日本橋魚河岸発祥の地


日本橋魚河岸発祥の地





日本橋の北詰東側に魚市場が並び、河岸には魚を積んだ舟が群がっていた。天正18年(15908月朔日、徳川家康が江戸入府の際、摂津国西成郡佃村と大和田村代表の森孫左衛門が公許を得て、両村の漁師33名と住吉社の神主が日本橋本小田原町に居を構えた。寛永年間に江戸湊の鉄砲洲向いの干潟地を幕府から下賜され、永住と海上偵察を含む漁業権を得た。この地を漁師が埋め立て築島とし、正保2年(1645)故郷の佃村にちなんで佃嶋と命名し、翌年住吉神社を創建した。




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日本橋魚河岸の繁栄


日本橋魚河岸は、寛永年間の頃、佃嶋の漁師に鯛を筆頭に35種の魚介類を江戸湊・日本橋川・道三濠・辰ノ口・和田倉門の経路で江戸城内の膳所へ献上させていた。その帰途に余った魚を日本橋本小田原町での販売を認可したことに始まる。そこで魚を獲る人と商う人が分離され、本格的な魚市場に発展する。そこで諸国の漁業者の四組問屋が結成され、本小田原町、元船町、本郷町、按針町と魚市場が拡張されていった。




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江戸の人口急増とともに大いに賑わい粋で鯔背な江戸っ子気質の発信地となった。魚河岸の成立時には、江戸城の将軍家に献上するため魚荷車の先頭に「御用肴」の立札を掲げて、大名行列の間を進むことが許されていた。後に献上は廃され、幕府の魚納役所の役人が魚河岸に出向き鮮度の良い魚を選び市価の十分の一程度で買い付けていた。





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日本橋魚市場の近隣には、鰹節、海苔、練製品など海産物の店舗が繁盛していた。山本海苔店、鰹節・乾物の八木長、震災後京橋に移った山形屋海苔店、蒲鉾やはんぺんなどの練製品の神茂、佃煮の鮒佐、にんべんの鰹節伊勢屋など、江戸魚市場由来の老舗が多い。






日本橋正月二日の初売の賑わい

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日本橋魚河岸図


一石橋・日本橋・江戸橋との間の北河岸一帯には、魚問屋・魚仲買・汐待茶屋・飲食店などが軒を並べていた。向いの南河岸の四日市には、干魚や塩魚を扱う問屋があった。さらに、上総や安房の外房や伊豆半島に紀伊など関西方面から画期的に進んだ網漁法をもつ漁民が進出してきた。寛永6年(1629)には、伊勢の海士船の鮑漁や承応年間(165254)紀州の漁民が房州の浦々に出漁した記録が残されている。




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天保6年(1835)十五夜月見の日に、江戸城へ納めた鯛170尾、かれい700尾、あわび800個、伊勢海老1200尾を日本橋魚河岸から納めた記録がある。徳川幕府に恩義を感じている日本橋魚河岸の人々に、幕末にペルーの黒船来航で幕府はその動静を探る密偵の役目を佃島の漁師に命じた。手漕ぎ舟で日夜黒船を見張り様々な情報を幕府に提供した。





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江戸っ子と初鰹 


高速の押送船は12名の船頭が交代で八丁の艪を漕ぎ、房総沖や相模湾から半日で日本橋魚河岸に到着した。塩干物は陸路でもよいが、鮮魚とくに江戸の風物詩である鰹は、足が速いので八丁艪の高速押送船で江戸へ向かう。



「初鰹、百足のような、船に乗り」 江戸川柳





文化9年(1812)日本橋魚市場に入荷した初鰹17本の内6本は、将軍家に献上された。残り11本は競りにかけ、12両1分で料亭八百善が3本、歌舞伎役者が1本などと、将軍家の御膳に上るより先に口に入れた。また魚市場の初鰹よりも、品川沖に船を出して日本橋魚市場に向かう押送船に小判を投げ込み買い付けるのが江戸っ子の心意気であった。



「鎌倉の海より出し初松魚 みな武蔵野の原にこそ入れ」


狂歌師 太田南畝







富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」

             北斎が描いた押送船

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日本橋魚市繁栄図1

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日本橋魚市繁栄図2

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日本橋魚市繁栄図3

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日本橋魚市場の荷揚場図


荷揚場には、平田舟と呼ばれた潮の干満で上下する浮き桟橋が設置されていた。固定桟橋は川を狭め船の運航の妨げとなるので、桟橋の代わりに平田船を繋ぎ不要時には移動させられる。荷船は平田船に接着して魚を揚げ、船上で問屋に渡す。問屋は仲買人に配分して小売りに渡す。小売りは、納屋の庇下の板台に魚を並べて料理屋や棒手振りなどに売った。





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日本橋北詰の①番平田舟から下流江戸橋の㉕番まで平田舟が繋留していた。江戸から受け継がれ大正期には、①②番は芝金杉市場、千葉寒川から深川、越中島、州崎、羽田、横須賀方面。③番の木更津方面、までが人気の江戸前の魚、④番~⑧番の平田舟は、利根川経由で送られてくる外房の魚である。





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⑨番~⑭番までは、押送船用、伊豆、三崎、上総方面の遠海物を運ぶ⑮⑯番は、魚腸骨回送用、魚のあらが肥料用に下総などの業者に送る。⑰~⑳番は、内外房州方面の鰯など多獲魚。㉑㉒番は空桶返送用。㉓番は船橋方面から平押舟で運ばれる小型魚。㉔㉕は廃船用である。





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関東大震災で壊滅した日本橋魚市場


江戸時代から続いた日本橋魚市場は、明治10年(1877414日に日本橋魚市場組合を設けた。江戸東京の食品流通を担って300年続いた日本橋魚市場は、大正12年(192391日の関東大震災で壊滅した。




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江戸三百年の板舟権


昭和3年(1928811日、日本橋魚河岸移転に伴う板舟権の補償を巡る問題が発生した。築地へ移転中の魚河岸関係者の理事と、東京市議会議員との間で汚職事件が発覚して、逮捕拘留議員25名の大疑獄事件に発展した。これに対して、昭和312月、内務省は東京市議会の解散を命じた。板舟権とは、市場で魚を売買する営業権の一種で、江戸時代より認められた板舟を並べる権利であった。




田舟を利用する権利は営業権の象徴として売買、譲渡され、さらに賃貸され高価な権利となっていた。日本橋市場内で魚を販売するため、幅1尺長さ5尺の平板を並べ板舟と呼んでいた。また、船荷の魚を河岸で陸揚げするため、一旦、浮舟に積む。この浮舟を平田舟という。築地移転では板舟権の権利を失うことになり、東京市がこれを賠償すべきか否かが問題になっていた。







昭和10年(1935)に中央卸売市場が開設する。築地海軍用地6万坪に総工費15百万円で、東洋第一の食料市場の完成に向け着々と工事が進められている。


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汐留貨物駅より築地市場へ引込線図

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昭和10年築地に開設した東京中央卸売市場の全景

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平成30年(20181011日に豊洲市場の開場


東京中央卸売市場は、昭和10年(19352月の開場より水産青果物などの生鮮食料品の基幹市場として、都民の食生活を支えてきた。しかし、近年施設の老朽化が進み、汐留駅からの貨物引込線時代の湾曲施設のため、増加する大型トラックでの搬入出の動線混雑で非効率な作業が常態化していた。これまで築地場内市場は、反対運動もあり移転計画は紆余曲折していた。




平成30年(2018106日の最終営業日をもって、83年間に及んだ築地卸売市場の歴史は幕を閉じた。江東区の豊洲新市場に移転後の1011日に開場する。築地市場の跡地は、東京五輪開催時の輸送車両基地となる。また、勝鬨橋の下流には、隅田川に架かる29番目の「築地大橋」が, 平成26年(201458日に架橋された。2020年の東京五輪では、競技場が集中する臨海部と都心部を結ぶ環状2号線となる。




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隅田川、築地市場、浜離宮、汐留貨物駅、新橋駅の俯瞰

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by watkoi1952 | 2012-09-05 14:31 | 日本橋百景 | Comments(0)