市谷御門


市ヶ谷御門



市ヶ谷御門は、寛永13年(1636)美作国津山藩主の森長継が築いた。通常の枡形門は、橋を渡り高麗門に入ると、左右いずれかの渡櫓門から出る。市ヶ谷門は、地形から左右に渡櫓門を設けられず、左斜めに直進して通り抜ける。枡形の周りは、広小路でそれを囲むように旗本屋敷が立ち並んでいて、左正面に渡櫓門を置いた。市ヶ谷見附の周辺に多くの桜が植えられ桜の御門と呼ばれた名所であった。


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市ヶ谷御門図絵

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市ヶ谷御門の土橋に架かる市ヶ谷橋から、右上に市谷八幡の本殿、中央左上に尾張徳川家上屋敷を望む。


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尾張徳川家上屋敷内の侍長屋(大正5年(1916)撮影)


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市谷亀ヶ岡八幡神社

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尾張徳川家上屋敷62万石(83千坪) 


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江戸城総攻撃の舞台


明治元年(1868)官軍の江戸城総攻撃は、東海道、東山道、北陸道の三方面から行われた。東山道軍の総督参謀・板垣退助は、土佐と因州の兵を率いて甲府城を陥落した。さらに甲州街道を江戸に向い、314日内藤新宿に到着して本陣を置いた。やがて、品川宿や板橋宿に全軍が集結すると、市谷の尾張徳川家上屋敷に布陣した。徳川将軍家の親藩である尾張家をまつ先に官軍が占拠して、幕府方に精神的な圧力をかけた。



戦略上有利となる標高30mの市谷台から外濠を隔てた江戸城へ大砲の筒先を向け、包囲網は完成した。緊迫した状況下における三田薩摩屋敷で西郷隆盛が勝海舟と交渉し、414日に江戸城無血開城となった。徳川藩邸は「東京鎮台砲兵営」となる。その後、官軍の母体は陸軍幹部となり、その教育諸機関を藩邸内に置いた。以後、陸軍士官学校と中央幼年学校、陸軍大本営、陸自市谷駐屯地を経て、防衛庁から防衛省と変遷を重ねた。





陸軍士官学校


明治4年(1871)尾張徳川家上屋敷跡に、創設した陸軍士官学校は、正門も現防衛省と同じ位置にある。



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市谷濠の桜と甲武鉄道時代の1両編成電車
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市谷御門の枡形石垣の烏帽子石を日比谷公園に移設展示している。
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by watkoi1952 | 2012-05-29 11:39 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)