半蔵御門


半蔵御門



半蔵見附門は、寛永4年(1627)に大手門(追手門)と、正反対の裏手に位置する半蔵門(搦手門)として建造された。裏手から出撃して正面の敵を搦め取ることから名付けられた。現在の半蔵門は東京大空襲で焼失したため、和田倉門の高麗門を移築したものである。この門の警護を担当した大身旗本・服部半蔵正成の組屋敷が門前にあり、半蔵門と命名した。半蔵には、家康より伊賀越えで功績のあった伊賀同心の指揮権を与えられ、与力三十騎、伊賀同心二百名を配下に置いた。城門警備では、番士4名勤務、鉄砲10挺、弓5張、長柄10、持筒2、持弓1を常備していた。

 


半蔵御門_a0277742_12415.jpg




家康は徳川将軍家の仮想敵国を薩摩国島津家と定めた。第一防衛

熊本城、第二は小倉城、第三は大阪城、第四は名古屋城、第五

は箱根関、第六は戸城、第七の甲府城が徳川家の最終決戦地と

想定配備した。実際に第一防衛線は西郷隆盛の西南の役、第七防

衛線は近藤勇の甲陽鎮武隊が甲州城に向かった。





半蔵門は、江戸城防備の搦手門で甲州街道の起点である。甲州街道は、江戸城に直結する唯一の街道であり、有事の際に幕府の天領地である甲府城へ向かう退路となる。家康は、江戸入府時に直参旗本軍勢の居住地を麹町に定め、順次番方の住む町屋敷が拡大してった。




半蔵御門_a0277742_17024831.jpg




幕府は、麹町周辺に徳川御三家、親藩屋敷、旗本屋敷をはじめ、伊賀同心の屋敷を配置した。甲州街道は、浸水被害を受けにくい尾根筋に整備されている。四谷御門が置かれると服部半蔵配下の伊賀同心は四谷に移り、伊賀町、箪笥町で西の護り固めとした。さらに半蔵門および四谷門の濠を深くして防備を厳重にした。すでに八王子には武田家ゆかりの千人同心を配置している。




半蔵御門_a0277742_11584550.jpg




現在の半蔵門は、主に天皇・皇族の日常の出入口に用いられている。13万坪の吹上御苑には、天皇の住居である御所などがある。天正年間以前には、局沢と呼ぶ地名で、十六の寺院があった。家康が入城して、江戸城拡張工事で寺院を郭外へ移した。明暦の大火後には、御三家の屋敷も移して、吹上庭園とした。






半蔵御門_a0277742_1244370.jpg




半蔵御門_a0277742_1724114.png








by watkoi1952 | 2012-07-06 12:06 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)