近代競馬の発祥と招魂社競馬


近代競馬の発祥と招魂社競馬





近代競馬の歴史事始


わが国近代競馬の歴史は、嘉永7年(1854)日米和親条約締結による横浜港開港に始まる。文久元年(1861)横浜洲干弁天社裏(中区相生町6)に武士の練習用の追馬場があった。この馬場で横浜居留地の外国人達が行なった草競馬が日本最古の洋式競馬である。





横浜居留地馬場と生麦事件


居留地に住む外国人は、居留地内の空地で趣味とスポーツを兼ねて乗馬を楽しんでいた。彼らは仲間と休日などに居留地を出て東海道を利用して、川崎大師の辺りまで遠乗りに出かけたその途中であった。ところが、文久2年(1862821日、薩摩藩主島津久光の大名行列に対して、遠乗り中の英国人男女4名の騎馬列が行列を横切り始めた。島津久光を警護する家臣が怒り心頭、問答無用の無礼打ちで英国人リチャドソンを殺害、他の二人を負傷させた「生麦事件」勃発した。




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英国代理公使は、怒って水兵を上陸させ、犯人の厳罰と幕府に対して制裁金10万ポンド、薩摩藩に対して25千ポンドを要求した。幕府は承諾したが、薩摩藩は拒否し続けた。そのため英国鑑隊は、錦江湾に集結して薩摩陣営に向けて砲撃を開始した。いわゆる「薩英戦争」に発展したのである。








生麦事件現場

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薩英戦争(錦江湾)

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横浜新田競馬場  


文久2年(1862)横浜レースクラブを設立した。横浜居留地裏の沼地を埋め新田開発した空地に、一周1200mコース幅11mの楕円形競馬場を整地した。横浜新田競馬場で競馬を行なった。しかし、長続きせず跡地は、宅地化された。現在は横浜中華街・山下町に変貌を遂げ、この街を取り巻く道路が円形走路の痕跡を残している。




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慶応元年(1865)英国20連隊連兵場(港の見える丘)における武士招待競走の図 


治元年(1864)幕府は、英米仏蘭公使と横浜居留地覚書を締結して競馬場造成を約定する。



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横浜根岸競馬場


外国人居留地の要望で本格的な横浜根岸競馬場を建設した。競馬場の運営は、治外法権を持つ外国人が行なった。ここで日本人馬主第一号は西郷従道である。以降、この洋式競馬を模倣した競馬場が各地に造られ、政財界、軍、皇室、国賓など華やかな上流階級のための社交場となり、文明開化の一役を担った。






明治5年(1872)横浜名所之内 根岸競馬場

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明治天皇と横浜根岸競馬場


明治14年(1881510日、明治天皇は横浜根岸競馬場の春季競馬に有栖川宮、伏見宮、北白川宮各殿下、西郷従道以下の政府高官を従えて初来場した。天皇は欧米各国との不平等条約の改正のため、競馬を通じて外国人との親睦を図る目的で以後、13回来場している。明治27年(1894)日英の条約改正と治外法権の撤廃が調印された。




明治32年の法令実施に合わせるように、明治32年(189959日が、明治天皇ご来場最後の日となった。横浜根岸競馬場で春秋の年2回開催される競馬に、明治38年(1905)明治天皇より、御賞典が下賜され、帝室御賞典レースが行われた。これが、今日の「天皇賞」の起源である。






横浜根岸競馬場のメインスタンドと

   天皇賞の起源となった御下賜賞品のブロンズ花瓶

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わが国の近代競馬は、九段の招魂社競馬に始まる。

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九段の招魂社競馬


招魂社競馬は、明治3年(1870)九段の東京招魂社の境内(弓場稽古場跡地)に、日本人の手によるわが国最初の洋式競馬が開催された。





招魂社の初競馬図絵

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招魂社馬場は、幕府御用地の火除明地であり、諸向弓馬稽古場跡地である。

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幕府の日除明地の弓馬稽古場は、幕末の歩兵屯所で江戸城総攻撃に備えて、彰義隊が軍事訓練を重ねていた場所である。明治新政府は、招魂社の造営と同時に屯所跡地に、一周900mの細長い楕円の埒を配した競馬コースを造成した。明治12年(1879)招魂社を靖国神社と改称した新政府は、この地に招魂社を招致した大村益次郎の銅像を建立した。彰義隊との上野戦争を総指揮した大村益次郎は、上野山の戦況を見つめていた方向に建てられている。




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招魂社競馬は、陸軍の主催で招魂社の春秋の例大祭で行われた。祭礼では、競馬だけでなく相撲も大変な人気であった。しかし、靖国神社の馬場は、近代競馬を開催するには、あまりに狭すぎた。コーナーで落馬も多く、明治31年(1898)コーナーでの落馬も多発、中止に追い込まれ、馬場は廃止となった。






明治16年(1883)三代広重「東京滑稽名所・靖国神社競馬の名人」

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招魂社境内におけるフランス曲馬団興行


明治4年(1871)フランスのスリエ団長の率いる曲馬団が横浜に入港した。1021日、招魂社境内で見世物興行が開催された。江戸時代の見世物小屋を背景に、日本の軽業と西洋の曲馬術が融合して、曲馬団からサーカスと発展していく契機となった。




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靖國奉納大相撲


靖國奉納大相撲は、明治2年(1869)の創立鎮座祭以来、靖国神社の御霊を慰めるため、毎年例大祭の恒例行事として、常設相撲場で行われている。


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by watkoi1952 | 2015-02-07 20:51 | 騎馬の歴史風景 | Comments(0)