明石堀と鉄砲洲川
明石堀と鉄砲洲川
明石町は明暦の大火以降の築地埋立てのさなか播州明石の漁民が移住したといわれ、対岸の佃島を淡路島に見立てたと言われている。明石堀は、扇型の入江堀で築地川南支川の堺橋から明石橋より隅田川に合流する。明治以降より南支川の暁橋より堺橋→南明橋→明石橋→隅田川に合流する。
豊後岡藩中川家1万坪に隣接した南に、元禄14年に欠所となった浅野内匠頭の鉄砲州上屋敷八千九百坪があった。
鉄砲洲は築地で最後に埋め立てられた地域で、その地形状を火縄銃に見立てた。あるいは鉄砲の演習地とも伝えられる。鉄砲洲川は、明石堀より新湊橋→浦堀橋→見当橋→小橋→鉄砲洲橋で墨田川に合流していた。昭和4年(1929)関東大震災の復興事業の一環として埋め立てられ、道路となった。
江戸名所図会「寒橋」
明石町の家並みの先に見える明石橋は、寒橋の俗称で呼ばれていた。
築地居留地
安政6年(1859)6月、日米通商条約締結で江戸にも外国人居留地が義務付けられた。明治元年(1868)明治新政府は、築地鉄砲洲の7千坪を外国人居留地と定めた。当時の絹生糸の輸出ための輸送と横浜居留地の外国商社を築地居留地に招請するために新橋~横浜間に鉄道を敷設した。
だが、彼らは横浜を動かず、代わりにキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。このため東京における洋風文化輸入の拠点となり、青山学院、女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院など後に大学として発展する教育機関揺籃の地であった。築地居留地も、明治32年(1899)の治外法権撤廃で廃止されている。
築地居留地は、番号で区分けされた土地を買うことで新築を建てられる正統な居留地と、赤色の既存の建物を借り受ける相対借り居留地の地域で構成されていた。
私学発祥の地
慶応義塾大学
慶応義塾の発祥は、安政5年(1858年)中津藩士の福沢諭吉25歳が藩命により、中津藩中屋敷内に蘭学塾を開いたことに始まる。安政6年諭吉は横浜見物に出掛け、オランダ語が役に立たないこと知ると独学で学び、文久3年(1863)に蘭学塾を英学塾に転向している。
立教大学
立教学院の発祥は、明治7年(1874年)築地の外国人居留地にウィリアムズ主教が開いた私塾「立教学校」に始まる。その後、立教大学校、立教専修学校などの変遷を経て、明治40年(1907)には立教大学を開設、大正7年(1918)に現在地の豊島区池袋に移転した。
明治学院大学
明治学院の発祥は、文久3年(1863)横浜居留地にヘボン博士の私塾が開設された。明治10年(1877)築地17番地の居留地に移転して「東京一致神学校」と称したことに始まる。明治20年(1887)に明治学院が発足した。昭和24年(1949)に「明治学院大学」となり、港区白金と横浜戸塚区にキャンパスがある。
工学院大学
明治20年(1887)富国強兵政策における近代化を育成する職工の育成を目的に「工手学校」が東京築地に設立された。帝国大学初代総長渡辺洪基や辰野金吾に片山東熊らを中心に創立、日本で最も古い私立の工業実学校であった。創立時の学科は、土木、機械、電工、建築、造船、採鉱、冶金、化学の8学科であった。幾多の変遷を経て、昭和64年(1989)工手学校を起源とする工学院大学の新宿キャンパス高層棟が西新宿に落成した。
築地居留地俯瞰図
聖路加国際病院
明治7年(1874)築地の外国人居留地内に英国人宣教医師ヘンリー・フォールズが健康社病院を開設し、後に築地病院と改称した。フォールズは、わが国の指捺印の習慣に興味をもち、たまたま発掘された土器に古代人の指紋を発見する。これに触発されて、科学的な指紋の研究を行った。明治13年(1880)10月、英国の雑誌「ネーチュア」に日本から投稿した論文で犯罪者の個人識別の科学的指紋捜査法を発表した。
30年後の明治44年(1911)4月より警視庁はフォールズの指紋捜査法を採用した。中央に白亜の聖路加国際病院、病院名は、新約聖書の福音書の一つ「ルカによる福音書」の著者である聖人ルカの漢字表記に由来する。聖路加(せいるか)が正式名である。左の暁橋より手前右の堺橋、南明橋の架かる船溜りの扇形入江が明石堀である。
明治35年(1902)フォールズが帰国した後、居留地の廃止で荒廃していた築地病院を米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラー博士が買い取り、聖路加病院として創設した。関東大震災で焼失した病院は、昭和8年(1933)に本格的な病院に再建された。明石町界隈は聖路加病院があるため東京大空襲の被害は免れたが、戦後11年間は米国極東中央病院としてGHQに接収されていた。
平成4年(1992)5月、全人医療を目指す画期的な機能をもつ新病院が完成した。昭和45年(1930)明石堀は埋め立てられ、あかつき公園の緑地帯になっている。左上にみえるのが平成4年(1992)に完成した聖路加国際病院の新館である。
東京運上所(東京税関発祥の地)
明治2年(1869)12月25日に築地運上所内の電信機役所と横浜裁判所との間32kmを結ぶ電信線架設で、わが国初の電信業務が開始された。輸入荷揚品の関税額が横浜と東京の誤差を避けるための通信として用いられた。明治5年(1872)に東京税関と改称される。明治32年(1899)その跡地に建てられた岩崎弥太郎の接待用別邸は震災・戦災を免れる。その別邸は、昭和6年(1931)創業の料亭「治作」が受け継ぎ高黒塀と重厚な数寄屋造りの伝統建築を今に伝えている。
明石橋を渡ると、運上所の屋根上に横浜から架設した電信線が描かれている。
アメリカ公使館とホテル・メトロポール
安政6年(1859)6月、日米通商条約締結で麻布の善福寺がアメリカ公使館になり、初代公使ハリスが駐在した。明治8年(1875)に善福寺から明石町新湊橋東詰の居留地1,2、21、22の番地の新公使館に移転した。明治23年(1890)5月に現在の赤坂1丁目のアメリカ大使館の地に移転した。大使館跡地は、横浜クラブ・ホテルが建物と借地権を譲り受け、同ホテル東京店から「ホテル・メトロポール」と改称される。明治40年(1907)帝国ホテルと合併して、帝国ホテル築地支店となるが、明治45年に廃止となった。
大正3年(1914)に聖路加病院がホテル跡地とその周辺と合わせて購入して、現在は聖路加ガーデン、聖路加タワーが聳える。米国公使館(ホテル・メトロポール)の跡地は、銀座クレストンホテルが入居する8階建ての聖路加レジデンス棟になっている。
聖路加タワー
by watkoi1952 | 2013-12-23 20:11 | 江戸の水運・船入運河 | Comments(0)