十四代将軍 徳川家茂


十四代将軍 徳川家茂




14代将軍家茂は、弘化3年(18465月、 紀州藩第11代藩主の徳川斉順の二男菊千代として、江戸赤坂の紀州藩邸で生まれる。父斉順は11代家斉の6男で紀州家へ養子に入り、11代藩主となった。母は側室のお美佐の方である。菊千代は13代家定の従弟にあたる。嘉永2年(1849)父後継の叔父で紀州藩12代斉彊の死去で、菊千代4歳は13代紀伊藩主を相続、6歳で慶福と改名する。



十四代将軍 徳川家茂_a0277742_13152116.jpg





慶福が7歳の頃、13歳家定の継嗣問題が浮上する。譜代大名や大奥を主勢力とする南紀派に慶福が次期将軍候補に担がれる。慶福は、13代将軍家定の養子になり家茂と改名する。将軍後継者として、徳川家の中で最も将軍家に近い血筋を根拠に、大老井伊直弼ら南紀派の支持を受けて、一橋派慶喜との抗争に勝利した。安政5年(1858)家茂13歳は、14代将軍に就任した。




十四代将軍 徳川家茂_a0277742_1319167.jpg






江戸城の災禍


国難で揺れる安政6年(185910月、江戸城本丸御殿を焼失する。それを再築後の文久3年(18636月に西丸御殿が炎上した。そして、西丸御殿の再築準備中の同311月に再び本丸が二ノ丸と共に焼失という災禍の連続である。やむなく、将軍家茂と和宮は清水邸へ、ついで田安邸に移った。江戸城本丸は、以後ついに再建されなかった。西丸御殿は急遽、規模を小さく再建したが、相次ぐ火災と財政窮乏で壮麗な大御殿を営む力は、もはや幕府に残されていなかった。







桜田門外の変


大老井伊直弼による安政の大獄で恨まれ、幕府は勅許を得ずに日米修好通商条約を締結して国論を二分した。万延元年(1860)桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は決定的な失墜となる。諸藩の志士は藩の枠を超え、互いに連絡を取り合い尊皇攘夷を旗印に公然と反幕府運動を進めながら、風雲急を告げる幕末動乱へと向かった。




十四代将軍 徳川家茂_a0277742_1328114.jpg






皇女和宮降嫁


文久2年(18621月、老中安藤信正は公武合体を推進し和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派から坂下門外の変で襲撃され失脚した。文久2211日、幕府の存続と朝廷との結びつきを強めるため、将軍家茂16歳は孝明天皇の妹和宮16歳を正室に迎えた。京都を立つ和宮は、「惜しまじな国と民とのためならば、身は武蔵野の露と消ゆとも」と詠まれた。中山道を厳重な警護の行列で、江戸に向かい北の丸清水家で婚礼に備えた。家茂と和宮とは政略結婚だが、歴代将軍の中で最も夫婦仲が良かった。





十四代将軍 徳川家茂_a0277742_1345316.jpg







皇女和宮は中仙道で京都から江戸に向かう道中、信州小坂家で休息の折に同家の写真技師が撮影した和宮唯一の写真である。


十四代将軍 徳川家茂_a0277742_13454924.jpg







長州征伐軍の総指揮を執る将軍家茂


文久3年(1863)家茂は、徳川家将軍として3代家光公以来、229年ぶりに三千人を従えて上洛して義兄にあたる孝明天皇に攘夷を誓約した。元治元年(18648月、朝廷から追討された長州藩が武力により、反撃を図った禁門の変(蛤御門の変)が勃発した。慶応元年(1865516日、家茂は江戸城から大阪城に向かった。




その行装は、陣笠に錦の陣羽織を着て馬に乗り、馬前には遠祖家康の吉例にならって金扇と銀三日月の馬標を立てた。幕府は長州藩と激しく対立して、権威復活を目指した第一次長州征伐では不戦勝に終わる。しかし、再び長州藩が対決姿勢を打ち出し、家茂は自ら第二次長州征伐軍の指揮を執るため江戸城を進発した。




十四代将軍 徳川家茂_a0277742_13311229.jpg





慶応2年(18666月、長州藩との戦端は開かれ、幕府軍は各所で敗北を喫する。家茂は敗色濃厚のなか大阪城で病に倒れた。家茂21歳は、720日大阪城内で病死した。ここに幕府の権威失墜が決定的となる。家茂は在任中、安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変、生麦事件、薩英戦争、禁門の変、長州征伐などに奔走した。家茂は死に際で後継者に、後の16代徳川宗家当主家達を指名していたが、実現されず慶喜が15代将軍に任命された。






芝増上寺 徳川家墓所 家茂公宝塔

十四代将軍 徳川家茂_a0277742_13341028.jpg














by watkoi1952 | 2015-07-18 11:59 | 徳川十五代将軍 | Comments(0)