江戸城北の丸
江戸城北の丸
家康の築いた初期の江戸城は、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、北の丸、吹上御庭で構成されていた。吹上御庭には、御三家の尾張、水戸、紀伊の屋敷が配置されていた。その当時、北の丸はまだ竹藪を整備した関東代官・内藤清成の屋敷や旗本屋敷に割り当てられ、代官町と呼ばれていた。その後、江戸城拡張の整備も進み、徳川将軍家の近親者の徳川忠長、徳川綱重らの屋敷を経て、将軍の子女や天守閣に近接した大奥に仕えた女性たちの隠居所となった。
元和5年(1619)家康の側近であった臨済宗の僧侶・金地院崇伝に二代将軍秀忠より北の丸に2千坪の屋敷地を与えられ寺院を建立した。翌年には僧侶の人事を統括する僧録となる。崇伝は法律立案、外交、宗教統制など江戸幕府の礎を築いた。寛永20年(1639)崇伝が亡くなると、金地院は芝増上寺の紅葉山の高台に移設された。
北の丸変遷(江戸時代前期)
慶長2年(1597)千姫は、2代将軍秀忠とお江与の長女に伏見城内の徳川屋敷で生れた。豊臣秀吉は、淀殿との間に生れた秀頼を後継者とした。慶長3年(1598)千姫2歳は、豊臣秀頼6歳と婚約させた直後、秀吉は伏見城で亡くなる。その後、関ヶ原の戦いで石田三成が敗れ、家康は慶長8年1603)征夷大将軍と也徳川幕府を開いた。秀頼の母淀殿は、豊臣家の存亡が懸念され、徳川家との婚姻を望んだ。慶長8年7月、秀頼11歳と千姫7歳は結婚したが、千姫は事実上の人質である。
元和元年(1615)大阪夏の陣で大阪城が炎上する中、豊臣家は滅亡、千姫は助け出された。落城後は、江戸城に戻る間もなく、上州の縁切寺「満徳寺」で豊臣家との縁を絶った。元和2年(1616)千姫20歳は、桑名藩主の本多忠政の長男忠刻21歳と結婚した。翌年、忠政に姫路藩10万石が与えられ、忠刻には千姫の化粧料として播磨10万石が与えられ姫路城に移った。
忠刻はまだ城主でないため、新築した化粧櫓を新居とした。寛永3年(1626)参勤交代で帰国後に忠刻は結核で死去した。千姫30歳は、娘勝姫と江戸に戻り江戸城西ノ丸に入った。千姫は落飾して天樹院と称し、北の丸の竹橋御殿を終の住処とした。寛文6年(1666)千姫は70歳で亡くなるまでの40年間、北の丸の御殿で余生を過ごした。千姫は曾祖母・於大の方の菩提寺「小石川伝通院」に眠る。
春日局(斎藤福)は、天正7年(1579)明智光秀の重臣斎藤利三と継室稲葉安の三女に生まれる。福は稲葉正成の継室となり正勝、正定、正利の三子をもうけたが離縁の形をとり、慶長9年(1604)三代将軍家光(竹千代)の乳母に召し出され三千石を賜る。春日局は家光が将軍職に就くため、献身的な活躍をして、大奥の制度の基礎を築き将軍様御局として権勢を奮った。
寛永6年(1629)京都へ上り御所へ参内し、後水尾天皇に拝謁し「春日の局」の局号を賜る。同9年再び上洛し、明正天皇より従二位に叙せられ、緋袴着用の許しを得た。福の長男正勝も家光の小姓に取立てられ、元和9年(1623)老中に就任して、寛永9年(1632)相模小田原藩主となる。春日局は晩年北の丸に移り、寛永20年(1643)に64歳で亡くなるまで余生を過ごした。
八代将軍吉宗は家康の御三家に倣い、子供や孫で御三卿を興した。享保15年(1730)吉宗の次男「宗武」が田安家を興し、北の丸の西半分1万3841坪の屋敷を拝領する。続いて、四男「宗尹」が一橋家を起こした。宝暦9年(1759)吉宗の孫に当たる9代将軍家重の次男「重好」が清水家を興し、北の丸の東半分1万4150坪の屋敷を拝領した。
家格は御三家に次ぎ、将軍家の後継ぎがないとき三卿から選ぶ資格を与えられた。御三卿の家名は、江戸城北の丸「田安門、清水門、一橋門」にそれぞれ屋敷が隣接していることで門名を家名に定めた。11代将軍家斉以降は、一橋徳川家が将軍を輩出している。15代将軍慶喜は水戸徳川家の出身であるが、一橋家の養子となって最後の15代将軍となった。
田安門
清水門は寛永元年(1634)浅野長晟に命じて建築した。扉の金具には万治元年(1658)の修理記録が刻まれている。清水徳川家は、明治まで8代続いたが、実子が相続したのは最後の一人だけである。それまで11代将軍家斉の子供を養子や奥方に押し付けられ、清水家は最大の被害者となった。最後の徳川好敏(陸軍歩兵大尉)は選出されて、フランスで航空術を学んだ。帰国にあたりアンリー・ファルマン式の飛行機を購入して、明治43年(1910)の暮に代々木練兵場で日本人初の4分間3千mの飛行に成功した。彼の胸像は、代々木森林公園で、飛行機は交通博物館に展示されている。
近衛師団
明治4年(1871)に薩摩、長州、土佐の3藩より兵を徴収、御親衛と称して皇居の警護にあたらせたのが近衛兵の始まりである。西郷隆盛、山県有朋、三皇族親王をはじめ、陸軍を代表する名将が代々トップを務め、大正・昭和天皇も在籍された連隊である。兵隊も全国から体格に優れ、眉目秀麗、志操堅固で家柄や素行も厳選された者が徴兵された。近衛兵は、第一から第五連隊まで2万人の兵力、軍の中でも特に格上とされていた。
北の丸は明治7年(1874)北の丸の田安・清水両家や植溜が壊され、近衛第一、二連隊の兵舎敷地となる。東南部の竹橋に近い国立近代美術館のあたりは、近衛砲兵の兵舎となった。皇居と皇族の護衛、帝都の防衛が主な任務で、毎日2百名の近衛兵が乾門から皇居へ入り、24時間交代で二重橋などの歩哨についた。帽子の徽章も陸軍が星だけなのに対し、近衛は星に抱き桜という特別なものが権威の象徴であった。
近衛歩兵第一旅団、第二連隊の全景図
正門前で白雪号に騎乗する皇太子時代の昭和天皇
近衛師団の軍旗祭・昭和9年(1934)
近衛師団司令部(東京国立近代美術館・工芸館)
近衛師団司令部は、明治43年(1910)陸軍技師の田村鎮によって設計建築された。ゴシック風レンガ造りの司令部は、昭和20年まで置かれていた。しかし、第二次世界大戦終結前夜に近衛師団司令部で大きな事件が起きた。無条件降伏に反対する陸軍若手将校たちが玉音放送を阻止しようと動いたのである。
いわゆる、宮城事件で玉音盤を探すため宮城に入るには、近衛師団の協力が不可欠であった。だが、近衛師団は天皇の命令以外には動かないと反対の態度を取った。森師団長は司令部内で殺害され、偽の命令書によって近衛兵が出動する事態が起こった。最終的に計画は失敗に終わり、首謀若手将校たちは、自決の道を選ぶしかなかった。映画「日本のいちばん長い日」である。
北白川宮能久親王の馬上銅像
近衛師団司令部は、昭和47年(1972)重要文化財に指定され、現在は東京国立近代美術館の工芸館である。工芸館の入口には、移設された北白川宮能久親王の馬上銅像がある。明治36年(1903)陸軍砲兵工廠で鋳造された銅像は、近衛第1、第2正門前に建立されたものである。
維新後に北白川家を継承して、陸軍中将となり出征した台湾で、明治28年(1895)マラリアで薨去された。能久親王は、幼くして江戸の地で僧侶として過ごし、一時は朝敵の盟主となって奥州を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死を遂げたことで日本武尊に例えられた。
北の丸公園
北の丸は森林公園に整備され、昭和44年(1969)昭和天皇の還暦を記念して開園、一般公開された。
武道館前の築土神社祭礼の神輿
太田道灌が江戸城を築城した際に、北の丸には関東の守護神であった平将門を祀る田安明神(築土神社)があった。そのため江戸城北の丸の田安御門内に祭礼の神輿の入城が許されている。
牛ヶ淵の桜
平成4年(1992)千鳥ヶ淵緑道から濠の水面に枝をさしのべている桜にライトアップが始まり、観桜期に100万人が訪れる東京の桜の新名所となった。江戸駒込生まれのソメイヨシノは、昭和59年(1984)6月東京都の花に選定されている。
by watkoi1952 | 2012-10-10 14:10 | 江戸城を極める | Comments(0)