江戸城表・大広間・控之間・松之廊下


江戸城表・大広間・控之間・松之廊下



江戸城大広間


江戸城内最大の書院である大広間は、将軍宣下の儀式、武家諸法度発布、年頭の拝賀などの公的行事を行う最も格式の高い御殿である。上段之間には将軍が着坐する。将軍の呼称は、上様、公方様、御公儀様と呼ばれていた。公方の称は本来、朝廷の御所の意であるが、足利将軍時代に公家の棟梁を摂家、僧侶には門跡というが武家棟梁に名なきゆえに公方の称を貰い受けた。公方は「公事を治める」の意で、自ら政権把握の確証としたのである。




公方と大樹は征夷大将軍の意であり、第三者的には御所様や大樹様とも呼ばれていた。現将軍の父ともなれば大御所と呼び慣わした。将軍家の権威を演出する大広間では、大名の座る場所は格式によって厳格に定められていた。以下、大広間は中段之間、下段之間、二之間、三之間、四之間、五之間、納戸と中庭を囲み合わせて500畳で構成されている。




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上段・中段・下段之間(側面図)


左側の上段の間(28畳)には、床の間、違棚、房戸、附書院、二重折上格天井があり、美しい帳台構である。中段之間(28畳)には、折上格天井。下段之間(36畳)には、襖障子、格天井のそれぞれに7寸(21cm)の格式段差が付けられている。大広間は幕府御用絵師の狩野探幽の筆による松と鶴を主題とした障壁画が描かれ、要所に飾金具で豪華絢爛に将軍の権威を荘重に演出している。



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上段・中段・下段之間(正面図)


上段を北として中下段が南北に並ぶ。下段から上段を仰ぎ見ると14寸(42cm)2段もの差意が格式の威厳と重圧を与える。諸大名がどこに座るかは、官位、官職、殿中席により段差と畳の目で厳格に定められていた。




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征夷大将軍と幕府


慶長8年(1603)全国の大名を従えた徳川家康は源氏や足利氏に倣って征夷大将軍に任じられた。以後、朝廷は政治の実権の埒外に置かれ、徳川幕府が実質的に日本全国の武家や庶民を統治した。征夷大将軍は徳川家によって世襲されたが、慶応3年(1867)十五代将軍慶喜が征夷大将軍を辞して大政奉還し、以後この職は途絶えた。



征夷代将軍とは、奈良時代に東北地方の蝦夷の統治反抗に対し、これを征伐する政府軍の総大将に与えられた官職名である。ゆえに朝廷常設の役職や世襲でもなく、東北が平定されると征夷大将軍の名称も廃された。幕府とは、征夷大将軍などが蝦夷征伐の謀議をするために、戦陣に幕布を張った軍営を意味したが、後に武家政権が全国統治を行なう場としての意味を持つようになった。



織田氏、豊臣氏は征夷大将軍を拝命していないので、これらの政権は幕府と呼ばない。しかし、蝦夷征伐とは関係なく、平安時代末期の源平争乱時に平清盛討伐のため木曽義仲が征東将軍に任じられた。だが木曽義仲が朝廷に反逆して、源氏に滅ぼされると、鎌倉に拠点を置いた源頼朝が征夷大将軍を望んで任じられた。ここで初めて武家の棟梁を意味する言葉となり、頼朝は征夷大将軍に相応しい武家統一の幕府を創設した。



世襲された源氏の将軍は三代で絶えるが、摂関家などが将軍の跡目を継承した。その後、南北朝の争乱期に北朝方に付いた足利尊氏が征夷大将軍に任じられ、足利の将軍は天正元年(1573)に足利義昭が織田信長に追放されるまで室町幕府は十五代に及び存続した。








将軍宣下の儀式


将軍宣下の儀式とは、天皇が京都で日本国の統治大権を行使する征夷大将軍に任ずる儀式である。慶安4年(1651818日、家光の長男・家綱は幼年のため江戸城において勅使より将軍宣下を受け、第4代将軍に就任した。この前例で家綱以降の将軍宣下は、慶喜を除き江戸城で厳粛に行われた。徳川将軍家の権威を象徴するかのように江戸城に勅使が赴き、将軍が上座、勅使が下座で宣下を行なった。しかし、徳川幕府の末期になると尊皇攘夷思想の影響で上座と下座が本来の形となった。




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(千代田之御表・楊州周延画)





八代将軍吉宗の将軍宣下


享保元年(1716813日、巳の刻(午前10時)吉宗は老中井上大和守政岑の先導で白書院に出座、まずここで御三家をはじめ譜代大名から祝の挨拶を受けた。それから別室で束帯の威儀を正して大広間へ移る。最高に厳粛な顔で座に着けば、勅使徳大寺公全、庭田前納言重条が上段之間に進み、中御門天皇からの将軍宣下の宣旨を賜る旨を述べて中段の左側に着座する。




次ぎに上皇使や女院使も勅使に続いて中段に居並ぶ。何れも束帯姿で溜の間詰の親藩大名は下段の西側、老中や高家は東の縁側に列する。一同着座して静まると、告使の山科出雲守が束帯で落縁に進み、庭の天に向かって甲高い声で叫んだ。「君、君、御昇進、御昇進」と天神に届けとばかりにふた声で叫ぶのである。




この奇声が殿中に響き渡り、式典が最高潮に達したことを告げる。そして、副使の青木縫之介が覧箱を落縁に持参して、奉仕役の壬生が受取る。それを高家中条対馬守が上段に膝行して、覧箱の蓋をとって宣旨を将軍に見せる。




内容は「従二位権大納言源朝臣吉宗、宣令補任征夷大将軍」、さらに、兼官の右近衛大将、右馬寮御監、淳和奨学両院別当、源氏の長者の宣旨、合わせて六通を吉宗に見せ、終わって奥上段の御納戸構で若年寄大久保長門守に渡して秘庫に収めた。また、鎌倉以来の吉例により用意の砂金二袋を覧箱に入れて壬生に返すと退場した時点で将軍職が始まるのである。




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式典が終わると新将軍は、大広間、白書院、

黒書院集まった大名や旗本から祝賀を受ける。









朝廷と幕府 叙任と礼装

朝廷は全国の支配権を失い、幕府よりわずか3万石程の賄料を与えられ、これで多くの公卿衆を養わねばならなかった。そこで大名や幕府の要職にある武士たちに朝廷より官位官職を授けた叙任料で賄料の不足を補った。例えば、禄高三千石以上の者が要職に就くと、幕府から朝廷に奏申して、古代の国守や朝廷の役職から好みの官職名「何々の守」を選び百両ほどで従五位下となった。従五位以下の官位官職を受けた武士は、朝廷の慣習に従って礼装である衣冠束帯を誂えた。




ただし、武家に与えた官位官職は朝廷のような権威を持たず、武家官位として武家の序列を表す儀礼上の名誉職であった。また、この宮中礼装とは別に殿中の行事では、官位に応じた殿中礼装を身につけることができた。将軍、御三家、御三卿、侍従以上の諸大名は、直垂(ひたたれ)但し、将軍のみ高貴な紫色と定めた。四位の武士用礼服は狩衣(かりぎぬ)、五位は大紋(木綿の直垂で5か所に染家紋)の正装で官位・席次の格式を判別できた。








将軍への独礼と立礼の謁見


大広間上段の将軍に謁見し、単独で新年の祝意を表せたのは、侍従以上、従四位以上の者に限られ「独礼」と称した。その次は五位以下の大名と役人が二之間、三之間、四の間に並び「立礼」の謁見となる。将軍が下段之間に立ち、大名・役人一同が一斉に平伏すると、襖が開けられ、揃って挨拶する立礼の儀式が行われた。平伏したままで、将軍の姿を見ることはない。畳敷廊下の入側まで厳格に格式よって定められた位置に着座している。二之間の北面に天井に届かんばかりの巨木の老松が描かれ「松の間」とも呼ばれていた。





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この「徳川盛世録」の挿絵には、大広間の柱と長押が交差する箇所にある木釘の頭を隠すため、横長楕円形の飾金物「釘隠」が描かれている。牡丹の花を熨斗紙で包んだ形をモチーフにした「畳紙型釘隠」と呼ばれている。江戸城内の座礼には、真・行・草の三格式があった。真の礼は、厳粛に両手を組み合わせた畳の手に鼻が付く状態まで深く頭を下げる「貴人への礼」である。行の礼は、両手を合わせた畳の手に真の礼に比べれば頭の下げ方が浅い「同輩への礼」である。




草の礼は、両手を少し離して畳に手を付き、頭を少し下げる「下輩への礼」がある。勿論、将軍への拝謁は真の礼で行なう。譜代大名であろうとも、将軍の顔を見ることは許されなかった。たとえ、将軍から「面を上げよ」と声が掛かっても、恐れ入って顔が上げられない振りをする。また、「近こう進め」との声にも、恐れ入って膝を動かすだけで前へ進めぬ仕種がお約束であった。大名が家督相続認可の御礼のため、将軍に拝謁することを「御乗出し」と称した。




その拝謁のための稽古は、大変難儀であった。お辞儀の稽古だけで三日間を要した。足の運び方から始まり、畳何枚隔て、どこへ手を付き、どのように礼をするのかを学ぶのである。腰の小刀が襖障子に触れたり、貴人の礼で畳の縁に指先が掛かれば、大目付の咳払いで注意を促した。退出する時は、真っ直ぐ後ずさりして、どのくらいの距離で向き直って退出するかなどの礼儀作法を高家や小笠原流の指南役から習得せねばならなかった。







大広間の全景俯瞰


大広間は寝殿造りの主殿に相当する構えで、常磐様と称する鎌倉武家の殿舎形式を継承した建物である。大広間は雨戸の外に「縁側」、内の「入側」と呼ぶ畳敷廊下に囲まれた殿舎である。左上から上段(28畳)・中段(28畳)・下段之間(36畳)、右に二之間(53畳)、三之間(70畳)、右上に四之間(80畳)、納戸之間、後之間、医師之間など合わせて、東西50m500畳で構成されている。




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大名(親藩・譜代・外様)


大名は三百諸藩あり、大藩で一ヶ国を支配する「国持大名」、戦国時代以来の城を持っている「城持大名」、城を持たず城郭のない陣屋を構えた小藩の大名などがあった。一万石以上の大名になると、家老職が藩の経営にあたる。軍役規定では二万石級で弓・鉄砲・槍組・騎馬武者隊・歩兵隊など415名を配置した。平時には、行政、式備に分けて兵に仕事を配分した。この人数は石高が上がるにつれ増えていった。さらに藩主の妻子は江戸の屋敷に置かれ、藩主には参勤交代によって隔年ごとに江戸に住む義務が課せられていた。




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藩という呼称について


幕藩体制、藩政改革、親藩、諸藩、藩主に仙台藩、広島藩、長州藩などと呼称する藩名は、江戸幕府時代には通用していなかった。幕府では、将軍の諮問機関「侍講」の新居白石の著書:元禄14年(1701)成立の諸大名の領地の異動や系譜を編纂した「藩翰譜」に見られるが、幕府は藩を公用語に採用することはなかった。藩という制度上の呼称は、「府藩県三治制」で初めて登場した。




公式に藩とは、旧大名領を明治2年(1869)の版籍奉還から明治4年(1871)の廃藩置県までの2年間に限定された制度である。古代中国の封建社会の周では、皇帝を護衛する諸侯を藩と呼び、王室から与えられた領土を治める任務などに由来する。江戸幕府の公文書では、各大名家のことを「諸家」、大名領地を「領分」、その下部組織を「家中」と言い、家中の前に大名の苗字や拠点の地域名を付けて呼んでいた。これらの城主を伊達陸奥守や仙台候、浅野安芸守や広島候などと呼んだ。




また、大名の所領支配地として、仙台は伊達の居城、広島は浅野の居城などと呼び慣わしていた。明治3年の新政府布達で初め国名や領主名を藩名としたが、必ずしも一国一藩でなく一国に数藩が重なる。また、領主の氏姓では、いくつもの徳川藩や松平藩ができる。結局すべて居城または陣屋のある地名を、藩名として呼ぶことに統一した。現在、大名とその領地を一体化した概念として「藩」の使い勝手がよく一般に広く通用している。







白書院


白書院は大広間に次ぐ格式をもつ将軍の公的な行事を行う。白書院は表書院とも呼ばれ、上段之間(28畳)、下段之間(24畳半)、帝鑑之間(38畳半)、連歌之間、納戸構の五室(135畳)で柱や天井は白木の檜で構成されている。勅使や院使を迎える際には、下段を宴席の間とする。上下段、帝鑑之間の障壁画には、明代の「帝鑑図説」に基づいた人物画で歴代皇帝の善行を描いている。







黒書院


白書院から竹之廊下を通って奥に進むと日常的な行事を行った黒書院は、上段之間(18畳)、下段之間(18畳)、西湖之間(15畳)、溜之間(24畳)など四室(75畳)で構成されている。控之間で最高の格式をもっていたのは「溜之間詰」の大名で老中格としての権威を持ち、白書院で公方様に拝謁し、政治上の諮問を受け、それに対して意見を述べていた。毎月1日、15日の公方様への月次御礼は、大廊下詰と溜之間詰大名は黒書院で、その他の大名は白書院で行われた。






復元参照熊本城の本丸御殿の白書院)

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復元参照(熊本城本丸御殿の昭君の間)

別名将軍の間、加藤清正が豊臣秀吉の遺児・秀頼を迎えるために用意した伝承がある。

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江戸城の表向と中奥配置図

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殿中席(詰之間・控之間)


江戸城表向の殿中席は、将軍に拝謁する順番を待つ控え席である。大名の出自・武家官位・城郭の有無・家格・取立時期・石高に将軍家との親疎の別などが複雑に絡み合って7席に決められ、明暦3年(1657)以降に定着した。10万石以上が「大大名」、5万石以上が「中大名」、5万石以下1万石までを「大名」と呼び、登城に同道する家臣の人数や服装まで細かく定められていた。





1.大廊下「上之間」


大廊下は、松の廊下に沿った部屋の総称である。上之間(14畳)は、将軍家の親族である御三家(尾張、紀伊、水戸)と親藩大名の詰席である。



大廊下「下之間」


大廊下の下之間(22畳)には、加賀前田家、福井松平家、徳島蜂須賀家、鳥取池田家など、御連枝の詰席である。諸大名の詰所では、最高家格に置かれた。(権中将~権大納言)



2.黒書院「溜之間」


溜之間(24畳)は、本丸表の最深部に位置する黒書院に隣接した部屋である。彦根井伊、会津松平、高松松平、この三家は常溜と称された。忍松平、姫路酒井、松山松平、桑名松平などの名門譜代、10万石以上が着座した。一代限りの飛溜で老中を長年務めた大名は、功績により着座が許された(侍従から権中将)



3.大広間詰


本丸表玄関に近い大広間は、上段・中段・下段・二之間・三之間・四之間で構成されている。二之間と三之間には、御三家の分家大名に従四位以上の外様国持大名、伊達、細川、島津、毛利、黒田、 毛 利、鍋島、池田、藤堂、浅野、蜂 須賀、上杉、津軽、有馬 など23家の控之間である(従四位~権中将)




4.白書院「帝鑑之間」


帝鑑之間(38畳半)は、白書院に隣接する部屋で、徳川一門の分家や10万石以上の譜代大名60家の御譜代衆に交代寄合(三千石以上の旗本で大名に準じる無役職の者)が着座した。いわゆる三河以来の武功軍団の家筋である(従五位~侍従)




5.雁之間


雁之間は白書院と黒書院の間に位置する。城主格以上で10万石以下の譜代大名・板倉・稲葉・青山・阿部・牧野・水野や高家などの中堅約40家が着座した。武功により幕府創立後に征治に参与した大名で常に交代で詰めて非常に備えていた。また、詰衆とも呼ばれ幕政に参画することが多く、老中に選任される大名の多くを輩出した(従五位~侍従)




6.柳之間


柳之間(48畳)は、松の廊下の向いの詰席で、雪柳の襖絵がある。旧族の国衆大名系の松浦・秋月・伊藤・大関・津軽や織豊取立の上方大名・織田・木下・仙石・片桐など10万石未満で四位以下の中小外様国持大名及び表高家など100家が控えた。従四位に叙任されると大広間詰に昇進できる(従五位~侍従)




7.菊之間・広縁


菊之間は白書院と黒書院の間にあり、雁間より表に位置する。警備や護衛にあたる大番頭、書院番頭、小姓組番頭、持弓頭、槍奉行などの詰所で、広縁には二万石以下の無城譜代陣屋大名で詰衆並の大名40家が着座した。




  
  



 江戸幕府の本丸職制配置図      

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老中と大老


老中は江戸幕府の職名で将軍を補佐して政務を執る者である。25千石以上の譜代大名より任じられ、公家、財政、寺社、外交などにあたる。寛永11年(16343月、酒井忠世、土井利勝、酒井忠勝らが任じられたのが始めである。大老は老中後の名誉職で、必要に応じて登城した。





江戸城本丸御殿表向間取図万次2年(1659


玄関前門から表御殿の玄関に入り、表坊主の案内で畳敷廊下をこえると遠侍(御徒詰所)、次之間、殿上之間がある。さらに進むと虎之間(書院番詰所)から奥に向かうと右に蘇鉄之間、左が大広間で将軍に謁見するまで定められた控の間で待機する。本丸御殿には「何之間」と呼ばれる大名の控え座敷と、「何部屋」と呼ばれる役人の詰所がある。




それら幕臣の役職には役方と番方があり、役方とは、老中・若年寄・各奉行・諸役人で行政官吏(文官)である。番方とは、大番・書院番・小姓組・新番・小十人の五番方に代表される軍隊組織(武官)である。平時の彼らは城中の定められた部屋に詰めて警護にあたり、将軍の出遊時に随行することが主な仕事であった。




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朝廷と幕府の儀式


江戸幕府では毎年の正月13日に将軍名代として高家が京都御所に上り、禁裏に参内して新年の祝賀を申し上げ、禁裏(天皇)、仙洞(上皇)、女院、女御に進物を献上する。朝廷は答礼として、朝廷と幕府の間を取り持つ武家伝奏役の勅使が江戸に下向、将軍に拝謁して天皇の聖旨、上皇の院旨を伝える。勅使が江戸城を訪れるのは2月下旬か3月上旬で最も遅い年頭行事であった。この慣例は朝廷と幕府の関係を密接に保つための重要な儀式であり、朝廷、幕府の双方とも最大級の饗応を持って応接した。






朝廷の勅使院使が大手門より入城

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江戸城大広間管弦之図


文政6年(1823227日勅使一行は江戸着、31日登城、11代将軍家斉と世嗣家慶に年頭の挨拶を行なった。また、この年は管弦の家の公卿たちも一緒に下向した。翌日に管弦の演奏がなされ、その様子を描いたのが大広間管弦図である。中央の大広間下段左に勅使3人、向き合う形で楽器を奏でる公卿7人が着座、琵琶2人、筝3人、拍子1人、謡1人で構成されている。幕に覆われ、張り出した席に京都から来た楽人と幕府お抱えの紅葉山楽人が座る。老中や若年寄りは勅使の後方、譜代大名は公卿の後方、奥医師は左側に配置された。もちろん、描かれていない将軍は上段に出御されている。



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勅使院使の登城路


伝奏屋敷⇒辰ノ口⇒大手御門⇒下乗御門⇒本丸

白書院(勅使・院使は大玄関まで駕籠で登城)



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元禄14年(1701)東山天皇の勅使である柳原と高野、霊元上皇の院使である清閑寺の3名と随員一行は、217日に京都を立った。311日一行は江戸伝奏屋敷へ到着後、老中、高家が勅使・院使に拝謁した。その際に勅使饗応役の浅野長矩も紹介された。12日には、勅使・院使が大手門より登城し、白書院において聖旨、院旨を将軍綱吉に下賜する儀式が厳粛に行われた。翌日の13日には、将軍主催の能楽の催事に勅使・院使が招かれた。この日まで浅野長矩は無事役目をこなしてきた。








勅使饗応役の殿中刃傷事件


元禄14年(1701314日、この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答する「勅答の儀」という幕府の1年間の行事の中で最も厳粛で格式の高い日であった。この儀式の直前、午前1140分頃、松之大廊下で儀式を司る高家筆頭の吉良義央と留守居役の梶川頼照と儀式の打ち合わせをしていた。




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そこに勅使饗応役の浅野長矩が背後から近づき
「此間の遺恨覚えたるか」と叫び、吉良義央に斬りつける殿中刃傷事件が起きた。これに激怒した将軍綱吉は、殿中抜刀の罪で浅野長矩に即日の切腹と赤穂藩浅野家5万石の取り潰しを命じた。





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「梶川筆記」によると、松の廊下の角柱から6間ほどの場所で吉良と立ち話をしていた梶川頼照は、吉良の後方より浅野が「此間の遺恨覚えたるか」と声をかけて、吉良の背中と額を斬りつけた。梶川は浅野を後ろから羽交い絞めにして取り押さえた。この殿中の刃傷事件が「忠臣蔵」の始まりである。





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松之大廊下は、本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長50m、幅4mの畳敷の廊下である。廊下の天井板を支える棹の角材断面が猿の頬の形をしていることで猿頬天井と呼ばれている。廊下に沿った襖に、浜の松に千鳥が乱舞する狩野探淵筆の障壁画が描かれ「松之御廊下」とも呼ばれていた。








将軍綱吉と生母桂昌院の従一位


当時の5代将軍綱吉は、文治政治の推進者であった。慶安の変後まで、数十万人の浪人が諸国に発生し、その原因となる大名の取り潰し、いわゆる改易を中心とした武断政治を悔い改めた。綱吉は儒教や仏教に傾倒していった。儒教では慈しみによる血の穢れを嫌い、仏教では哀れみにより武士の生き方を変える方策を模索した。大名や民衆が幕府への反抗心を捨て、彼らにとって目上の存在である幕府や将軍を尊敬するように朱子学を用いて文治政治を進めている最中であった。




綱吉自身も文治政治を実践する一環として、子の親に対する孝養として、生母桂昌院に従一位の叙位の動きを朝廷に働きかけていたのである。この年の勅使饗応の儀式は、単なる年始の挨拶の返応だけでなく、特別の意味合いがあった。時の将軍綱吉の生母桂昌院(家光の側室)に、皇族以外の女性では初の官位・従一位を、朝廷より贈位される手筈であった。これまで将軍の正室である御台所さえ、亡くなって従一位を叙位されるのが通例であった。




家光の生母崇源院は、没後に従一位を追贈されている。父家光の正室でなく側室の桂昌院が生存中に従一位を叙位されるように前代未聞の申し出を行なっていた。この前例のない叙位の申し出に困り果てた朝廷との交渉がたび重なる。これには、将軍綱吉、側用人柳沢吉保、高家筆頭吉良義央の3名で行なっていた。4年前から進めていた「桂一計画」は、朝廷とかなりの密議が難航した模様だ。しかも、吉良は113日の年始の挨拶以後、朝廷との高額な授与金額交渉に手間取り、229日に江戸へ戻っている。




この遅れで勅使饗応の儀式の準備が進んでいなかったことも事件の遠因とされている。この刃傷事件で「勅答の儀式」が血で穢されたが、翌元禄15年(17022月、改めて桂昌院に従一位が叙位され、以後「一位様」と敬称された。この叙位に最も貢献したのが柳沢吉保である。吉保は関白近衛基熙や朝廷重臣達への根回しを吉良に命じて行なっていた。柳沢吉保は、宝永元年(1704)甲斐15万石の甲府城主となる。甲州は神君家康が武田家から獲得した要所である。代々、徳川家松平姓のなかで将軍家に最も血筋の近い者のみが所領を許されていた。




幕府の直轄地であり、臣下に与えるはずのない領地を一介の側用人にすぎない柳沢吉保が甲府城主となる。宝永2年(1705)吉保は、御家門に列せられる。翌宝永3年には、異例の大老格に登り詰めた。これに準じたのが浅野長矩を羽交い絞めにして、5百石加増された梶川与惣兵衛である。江戸川柳に「五万石しっかり抱いて5百石」とある。吉保のように将軍に取立られた者を「近習出頭人」と言い、将軍の薨去と同時に没落する宿命にあった。





さて、赤穂事件の推移をみると、本来あるべき筋道では、咎人長矩への尋問、幕府評定衆の裁定、老中の審議などが一切ないことである。浅野と吉良との間にどのような異議対立があったのか詳らかにされないまま、一方的に処罰されたことに疑念が広がる。殿中の抜刀は死罪であるが大名に対する即日切腹の沙汰は唯一無二である。浅野はなぜ「勅答の儀式」寸前で抜刀に及よんだのか」である。数日まえに桂一計画を勅使から偶然知り得た浅野が吉良に尋ねると「お主のような田舎大名が口を挟むことではない」と一括された。




浅野は武士として忍び難く、5万石の城主として屈辱的な日々を悶々と過ごすが、ならぬ堪忍つい激情に駆られ「此間の遺恨覚えたるか」と刃傷に及んだ。吉良は日頃の軽口の言葉(言刃)で記憶すらない「遺恨一切身に覚えのないこと」一方的な被害者であるとお咎めなし。吉良との対立が叙位に起因するのであれば、勅使饗応役の浅野が知り得た朝廷との密議情報を発覚させる可能性がある。綱吉は、躊躇なく即日切腹の沙汰で秘密裏に進めていた「桂一計画」が明るみに出る最悪の事態を闇に封印できたことになる。




これは綱吉にとって2度目の処置である。17年前、将軍に推挙された恩もあるが、日々疎ましくなった大老堀田正俊が殿中で刺殺された。その場で犯人を老中全員で惨殺した。この事件でも一切の詮議なく封印された。浅野内匠頭長矩は、江戸城表向から不浄門(平川門)を出て、一関藩士の身柄受取りの駕籠で、愛宕下の陸奥一関藩主・田村建顕の上屋敷に向かい屋敷内の庭先で即日夕刻切腹となった。江戸城の供侍部屋では、議論沸騰、さて喧嘩両成敗でござろうか、下手をすると今夜にも雀が出るし鷹も出る。




雀とは上杉家の定紋、吉良の長男綱憲は養子先の米沢藩上杉家の四代藩主である。一方の赤穗藩浅野家は53千石だが、本家は広島藩浅野家42万石の定紋が違い鷹の羽である。雀が吉良の加勢をすれば、鷹も浅野の加担をせずにいられようか。不気味な緊張が漂った当日昼の話である。播磨赤穂藩(5万三千石)三代城主浅野内匠頭長矩(34歳)の殿中礼装「大紋」木綿の直垂に5カ所の染家紋(違い鷹の羽)である。



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武士の作法としての切腹は、武士の台頭した平安時代末期に始まった。本来は敵に斬首される前に潔く自刃する行為であった。その後に責任を執る「潔い身の処し方」、武士道の名誉の尊重や、死を恐れぬ勇気に結びついた切腹形式となった。潔く切腹して最後を飾る「自刃」、責任上に切腹して贖罪する「詰腹」、主君を諫めるための「諫言切腹」、罪状で武士の面目のため切腹して一分を立てる「刑罰切腹」、主君の死に忠誠心を表す「殉死」には、主君死後の「追腹」、やや時を経て「後腹」、主君に先立つ「先腹」などがあった。寛文3年(1663)4代家綱の治世下で保科正之が、主君の死に際して、忠誠心を表す「殉死」の禁止令を発布した。




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幕命の刑罰切腹は、武士として終焉を飾るため、名誉の尊重が儀式化したものである。大目付より切腹の即刻執行が告げられる。その儀式は公儀預け人の陸奥一関藩主の田村邸の庭上で行なわれた。通常、大名旗本は室内、それ以下の諸士は庭上であるが、罪の重さで判断された。庭上では周囲に竹矢来を結い、南北に出入り門を造る。真ん中に白縁の畳二枚を敷いて、切腹の座とした。切腹は夕方から夜間に行なわれるので、矢来には白い幔幕、座の傍らに燭台二本を置いた。浅野内匠頭は、白無垢に裃は無紋の水浅葱姿で、切腹刀の切先を左脇腹に突き立てた刹那に介錯された。







赤穂義士劇「仮名手本忠臣蔵」


元禄151214日夜、大石良雄以下四十六名が主君浅野長矩の仇、吉良義央を討ち泉岳寺の墓前に首級を捧げる。本懐を遂げた四十七士は、大目付屋敷から細川、松平、永野、毛利の四家に預けられ、翌年2月に切腹の沙汰があった。義士仇討事件落着12日後の元禄16年(1703216日から江戸中村座で「曙曽我夜討」という題名で十郎、五郎の夜討を義士の夜討になどらえて上演したのが忠臣蔵劇の始まりである。その後、宝永3年(1706)6月近松門左衛門作の「碁盤太平記」が大阪竹本座で上演された。さらに、寛延元年(17488月「仮名手本忠臣蔵」が同じく竹本座で上演された。




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仮名手本は、江戸時代の寺子屋で使われた文字の読み書きのお手本であった。「いろは四十七文字」と「赤穂義士四十七名」は同数で、義士は忠臣の手本となる。そして、大石内蔵助の蔵を暗示した「忠臣蔵」は、人形浄瑠璃から生まれた歌舞伎の最高傑作である。

「いろは武士かねてちりぬる覚悟なり」






江戸城本丸・松之大廊下跡碑 

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by watkoi1952 | 2015-11-16 21:56 | 江戸城を極める | Comments(0)