十代将軍 徳川家治



十代将軍 徳川家治




10代将軍家治は、元文2(1737)9代将軍家重の長男竹千代として、江戸城西ノ丸に生まれる。母は側室お幸の方である。父家重は病弱で幼少から祖父吉宗の期待を一身に受けていた。4歳で家治と改名して5歳で元服した。常に吉宗の膝の上に抱かれる寵愛を受けていた。吉宗は家重に伝授できなかった帝王学などの教育指導を直接おこなった。





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宝暦4年(1754)家治は、閑院宮倫子を正室に迎えた。


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宝暦10年(17605月、父家重の隠居により徳川宗家の家督を相続し、9月に第10代将軍職を継承した。家治は父家重の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中松平武元らと幕政に務めた。しかし、松平武元が死去すると、新たに老中に任命した田沼意次に幕政を任せる。自らは将棋、猿楽、書画、鷹狩など趣味の世界に没頭した。






10代将軍家治公鷹狩之図

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宝暦12年(1762)側室お知保に長男家基が生まれる。


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幻の第11代将軍家基


安永
8年(1779)長男家基は、祖父吉宗の御狩場六郷の「新井宿」で鷹狩の帰途中に立ち寄った品川の東海寺で体の不調を訴え3日後16歳で急死した。それは将軍家がオランダから輸入したペルシャ馬に文武両道に秀でた家基が鷹狩に騎乗し、狂奔した西洋馬を御し切れず落馬したと、来日中のドイツ人医師で博物学者
シーボルトが記述している。家治は自らの後継ぎが急逝したため、嘆き悲しみ憔悴とともに、紀州将軍宗家の血筋は断絶した。家基は徳川宗家の中で唯一「家」の通字を賜りながら将軍位に就けなかった人物である。




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老中田沼意次の幕政


老中田沼意次は、紀州藩士の家系で家重の西丸小姓を務め、家治の側近に抜擢された。老中田沼を中心とした幕閣は、数々の幕政改革を手掛け、田沼時代と呼ばれる幕政の実権を掌握した。しかし、重農主義から重商主義へと政策を進めたが、初期の資本主義化が社会生活での金銭至上主義となる。やがて、幕閣や役人と商人との贈収賄が横行して荒廃していった。




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この時期、都市部で蘭学や町人の文化が発展する。東錦絵の鈴木春信、解体新書の杉田玄白、狂歌の大田南畝、奇才平賀源内が台頭した。一方、利益の薄い農業で困窮した農民が耕作放棄して都市部へ流入した。これらの急激な改革は、保守的な幕府閣僚の反発を買っていた。天明4年(1784)老中田沼の長男で若年寄の田沼意知が、江戸城内で佐野善左衛門正信に刺殺される事件が起きた。




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天明6年(17868月、田沼意次は老中を解任され、2年後70歳で死去した。こうした世相の中で、明和9年(17722月、明和の大火(行人坂の火事)、天明2年(1782)~天明8年までの天明の大飢饉、天明3年(1783)浅間山の天明大噴火などの大災害が襲った。天明元年(1781)家治は一橋家徳川治斉の長男家斉を次期将軍にすべく養子に迎えた。天明6年(17868月、家治50歳は脚気による心不全で死去した。 









浅間山の天明大噴火口


天明3年(17837月、長野と群馬の県境に位置する浅間山が噴火した。この大噴火で大量の溶岩流が火砕流と土石流を引き起こしながら多くの人々を巻き込みながら吾妻川に流れ込んだ。溶岩と土石で堰き止められた吾妻川は決壊した。吾妻川流域の村々を大洪水が次々と襲いながら多くの家屋は土石流に埋没した。




やがて、土石流は吾妻川の本流である利根川へ突入した。多数の水死者を含んだ泥流は、支流の江戸川に流れ込み船は運航不能となった。江戸川区の善養寺には、この水死者の供養塔が建つ。浅間山から140km離れた江戸市中でも降灰で暗くなり、関東一円から東北にかけ農作物の凶作被害をもたらした。




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by watkoi1952 | 2015-07-18 12:04 | 徳川十五代将軍 | Comments(0)