和田倉御門


和田倉御門




和田倉門は元和6年(1620)に築造され「蔵の御門」とも呼ばれ、士衆通行の橋とされていた。和田「わた」とは、海の名称で「わたつみ」と同じ意義である。慶長10年(1610)頃から日比谷入江に望んで倉庫が並んで建られ、和田倉と呼ぶようになった。江戸湊からの船荷を道三濠の辰ノ口で荷揚して和田倉で集積保管していた。



御門の大番所に詰める警備は、二、三万石の譜代大名が担当、鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組を常備していた。番士は5名は、羽織袴を着用、将軍御成りや大名登城御礼日には、必ず裃着用が命じられていた。




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明治元年に明治天皇が初めてご東幸の際、呉服橋門から和田倉門を通り江戸城西ノ丸から入城された。和田倉橋は平川橋とともに江戸城の木橋を復元した貴重な江戸景観の橋である。和田倉門と渡櫓門は石積を残して撤去されたが、和田倉門の高麗門は、半蔵門に移築され今もその役割を担っている。




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和田倉橋と追廻馬場

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会津藩邸の兵部省と銀座大火


明治2年(18697月、明治新政府は和田倉門内の陸奥会津藩主松平容保の上屋敷に、旧幕府軍を威圧する目的で軍事防衛を司る兵部省を置いた。この一帯の皇居前や丸の内に政府の官庁や軍事施設を置いた。明治310月に陸海軍の階級制が定められ、全国から常備兵を徴収して、陸軍はフランス式に、海軍はイギリス式に軍事教練を開始した。



明治5年(1872226日、会津藩邸の兵部省官舎から出火、折からの強風に煽られて、丸の内、銀座、京橋、築地、新築の洋風築地ホテル館と34ケ町の28万坪を焼き尽くした。しかし、「会津藩邸大火」や「兵部省大火」ではなく、何故か「銀座大火」と呼ばせたのである。最後まで抵抗した旧幕府軍の権威であった会津藩松平容保の上屋敷を新政府軍を鼓舞する目的で置いた兵部省が、裏目に出て大惨事の火元となった。




巷間、新政府軍と最後まで戦った会津武士に若松城砲撃に対する怨念説が囁かれ始めた。これを恐れた新政府は、大惨事の発生2日後の228日に突然兵部省を廃止した。この大火災で新政府の官庁の多くも焼失した。早々と山縣有朋の陸軍省と勝海舟の海軍省を新設して、霞ヶ関と築地に移転と定めた。さらに陸軍を常備・後備・国民兵役の三軍とし、初代陸軍大将に西郷隆盛を任じた。同時に天皇を警護する北の丸の御親兵は「近衛兵」と改称された。





明治16年(1883)陸軍軍用図

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しかし、新政府は莫大な移転費用を捻出するため、明治23年(1890)丸の内一帯と神田三崎町の講武所跡の官有地合わせて10万7千坪を売却することに決定した。あまりに高い入札額に入札者は皆無であった。困り果てた政府は三菱財閥二代目の岩崎弥之助に128万円で一括買い取らせた。当時,東京市の年予算の3倍で買い取った弥之助も資金が底を尽き、10年間開発ができず、荒れ地に風が吹き渡る「三菱ヶ原」をと呼ばれていた。明治44年(1904)までに赤煉瓦造り18棟のビルを建設してビジネス街「一丁倫敦」となった。





銀座の不燃煉瓦街


この厄災から明治新政府は、不燃化都市を目指した。東京府知事由利公正の主導で、大蔵省雇トーマス・ウォートルスの設計により、銀座中央通りに不燃煉瓦街の店舗建設が計画された。明治5年(1872)鎮火後に着工して、明治10年(1877)に銀座煉瓦街が竣工した。




わが国初の歩道と車道を区別した27m幅の道路に向かい合う銀座煉瓦街大通りに初のガス燈が灯された。金杉橋から京橋まで銀座通り沿いに85基のガス街灯が灯った。古くは銀座通りといえば銀座1丁目~銀座4丁目(尾張町)までだが、銀座煉瓦街大通り完成を契機に銀座5678丁目の汐留川東岸まで銀座街が延伸した。




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銀座煉瓦街は、1階店舗、2階住居の職住近接であった。だが震災後には職住分離を求め、多くは近郊に住居を移した。







大正12年(1923)の関東大震災で不燃化都市の銀座煉瓦街通りは、無残にも壊滅した。地震のない国の設計師には、耐震性建築という概念に乏しく、煉瓦はひび割れ倒壊した。銀座は、かって江戸前島の砂州地で、液状化する砂上の煉瓦楼閣であった。多くの銀座一帯の老舗店舗は継続するが、職住分離、住居を求めて東京府下に移転し始めた。荏原郡戸越村には、地震難民が押し寄せた。



戸越の水捌けの悪い谷地のインフラ整備のため、処理に困った銀座の煉瓦を無償で引き取り、道路舗装と排水、下水道工事を行ない人口増加に対応した。この商店街は、銀座煉瓦の再利用から「戸越銀座商店街」と命名した。全長1、3kmの商店街は、中央街、商栄会、銀六会の三商店街からなる。銀六会は、煉瓦の引取地が銀座六丁目であったことに由来する。戸越銀座は、全国に300ある「○○銀座」という地名の元祖で、唯一銀座の煉瓦を使った商店街である。






和田倉橋とパレスサイドホテル

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和田倉橋と新装パレスサイドホテル
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和田倉門内、警備の詰所・大番所と番兵、枡形門の渡櫓門
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和田倉噴水公園に残る渡櫓門の石垣
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和田倉噴水公園と巽二重櫓
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by watkoi1952 | 2012-07-08 13:31 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)