龍閑川と藍染川



龍閑川と藍染川





龍閑川は、明暦
3年(1657)の明暦大火で、8丁(872m)の延焼防止堤の土手が築かれた。元禄4年(1691)頃から近在の町民が、土手の盛土用に堀った空堀の空き地を利用して、物資運搬用の水路を開削した。「神田八丁堀」あるいは「火除堀」と呼ばれた。この水運流通で日本橋神田地域の発展に大きく寄与した。後に日本橋川との分流付近の西側に幕府の殿中接待役の井上龍閑の屋敷があり「龍閑川」と名付けられた。



龍閑川と藍染川_a0277742_14173091.png







龍閑川と神田下水


龍閑川は、安政4年(1857)に一度埋め立てられたが、明治16年(1883)に再び防火と雨水排出の水路として開いた。同時に浜町川との合流地点の幽霊橋より北に向かい神田川に通じる水路を開いて、秋葉原貨物駅からの船運に利用された。明治15年(1882)神田を中心に流行病のコレラが発生、東京府内で5千人の死者を出した。




神田は平坦な土地に人家が密集し、水捌けの悪い下水溝には塵芥や汚泥が堆積する衛生上劣悪な環境にあった。明治17年(1884)東京府は、神田駅周辺の地下に東京で初めての煉瓦造りの下水道「神田下水」を構築した。神田下水は排水のために再開した龍閑川に接続した。




龍閑川と藍染川_a0277742_11173520.jpg




神田下水の600mは煉瓦造りで、底部が狭い楕円形で流量が少なくても水深があり、安定した流速を確保する合理的な構造になっている。この神田下水は東京23区内の下水道16,000kmの起点ともいえる。現在も現役の下水道施設で、東京都の文化財や土木遺産に指定されている。龍閑川は、昭和23年(1948)川底に大下水管を埋設して、空襲残土で埋立てられ、昭和25年(19503月に龍閑新道となった。







龍閑橋


外濠(日本橋川)と龍閑川の合流地点で入り口に龍閑橋、右後方に日本銀行が見える。
龍閑橋は、大正15年(1926)に日本初の鉄筋コンクリート橋が架橋され、その跡地の公園に橋の一部が残されている。



龍閑川と藍染川_a0277742_18392970.jpg







主水井(もんとのい)


天正18年(1590)家康の命で神田上水を開いた大久保忠行の拝領屋敷が龍閑川沿いにある。門前に見える屋根蓋い井戸は、主水井と呼ばれる名水で知られた。切絵図に主水河岸、主水橋が記されている。大久保家は、幕末まで幕府御用達の菓子司を務めていた。



龍閑川と藍染川_a0277742_11250022.jpg








今川橋


龍閑川に架かる今川橋の名称は、町名主の今川善右衛門にちなむ。日本橋より東海道を除く四街道に向かう最初の橋で筋違御門に通じている。



龍閑川と藍染川_a0277742_1685944.gif








薬種問屋「長崎屋」


長崎出島で外国貿易を独占していたオランダ商館長は、幕府に謝意を表するため、江戸に参府して将軍に謁見して献上品を贈っていた。江戸参府は毎年行われ、商館長以下、通訳や医師など随行員が長崎から行列して江戸へ来ていた。その一行が定宿するのが、11250年続いた日本橋本石町三丁目の薬種問屋「長崎屋」である。




江戸中期から参府は4年に一回となるが、オランダ人随行員の中には、ケンペル・ツンベルク・シーボルトなどの医師がいたため、蘭学に興味をもつ日本人の蘭学者や医師など、青木昆陽・杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周・平賀源内らが訪問し、江戸における先進的な外国文化の知識を得る貴重な交流の場であった。近くに石町の鐘撞堂があり「石町の鐘はオランダまで聞こえ」と川柳に詠まれた。




龍閑川と藍染川_a0277742_16184383.jpg








石町時の鐘


時の鐘とは、古来より、仏教寺院の「梵鐘」の音が暮六つ、明六つ、昼九つの刻を知らせていたことに由来する。江戸時代になると鐘楼に吊るした大型の鐘を撞いて市井の人々に知らせていた。江戸初期には、江戸城西ノ丸の時の太鼓を打って知らせ、明六つの太鼓で見附門を開き、暮六つで閉門していた。




しかし、将軍御座の近くで差し障りがあるので、二代将軍秀忠の時に「時の鐘」に変え、登城の刻などを知らせた。江戸城内の「土圭の間」で時間の管理をおこない、時刻になると西ノ丸の太鼓櫓に出向き御太鼓方に知らせる。一方、江戸拡張に伴い、御府内に配置することになった最初の時の鐘は、寛永3年(1626)日本橋本石町三丁目に鐘楼堂が建てられた。






十思公園に移設された時の鐘

龍閑川と藍染川_a0277742_17312516.jpg








江戸の時の鐘


日本橋時の鐘設置以降は、江戸城拡張にともない浅草寺(弁天山)、寛永寺(上野大仏下)、本所横川町(入江町)、芝切通し(愛宕下)、市谷八幡、目白不動、赤坂田町(成満寺)、四谷天龍寺(府外)に置かれた。時の鐘は、まず捨て鐘を三打して注意を引きつけ、間をおいて時刻の数を撞く。配置された時の鐘の聞こえる範囲が江戸の町であった。






龍閑川②地蔵橋→待合橋→九道橋→甚兵衛橋→幽霊橋で浜町川に合流する。

龍閑川と藍染川_a0277742_14193449.png









伝馬町牢屋敷


江戸の牢屋敷は、慶長年間(15961615)常磐橋外から小伝馬町へ移り、代々牢奉行に石出帯刀が任命され、牢屋敷内の役宅(480坪)が住居である。牢屋敷(2677坪)の敷地四方に塀と堀を廻らせ、南西に表門、北東に裏門(不浄門)を設けた。大牢と二間牢は一般庶民で、西牢には有宿者、東牢には無宿者、独立した百姓牢がある。




揚屋は御目見以下の幕臣。西の揚屋は女牢。大名の家臣、僧侶、医師、山伏など揚座敷は御目見以上の幕臣、身分の高い僧侶や神主が収監された。伝馬町牢屋敷は、延宝5年(1677)から明治8年(1875)に市谷監獄が置かれるまで198年間に数十万人の囚人を収容し、10万人以上が死罪となった。




龍閑川と藍染川_a0277742_16384553.jpg








明暦大火の切放ち


牢奉行の石出帯刀(吉深)は、明暦3年(1657)の大火に際して、数百人の囚人を火災から救うため独断で切放ちを行った。切放ち後に戻ってきた者には罪一等減刑された。「帯刀に情けあり、科人にまた義あり、御老中に仁ありて命を助ける」という制度は慣例化され、明治の監獄法から現在の司法制度に至るまで引き継がれている。




龍閑川と藍染川_a0277742_16443603.jpg









埋立前のお玉が池図


龍閑川と藍染川_a0277742_16235712.jpg






お玉が池の埋立


慶長10年(1605)第1次天下大普請で本郷台地の東端低地の筋違御門付近から浅草橋を経て隅田川へ注ぐ放水路が開削された。旧石神井川の水害と、下流のお玉が池を埋めて武家地に造成するため、旧石神井川の流れを東に付け替えた。お玉が池は増水すると神田川と龍閑川の間に不忍池ほど広範囲に水没する遊水池であった。江戸拡張に伴う人口増で宅地化が急務であった。




龍閑川と藍染川_a0277742_07263837.png








神田藍染川と藍染橋


染物の布を晒していたお玉が池は、上流の流れを東の隅田川に付け替えて宅地用に埋め立てられた。天和2年(1682)お玉が池に一間幅の拝水路を埋め残したのが藍染川である。明治18年(1885)に藍染川は埋め立てられ、染色業者は神田川(旧江戸川)沿いへ移転した。切絵図の左に藍染川と藍染橋その下方に弁慶橋が記載されている。



龍閑川と藍染川_a0277742_16221467.jpg








神田紺屋町


家康に紺屋頭を任命された土屋五郎右衛門は、旧石神井川の不忍川を水源とするお玉が池で配下の染物職人に軍旗や戦装束の生地に藍染をさせ、豊臣との天下分け目の戦いに備えた。以後、この周辺は紺屋町と呼ばれ、江戸名物の粋な藍染の浴衣や手拭の多くが染められていた。その年の流行は紺屋町へ行けばわかると、いわれるほど流行の発信地であった。「場違い」の語源は、ここ以外で染められた藍染を揶揄する言葉である




虎落(もがり)と呼ばれた物干し台にたなびく、藍染めの反物の風情が江戸の風物詩であった。左の源氏車と市松模様柄、右の「魚」の染物は名所江戸百景版元の魚屋栄吉を表し、菱形染めは広重のヒロを表している。この鮮やかな紺色は、ベロ藍と呼ばれたベロリン(ベルリン)からの輸入品で、ヒロシゲ・ブルーの名で世界に知られる。




龍閑川と藍染川_a0277742_12385710.jpg









藍染川の弁慶橋


藍染川の下流に架かる弁慶橋は、現在の岩本町2丁目10番と17番の間の大門通りにあった。筋違に三方から渡った難しい橋で、大工棟梁の弁慶小左衛門の名作である。明治18年(1885)藍染川は埋め立てられ、明治22年(1889)に弁慶橋の移設で、清水谷から赤坂見附に出る濠に同じ橋名で架設された。切絵図の左下方に弁慶橋が記されている。




龍閑川と藍染川_a0277742_17493811.jpg










by watkoi1952 | 2014-09-17 17:16 | 江戸の水運・船入運河 | Comments(0)