を意味する「オジャン」という言葉が生まれた。




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近隣の神田紺屋町の染職人にも広い干場が必要で、木組みで造った屋根上の三階物干場に反物が翻っていた。幕府は享保年間(171636)に人口密集地の防火延焼対策の一環として、防火壁の塗屋造りが命じられ、3階の物干場が利用できなくなった。そこで、日除明地や初音の馬場など公共広場の一角を借用するが、町内間の利害が絡む利用権争いが絶えなかった。しかも、藍染川の汚濁水などから、神田紺屋町から江戸川(神田川)沿いなど清流のある郊外へ紺屋の染め職人の移転が進んだ。







関東代官屋敷


家康の関東入府にあたり、三河譜代の伊奈忠次を関東の代官頭に任じた。以来12200年に及び、伊奈氏が関東代官の地位を世襲した。代官屋敷は、常磐橋門内に置かれていたが、明暦の大火で初音の馬場の北東隣接地に移転してきた。寛政4年(1792)伊奈家の当主の地位を巡る御家騒動で、12代伊奈忠尊は関東代官を罷免改易された。新たに設けた関東郡代の下に3名の関東代官が任命された。文化3年(1806)の火災で、関東郡代屋敷は焼失廃止された。同年跡地に「馬喰町御用屋敷」が設置され、慶応3年(18672月に関東郡代は廃止された。







馬喰町御用屋敷図

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馬喰町旅人宿


関東代官の管轄する関八州(上野・下野・常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模)から、訪れた者の公事訴訟や裁判などの係争事を代官屋敷で裁いた。そのため、馬喰町の旅人宿に長逗留せざるを得ない人達で賑わっていた。その宿の主人や下代などは、訴訟行為を円滑に補佐することが公認されており、職業的弁護士に類似する役割を果した。役所への差紙(召喚状)の伝達や未決囚の宿預り監視の役も担っていた。





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江戸宿(旅人宿)

江戸の公事宿は旅人宿と百姓宿に分け、江戸宿と称した。



①馬喰町・小伝馬町の旅人宿は、町奉行所の所轄である。

②八拾弐軒百姓宿は、公事方勘定奉行所の所轄である。

③三拾軒百姓宿は、馬喰町関東郡代の所轄である。



それぞれ役目や権益にまつわる由緒を持ち、独占営業権を与えられた密接な関係にあった。また江戸に来た旅人や商人は治安維持のため、馬喰町の宿泊逗留が定められていた。


















by watkoi1952 | 2015-09-20 22:22 | 騎馬の歴史風景 | Comments(0)