江戸城の天守閣




江戸城の天守閣



江戸城の天守閣は、初代家康の慶長12年(1607)連立式層塔型五層五階地下一階、2代秀忠の元和9年(1623 )独立式層塔型五層五階地下一階、3代家光の寛永14 年(1637)独立式層塔型五層五階一階と将軍の代替えごとに3度建築されている。特に3代将軍家光の代に、わが国最大級の寛永天守閣が竣工し、江戸幕府の権威を天下に示す威容を誇っていた。江戸城総構の周囲四里と日本最大の城郭となった。




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江戸図屏風に見る寛永天守閣


家光の時代を描いた江戸図屏風の天守台は小天守を付設した南が正面で、石垣は南北36.5m、東西33m、石垣の高さは11mである。天守台の地下室は深さ4m、広さ135坪の御金蔵・武器庫であった。その上の天守一重は336坪、二重、三重と順に狭くなり、最上階の五層は92坪である。石垣の下から金鯱までの高さは51.5m。屋根は瓦葺きで、壁面は白漆喰の塗込めに、より防火に優れた黒い錆止めを塗布した銅板を要所に用いて火災旋風に備えた。天守の上に金色の鯱をいただく外観五層、内部六階の寛永天守が聳えていた。





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三日月濠(乾濠)より北桔橋御門と寛永天守閣を望む

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江戸城初代天守の位置

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家康の慶長度天守は、上図の武州豊嶋郡江戸古図の位置である。下図の中奥西に位置する連立式天守で確認できる。しかし、下図の連立天守の三層小天守は描かれていない。初代の慶長度天守は西側の蓮池濠に凸張出した石垣上の三層小天守は高石垣共に構造上の負荷で崩落したと推察できる。





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慶長12年(1607)に完成した家康の慶長度天守は、7年後の慶長19年(1614)10月25日の広域地震(M7、7)で池上本門寺の五重塔が傾く記録がある。翌慶長20年(1615)6月1日、震源地江戸直下の「慶長江戸地震」(M6、4)が江戸城下を襲った。家屋の倒壊、地割れ、死者多数の記録がある。




蓮池濠の軟弱地盤に20mの高石垣を築き、その法面上から西の防御力を高める張出の三層小天守を築いた。これは藤堂高虎の縄張した張出ではあるまい。眼下に蓮池濠を広範囲に望むよう要求された張出の三層小天守であろう。その軟弱な重構造は二度の地震に耐えられず崩壊したのである。それらは、後の頑強に再建した高石積に如実に現れている。






   崩壊した張出し三層小天守の位置

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江戸始図の本丸図

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元和8年(1622)本丸拡張で新に天守閣を築くため、本丸北側の三日月濠を埋足して乾二重櫓を築き、本丸一段下の北出丸を本丸と高さを一体にする強固な地盤固めの本丸拡張工事が行われた。天守台構築は、阿部正之を奉行に九月から始まり、翌元和9年三月に落成した。この工事によって天守が蓮池濠の軟弱な石垣法面から離れた旧北出丸に移された、現在の天守台石垣の位置である。




 
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   二代天守台の構築前に補強した高石垣の算木積。




   


初代慶長度の連立式天守


初代家康の江戸城は、まだ戦国騒乱の時代であり、豊臣氏との最終決戦に備えた縄張りを配した戦国城郭を築いていた。江戸城最古の江戸始図が描かれたのは、慶長12年(1607)天下普請で江戸城天守閣が完成した頃である。すなわち、慶長20年(1615)大阪夏の陣で豊臣氏滅亡以前ことであった。




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地震で
崩落した張出し三層小天守

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威容を誇示する天守の変遷


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安土城天守     姫路城天守    名古屋城天守    江戸城寛永天守
天正7年(1579)  慶長14年(1609 慶長17年(1612) 寛永15年(1637








1.慶長天守(家康)


慶長8年(1603)江戸幕府が開府して江戸城大改修工事が始まる。慶長11年(1606)黒田忠之・浅野水晟によって天守台礎石が築造された。翌慶長12年(1607)に駿府城天守や名古屋城の造営に携わった大工頭・中井正清によって、初代の江戸城天守閣が完成した。連立式天守は白漆喰壁の鉛瓦葺きで、「雪をいただく富士山のよう」と評判になった。江戸城は征夷大将軍の居城で、本丸まで攻め込まれても天守曲輪が独立して戦える日本最強の城であった。しかし、防御施設の役割よりも権威の象徴として諸大名に家臣や民衆から崇められることを目的としていた。



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2.元和天守(秀忠)


慶長天守の連立式天守三層小天守の崩落に伴い、元和8年(1622)に天守台を北出丸に再構築した。元和九年(1623)に完成した元和天守は、城主の2代将軍秀忠を迎えた。秀忠は偉大な父家康に忠実な後継者であったがこれまで影が薄かった。だが重要な二代将軍としての重責を担いその役目は充分に果たしている。



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3.寛永天守(家光)


寛永15年(1638)三代将軍家光は、父秀忠の建てた元和天守を破却した。家光は父よりも祖父家康を敬愛しており、父の遺物を破却することに躊躇はなかった。天守台石垣は黒田忠之、浅野光晟、天守一重は水野勝成、二重は永井尚政、三重は松井康重、四重は松平忠国、五重は永井直清と7名の大名に命じた大掛かりな修築であった。元和天守を上回る木造建築で、八方正面を意識して四層の妻・平とも軒唐破風で飾り、外観五層、内部穴蔵一階、石垣上五層の世界最大といわれる壮大な天守を築いた。家光は秀忠の築いた日光東照宮の社殿も改築した。さらに承応2年(1653)にも天守を改造したが、明暦3年(1657)明暦の大火(振袖火事)で焼失した。



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江戸城天守閣炎上


江戸城天守閣の炎上は、三代将軍家光の嫡男家綱が四代将軍となって6年目のことである。明暦3年(1657118日未明から北西風強く、暫く雨も降らず江戸市中には土埃が舞い上げていた。午後2時頃、本郷円山町の本妙寺から出火して、駿河台、日本橋、本所深川方面に延焼、翌19日午前8時に鎮火した。ところが、同日午前10時頃、小石川伝通院表門下の大番衆与力宿舎より出火、駒込、水戸家下屋敷、飯田町、牛込見附から北の丸城内が炎上、本丸に火の手が迫った。



夕刻には強風に煽られ、麹町に火の手が上がり、桜田の大名屋敷、山王日枝神社から増上寺に延焼した。北の丸から家光の造営した天守閣二層目の銅窓の扉留具のかけ忘れで扉の隙間から火災龍旋風が侵入、瞬く間に天守閣が火焔に包まれた。さらに本丸要所の櫓や多聞に保管した大筒や鉄砲の弾薬に引火、これを機に本丸御殿、二の丸と主要な建物を全焼した。松平信綱は表座敷の畳を一畳毎に裏返し避難方向の目印として誘導、大奥の女性を避難させた。しかし、途中で風向きが変わり、西丸御殿は罹災を免れ、将軍家綱の避難先となった。




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江戸城本丸に火の粉が降り注ぎ始めるのを見た幕閣らは、安全な場所への避難先を慌てて模索し始めた。将軍家綱、老中には徳川家の菩提寺である上野寛永寺に避難との意見が多かった。将軍の補佐役の会津藩主保科正之は、「本丸は危なくなれば、西ノ丸にお移り頂けばよい。将軍たるものが火事に怯えて天下の府城から逃げ出すようでは鼎の軽重を問われ、引いては幕府の屋台骨が揺らぎかねない」と避難先を西ノ丸と決定した。






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20日早朝に大雪が降り、ようやく鎮火したが、3度連続した大火により、江戸城をはじめ大名屋敷五百、社寺三百五十余、旗本屋敷七百七十余、橋梁六十と武家地に八百八町を焼き尽くした。明暦の大火は死者十万数千人江戸期最大の被害をもたらした。大火の最中に謀反人による付け火との流言が飛び交い市中をいっそう混乱させた。豊前中津藩主小笠原長次、上総大多喜藩主阿部正能などは自邸を焼き捨てにしてまで江戸城の城門警護に馳せ参じた。仙台藩主伊達忠宗は家臣を二手に分け、千住宿・品川宿の警護にあたり有事に備えた。




当時の江戸の人口比率は、武士と家族が半分、町人が半分、面積は武家地六、寺社地二、町地二の割合であった。半分の人口が二割の土地にひしめく超過密都市であった。明暦の大火後、江戸城内にあった御三家以下諸大名の屋敷を全て城外へ、大名屋敷内の社寺は外濠の外へ移設して、武家・寺社・町人地を振り分けた。さらに防火のために広小路・日除明地・会所地を設けた。これら防災計画は将軍家の安泰と江戸城防備を前提に立てられ、その一環として幕府の中に定火消が置かれた。








江戸城天守閣の再建


4代将軍家綱は、直ちに再建を計画すると、加賀前田家は天守閣の天守台再構築を申し出た。それには訳があった、元和6年(1620)大阪城の天下普請で加賀の穴太衆は総指揮を執る藤堂高虎に石積みの落度をきつく咎められ名誉失墜していたのである。前田家では技術向上のため公儀穴太頭の戸波駿河や近江坂本の穴太衆を多数召し抱えていた。加賀領内から五千人の人夫を徴用、万次元年(1658)鍬始め、加賀藩主前田綱紀の総力を傾けた手伝普請によって、瀬戸内海の天領小豆島や犬島産の花崗岩で天守台を築いた。南側の小天守台は伊豆産の安山岩が混在している。同年927日に天守台を完成させ前田家は名誉回復を果たした。





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天守台礎石


再建された天守台礎石の高さはこれまでの7間から5間半と3mほど低くなっている。現在の天守台に見える花崗岩の焼跡は、文久3年(1863)本丸御殿焼失時のものである。明暦の大火で焼跡の残る天守礎石(伊豆石・安山岩)は、移設した中雀門で見ることができる。




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天守閣再建における保科正之の提言


4代将軍家綱の後見人で叔父にあたる幕府重臣・保科正之(秀忠の4男)は、天守閣の再建について、「織田信長が岐阜城に築いた天守閣が発端で、戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、眺望を楽しむだけの天守に莫大な財を費やすより、城下の復興を優先させるべきである」との提言で再建は後回しにされた。




しかも軍用に益なく、ただ観望に備えるだけの天守再建はこの際無用、天守は一城の飾りに過ぎない。この保科の提言の根底に、これまで初代慶長天守の三層櫓崩落、秀忠の代で北側の現在地に天守移設、家光は父秀忠との確執で元和天守の破却。三代で3度も建て替えるという愚挙を見かねて阻止したのである。





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天守無用論と江戸御城御殿守の再建之絵図


保科正之が天守無用論を唱えて40年後、6代家宣と7代家継に仕えた側用人の間部詮房と儒学者の新井白石は、正徳2年(1712)天守閣の再建計画を推し進めた。再建案は寛永度の図面を基に天守台石垣の上に55階、最上階に鯱鉾を置き唐破風と千鳥破風を配し、外壁に銅板張で仕上げた絵図と模型を作製して再建に備えていた。正徳210月、家宣の逝去で計画は中断、再度俎上に上がるが、正徳6年に7代将軍家継が没した。この間、新井白石らの失脚によって再構築に至らず、保科正之の提言を尊守すべく歴代将軍もこれに倣い継承されている。





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復元された南東より望む寛永天守

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中央気象台 赤坂葵町時代の復元図 


明治8年(187561日より、赤坂葵町の内務省地理寮構内に東京気象台が置かれ、気象と地震の観測が始まった。この地は上野国厩橋の松平大和守の屋敷跡で、現港区虎ノ門2-10ホテルオークラ内に位置する。明治15年(188271日より、この気象台施設が江戸城天守台周辺に移設された。


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中央気象台「天守台東京観測点

明治15年(188271日~大正11年(1922)に江戸城本丸の北側跡地に中央気象台が置かれ、天守台には風力計が設置されていた。明治20年(1887)に中央気象台と改称した。昭和31年(1956)に気象庁となる。これまで千代田区大手町の気象庁庁舎内で観測されていたが、平成26年(201412月から江戸城北の丸公園内の露場に移設して気象観測が行なわれている。東京都内の観測地点は、北の丸、練馬、世田谷、江戸川臨海、羽田、調布、府中、八王子、青梅、小沢、小河内に置かれている。




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天守台に設置された風力計を望む

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江戸城本丸跡俯瞰(皇居東御苑)

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明治新宮殿の建設用地の選定において


太政官による造営令で、明治新宮殿と主要官庁の建設用地の選定が行われた。明治12年(1879)6月「江戸城本丸は新宮殿建設に不適当である」と早々に決定された。周囲甚だしく壊頽しており、多額の造成費用を要する。つまり、本丸はもともと低丘地で周りの濠の開削土で20mの嵩上げ、崩壊を防ぐため周りを高石垣で寿司の軍艦巻のように補強して仕上げている。仮に地盤が強固であれば、桜田濠・半蔵濠・千鳥ヶ淵のように基礎部の腰巻石垣と上部の鉢巻石垣で仕上げられる筈である。




江戸時代の地震で何度も崩壊した高石垣を長年積直した記録もある。伊豆石の総石垣普請に瀬戸内産の花崗岩で補強した隅石の算木積石の白さが物語っている。しかも、地盤は軟弱で仮に水面より-40mの地下岩盤まで基礎工事を行なうと高さ20mの本丸高石垣の崩壊になりかねない。日比谷入江を埋立てた日比谷公園の軟弱地盤と同様に主要官公庁の建設地を断念して、岩盤の安定した西ノ丸に皇居、霞ヶ関が主要官庁街に選定された。さらに頑強な地盤に国会議事堂が建てられ、前庭には日本標高水準点の礎石が埋設されている。







江戸城内の地層断面図


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断面図左矢印の半蔵濠から吹上御苑を見ると、半蔵濠側の上部に盛土、その下に関東ローム層、渋谷粘土層、最下に東京層が見える。江戸城の盛土はすべて軟弱なローム層、粘土層、沖積層の開削土である。さらに下道灌濠より西ノ丸紅葉山、旧谷筋を掘り下げた道灌濠から20mの盛土に高石垣を築き、本丸全体の盛土が崩落せぬように石垣を巡らせている。




右端の桔梗濠の水面0mからー10mの沖積層は上流からの流土砂で築かれている。沖積層の代表的な江戸前島のなだらかな中央高所に銀座通りがある。桔梗濠のある皇居外苑から湾岸域には、地下ー40m以下に岩盤層があるため地下3~4階下まで地震に対応する基礎工事が必要である。その技術がない時代の丸ビルの基礎に5千本、東京駅の基礎には現在も10万本の松の木杭が地盤強化のため打ち込まれている。




江戸城初代の連立天守と高石垣の崩落


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江戸城初代家康の天守閣跡に隣接した富士見多聞下の20mの高石垣は、瀬戸内海から取り寄せた頑強な花崗岩で積み直し補強した白さが際立つて見える。初代連立式天守の西側の蓮池濠に凸出した高石垣上の三層小天守の石垣崩落で、現在の状態に積直し補強の跡である。築城石垣上の角地には二層、三層の隅櫓は多く見かけるが、凸に突き出した狭い高石垣上の張出し三層櫓は江戸始図が初見である。



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折ひずみ角斜地の花崗岩による算木積の補強状況から、富士見多聞下の高石垣は、地震による崩落のため、初代天守閣が新たに周辺地盤を強化した現在地に移動せざるを得なかったと推察できる。




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江戸城の梅林櫓に築かれた伊豆山の隅石は、地震の衝撃波に耐えられず崩壊した。何度もの崩壊に絶えかね、瀬戸内海の花崗岩で補強された算木積の白さが包帯のように際立っている。平川濠の向こうに国立公文書館が見える。





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江戸城寛永期天守模型の展示


令和2年(2020929日より、江戸城本丸の休憩所増築棟に寛永期天守模型の展示を開始した。宮内庁は、201710月から2年掛かりで江戸城寛永期の天守を復元した。寛永期天守は、慶長・元和天守を上回る木造建築で、八方正面を意識して四層の妻・平とも軒唐破風で飾り、外観五層、内部穴蔵一階、石垣上五層の世界最大といわれる壮大な天守である。



石垣の下から金鯱までの高さは51.5m。屋根は瓦葺きで、壁面は白漆喰の塗込めに、より防火に優れた黒い錆止めを塗布した銅板を要所に用いて火災旋風に備えた。天守の上に金色の鯱をいただく外観五層、内部六階の寛永天守が聳えていた。模型は高さ2m、縮尺30分の1で精細に復元されている。



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by watkoi1952 | 2012-05-27 15:15 | 江戸城を極める | Comments(0)