七代将軍 徳川家継


七代将軍 徳川家継




7代将軍家継は、宝永6年(17096代将軍家宣の4男鍋松として生まれる。母は側室・お喜世の方である。父家宣は子宝に恵まれず、兄たちは次々と早世して鍋松(家継)だけが生き残り、歴代最年少の将軍となる。将軍家宣は、尾張家の徳川吉通を次期将軍にするか、または家継の後見人の吉通に政治を任せるか、病床に新居白石ら幕臣を呼び詮議を重ねた。




その結果、これまで派閥争いが繰り返されており、幕臣が御三家、御一門、譜代大名と共に3歳の家継を守り、盛り立てる。万一のことがあれば、家康公が憂慮して設けた御三家に将軍職を譲ることで決着した。正徳3年(17134月、鍋松は家継と改めて将軍宣下を受け、第7代将軍に就任した。家継は詮房や白石と共に家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革を続行した。





七代将軍 徳川家継_a0277742_1313233.jpg









絵島生島事件


大奥御年寄の絵島は、7代将軍家継生母の月光院付きで、大奥で絶大な権勢を奮っていた。正徳4(1714)112日、絵島は月光院代参で芝増上寺の家宣墓参を終えた。その帰途、風流小袖に着替え木挽町の山村座で歌舞伎を鑑賞した。その後、贔屓の歌舞伎役者生島新五郎を招いて、座元の山村長太夫宅で遊興三昧の末、大奥七ツ口の門限に遅れた。幕府は月光院代参の重責を担いながら、絵島の振る舞いは許しがたいと関係者を厳罰に処したのが「絵島生島事件」である。




絵島は山村座の観劇で二枚目役者の生島に一目惚れ、大胆にも長持ちに生島を潜ませて大奥に連れ込むほどの仲であった。当時の大奥には、家継の生母「月光院」を中心とする勢力と前将軍家宣の正室「天英院」を中心とする二大勢力争いがあり、その謀略説も浮上した。しかし、幕府評定所の決定した大奥の風紀粛正で、江島は死罪であった。




だが、月光院の取り成しで信州高遠藩内藤家預かりとなる。絵島は質素に幽閉生活を送り、60歳で没した。絵島の養父白井平右衛門は切腹、生島新五郎は石抱の刑で自白して三宅島へ流罪、29年後に赦免され翌年73歳小網町で没した。山村座主は大島へ遠島になるなど、奥女中をはじめ1400名の連座者が罰せられた大奥史上最大のスキャンダル事件となった。






新撰東錦絵 生島新五郎之話

七代将軍 徳川家継_a0277742_1416110.jpg







木挽町三座(山村座・河原崎座・森田座)


銀座通りと昭和通りの間にあった三十間堀川沿いの木挽町三座。手前の一ノ橋が埋立て前の木挽橋である。

七代将軍 徳川家継_a0277742_2043189.jpg






正徳6年(17164月、8歳の家継は急性肺炎で早世した。霊元天皇皇女吉子内親王と婚約が成立していたが降嫁に致らず。これで家光系の徳川宗家の血脈は断絶した。江戸城に家康が想定した徳川御三家より、ついに新将軍を迎えることになる。




七代将軍 徳川家継_a0277742_2002034.jpg








正徳5年(1715)家継の婚約者皇女吉子

七代将軍 徳川家継_a0277742_20215027.jpg






芝増上寺 家継(有章院)霊廟

七代将軍 徳川家継_a0277742_202330100.jpg







家継(有章院)霊廟勅額門

七代将軍 徳川家継_a0277742_14224891.jpg






家継(有章院)霊廟総門


東京プリンスホテルの正面にあった有章院霊廟総門の二天門は、現在北東隅に置かれている。享保元年(1716)家継の霊廟は、8代将軍吉宗が建立した。戦災で焼け残った二天門は、銅瓦葺き切妻造りの八脚門で、左に仏法守護の広目天、右に増長天が置かれていた。戦災で焼失した家宣(文昭院)の門には、持国天と増長天が置かれた。北御霊屋の入口の左右には四天王が祀られていた。




七代将軍 徳川家継_a0277742_0401548.jpg







徳川家霊廟内 家継宝塔

七代将軍 徳川家継_a0277742_208321.jpg






増上寺の北御霊屋図

七代将軍 徳川家継_a0277742_17543771.jpg





北御霊屋跡地の東京プリンスホテル

七代将軍 徳川家継_a0277742_17551516.jpg















by watkoi1952 | 2015-07-18 12:07 | 徳川十五代将軍 | Comments(0)