浅草御門
浅草御門
浅草見附門は、神田川が隅田川に注ぐ手前に位置する。見附門の橋は浅草寺に通じるので浅草橋御門、または浅草口とも呼ばれた。寛永13年(1636)越前国福井藩主の松平忠昌(家康の二男秀康の子)が、元初音森神社の跡地に枡形門を築いた。
浅草御門は、江戸六口の常盤橋門から奥州街道・日光街道につながる外濠の最北東を防衛する重要拠点である。この門を利用するのは、庶民が主体で将軍が出向くのは上流の筋違御門である。「浅草見附栄螺なら蓋のとこ」と川柳に詠まれ、江戸城の濠が螺旋でここが基点と思われていた。
浅草御門の高札場
江戸市中の六高札場の一つが、渡櫓門外の両国西広小路に見える。
明暦大火と浅草御門
明暦3年(1657)の明暦の大火で、猛火が伝馬町牢屋敷を襲った。そのとき牢奉行の石出帯刀は、多数の囚人を猛火から救う人道上の独断で切放ちを行なった。しかし、浅草御門の番兵が脱走囚人と判断して直ちに見附門を閉めた。そこに荷車などが押し寄せ門を塞ぎ、門内に行く場のない避難民があふれた。
行き場のない難民は、猛火熱風に焼かれ濠に飛込み、火傷水膨れの死体が浮かぶ阿鼻叫喚の地獄絵模様、死者2万3千人を出した。幕府はこの惨事に懲り、軍事上の規範を廃して、江戸市中の避難路「両国橋」が架けられた。江戸から両国橋を参道として、明暦の大火の焼死者10万人を弔う回向院が建てられた。
明暦大火後の火除地「両国西広小路」と江戸市
中より避難路と参道として架橋された「両国橋」
神田川河口より隅田川に架かる木製最後の両国橋
浅草見附の浅草橋上より神田川下流の柳橋を望む
柳橋より神田川上流の浅草橋を望む
東京府下自慢競「浅草橋」
浅草橋より神田川下流の柳橋を望む
by watkoi1952 | 2012-05-25 15:23 | 江戸城三十六見附 | Comments(0)